百八十七話 瑞稀、白露(七)

「どうしてそのまま行かせちゃったんですか!?」


 ビッグサイトの逆さピラミッドの足元に灰田さんを追い込んだ私は、大きな声を上げて詰め寄りました。夕暮れ近いはずの空は灰色に重く、雨もポツポツと降り出したようです。


「瑞稀ちゃん、声が大きいよ」


 灰田さんの弱々しい抗議など意に介したりしません。


「そんなのもう、答えを出してるじゃないですか、栄さんが。灰田さんと一緒がいい、って!」


 あなたの目は節穴なんですか! と一喝します。

 ホントになんなんですか、このひとは。仕事ではあれだけ気を配れて物事の裏の仕組みまで見通すような目を持ってるはずのこのひとが、そんなにもわかりやすく提示されてる栄さんの本当の気持ちを汲み取ってあげられず、あまつさえ彼女を置いて敗走してくるなんて。


「いいですか。灰田さんのお話しをそのままなぞりますが、栄さんはふたりの前で言ったんですよね、灰田さんのことが好きだ、って」


 尾羽打ち枯らした風情のしおれた中年男が力無く頷きます。


「そのうえで、安曇さんの実家には行きたくない、って言ったんですよね。はっきりと」


 お辞儀人形のように首を振る灰田さん。自信満々の普段の姿はどこいっちゃったんですか。


「それなのに、どうして栄さんを置いてきちゃったんですか、安曇さんの手許に!」


 悪事を看破され観念した中学生のように、灰田さんはぽつぽつと話し出しました。


「彼が、安曇氏がまだ充分にプレゼンできてない。そう思ったから」


 はあ? この期に及んで競合相手ライバルのプレゼン、ですか? なに寝惚けてるんですかこの御仁は。お相撲さんの取組でもしてるつもり?!


「僕は、僕の想いを充分に語った。大学時代のこと、翔子と結婚しなければいけないと観念した日のこと、十二年にも渡る不毛だった結婚生活、応接室で再会したときの喜び。それらを全部、詳らかに。そうして彼女が、栄がまだ僕のことを一番大事だと言ってくれた」


「それなら!」


「でも、安曇氏はまだ話してなかったんだよ。彼はまだ、自分のアピールをしてなかったんだ」


 彼の持ち時間はまだたっぷり残ってたんだよ。灰田さんはそうつぶやいてうなだれました。


 ああ、このひとは公正さに殉じようとしてるんだ。恣意的な不均衡を憎み、年齢や性別、立場などに惑わされることなく、常に正しく水平な土台の上でこそ天秤は量られるべきだ、と。

 私は理解しました。私という有象無象を登用し、初日から僕らは同じレベルのメンバーだと宣言してきた灰田光陽ミツルというひと。そのブレのない一貫性と高潔な理想には、本当に頭が下がる。下がりますよ。でもね。それとこれとは別でしょ。だから私は言っちゃいます。禁じられた言葉を、敢えて。同じレベルに立つ仲間として。


「馬鹿なんですか、あなたは」


 私の勢いに押され、灰田さんは跳ね上げるように顔を上げました。大きく見開かれた真っ黒な瞳に向かって、私は続けます。届け、と。


「その天秤の置かれた場所はぜんぜん水平なんかじゃ無いんですよ。灰田さんはわかってない。あのひとは、安曇さんってひとはブルドーザーなんです。山でも森でも小川でも、ぜーんぶ思い通りに開墾して舗装道路にしちゃうひとなんですよ。カラスだって真っ白に塗り替えちゃう。言ってみればポジティブのお化けなんです。そんな怪物のとこに今の栄さんを置いてったらどうなるかなんて、小学生の女の子だってわかりますよね。せっかく表に出すことができた彼女の本心なんて、速攻で壁に塗り固められて無かったことにされちゃうってことくらい!」


 真っ黒だった瞳の奥に小さな揺らぎが生じました。入り口に手がかかった?


「じゃあ、俺はどうすればよかったんだ」


 ああああああ! もう、腹立つ。


「簡単に過去形になんかしないでください!」


 灰田さんの両肩を掴み、私は言葉を紡ぎます。まるで自分の力じゃないみたいに、あとからあとからアイディアが湧いてきます。大丈夫。私は真っ直ぐな道を指し示せる。


「しっかりしてください灰田さん。あなたがかなめなんですから。今夜栄さんたちが泊まるホテルは聞いてますか」


 目の焦点が合ってきた。頷く首の振りも、切れが戻り始めてる。崩壊寸前だった灰田さんの心が立ち上がりかけているのがわかります。

 私は地面に投げ出された灰田さんの荷物を掴みあげました。


「いまからすぐに、そのホテルのロビーに行ってください。栄さんには私から連絡します。ロビーに降りて灰田さんと合流するようにって」


 頭の中をフル回転させます。

 いまが午後六時。あと二時間で全部終らせられるように。


「私、栄さんに連絡が付いたらタビモスに戻り、預けてる荷物を全部回収して羽田に向かいます。灰田さんの荷物の預かり証は?」


 内ポケットから取り出した長財布を探った灰田さんは、数字の入った半券を差し出してきました。それをポケットに押し込む私。指示を続けます。


「灰田さんは、栄さんと合流できたらすぐにタクシーで羽田にきてください。出発ロビーの出会いの広場で私が待ってますから」


「航空券は?」


 こんなところで気配りとか復活させなくていいから!


「そんなことは心配しなくていいから、とにかく灰田さんは栄さんを離さないで。もしも安曇さんが追ってきても、なんとかして振り切ってください。スジだとか公正だとかはそっちのけで」


          *


 ふたつのスーツケースを押して七時前に空港に到着した私は勢いそのままに、ろくに選びもしないでお土産を買い漁りました。渡さなきゃいけないひとの顔を頭の中でリストアップして、それをひとつずつ消し込んでいく作業。

 十五分で買い物を終えると、次は出会いの広場。ふたりの姿はまだありません。待ってる時間を利用して、私のスーツケースにお土産を押し込みます。途中なにかがケースの中に落ちたような気もしましたが、いまはとにかくスピード重視。どうせケースの中なんだから、中味出すときには出てくるでしょ。


 出発の二十分前、回廊の向こうから手を繋いで走ってくるふたつの影を見つけました。栄さんと灰田さんです。ふたりとも凄い形相で。

 駅伝のゴールで最終走者が飛び込んでくるのを待つチームメンバーのように、私は両手を掻いて彼らを招き入れました。


「瑞稀、無茶させるばい」


 息せき切っている栄さんに、私は出しておいた私の航空券チケットを突き出しました。


「搭乗手続きは済んでます。私のスーツケースも預けました。栄さんはこれで灰田さんと一緒に福岡に帰ってください」


 そう告げた私は、視線を灰田さんに移します。

 意図を理解してくれた灰田さんは、自分の搭乗手続きをするためにカウンターに走って行きました。


「ばってんそれって瑞稀んじゃ」


「栄さん、今から福岡到着までの間、あなたが波照間瑞稀です!」


「事故とかあったらバレてしまうとよ」


 そんな交通事故以下の懸念をここで吐くとか。アラフォーってみんなこんなにめんどくさいしゃーしいものなの?


「じゃあ聞きますけど栄さん、ここでルールに従って私が乗って飛行機が落ちたとして、やっと一緒になれるはずだった灰田さんを喪った世界でひとり生きるのと、自分が乗って一緒に落ちて死ぬののどっちがいいですか?」


 唇を噛んだ栄さんは、返事をせずに私の手にあったチケットをひったくりました。


「あとから文句言うたっちゃ聞かんけんね」


 涙を溜めた目を歪めて笑う栄さんに、私も意地悪な顔をして笑い返します。


「おあいにくさまです。私、明日は丸一日東京を満喫して、定価の飛行機でゆっくり帰ります。そのときの代金はあとでちゃあんと請求しますから」


「倍にして払っちゃるばい」


 こんどこそ、栄さんはちゃんと笑ってくれました。



「ありがとう波照間くん」


 無事にチェックインを済ませた灰田さんが、私の横に立たせていたご自身のスーツケースに手を伸ばしながら言いました。


「なんですか灰田さん、その他人行儀の呼び方は。来週の会社では、ちゃんと普通に戻ってくれてないと困りますからね」


 空港の係員が急かしにきたので、私もふたりの背中を押します。


「栄さん、スーツケースを預かってもらってるから、忘れずに受け取っといてくださいね。帰ったら栄さんちに取りに行きますから」


 右手を挙げて頷く栄さん。係員に促されたふたりは、踵を返してゲートに入っていきます。

 手荷物検査で立ち止まっているふたりに向かって、私は大きな声で叫びました。


「今度詳しく聞かせてもらいますから、一席用意しといてくださいよ。必ずふたり揃ってで」


 ふたりの影が完全に見えなくなってから、私はスマートフォンを取り出しました。今夜の寝床を伯母にお願いするために。


          *


「ベッドも確保できたしさぁ向かおうって思ったら、・・・・・・無かったんです。お財布が」


 半円を描いて往復するワイパーの動きを見つめながら、私はぼそぼそとつぶやきます。あのときスーツケースの中に落ちたのは、私の財布だったに違いありません。中にはお札もSUGOCAもクレジットカードも。


「どうにかしようにも、私の財布は灰田さんたちと一緒に飛んでっちゃったし」


 運転席の皆川さんは、にこにこしながら聞いてます。

 夜の道。まして雨の中ですから、外を見ていてもいったいどこを走っているのかまったくわかりません。でも、なぜか不安は感じない。車の中で男のひととふたりきりなんて直人以外では初めてなのに、皆川さんならちっとも怖くないのです。

 最初は、元気がよくてちょっと前のめりな年下っぽい男の子ってくらいの印象だったのに。


「でも、本当によかったですね。元のサヤに収まって。お医者さんは、ちょっと可哀想かもですけど」


 そう言って笑う皆川さんの運転は、水滴に流れる白やオレンジの光に乗って、とても快適なものでした。

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