百六十一話 瑞稀、立秋(四)

 先々週の後半から出張だった灰田さんは北日本行脚の大移動だったらしい。札幌からはじまって、青森、秋田、仙台、福島、水戸の支社、営業所を木曜から月曜まで、土日も移動や見学に費やして回ってきたというお話です。地名は聞いたことあってもどのあたりなのかわからない場所ばかりですが、とにかくお忙しかったと想像するしかありません。

 先週月曜の夕方、今回最後の訪問先の東京本社をあとにされた灰田さんは、その日の夜から動き始められたということです。


「アズミグランドホスピタルという名前を見つけるのにはちょっと手間取った。昔は安曇病院って普通の名称だったらしいんだけど、七年前の建て替えの際に名前を替えたんだそうだ。おそらく世代交代を意識したんだろう。内科、形成外科、産婦人科、泌尿器科と手広くやっていて、世田谷ではちょっと有名な病院、ということだった」


 少し前にビールから日本酒に切り替えた灰田さんは、煮こごりを口に運びながら話を続けます。


「今月号の連載を見て彼の名前を知ってしまったら、どうにも抑えが利かなくなっちゃって。このタイミングの東日本出張は天啓みたいに思えてしまったんだ。おかげで瑞稀ちゃんにも迷惑をかけてしまった。我ながら大人げない」


 切り子細工の小さなステムグラスに注いだ冷酒をひとくち含み、東北のもよかったけどやっぱり僕は灘が好きだな、などと間をとる灰田さん。


「近所にホテルをとって、近場の商店街で聞き込みをした。病院の評判は悪くなかったよ。内科の大先生はまだまだ健在だし、産婦人科と泌尿器科をそれぞれ担当してる娘さんふたりも信頼されていた。ただ・・・・・・」


 一旦口ごもった灰田さんは、グラスを空にしてから虚空を見上げた。


「地元の定食屋のおばさんが言ってたんだ。若先生も早く帰ってくればいいのに、って」


 病院名を替えるきっかけは、やはり安曇あずみ凛太郎りんたろう氏の結婚にあったようです。高校時代から浮名の絶えなかった凛太郎さんが身を固めたということで、地元ではちょっとした話題になっていたんだとか。戦前から続いていた安曇病院もこれで安泰だ、って。だから改名し、病院自体もリニューアルしたところでの出奔はかなり衝撃だったんだそうです。


「形成外科の病棟だって若先生のために建てたワケだし、って店のご主人も教えてくれた。この七年間で形成外科の先生は三人も代わったんだそうだ。医局を出てすぐの若い研修医あがりたちの、独立前の踏み台みたいになってるようだ。本来の主人が戻ってくるまでの繋ぎとして」


 灰田さんは彼の母校にも足を運んだのだとか。ヘッドハンティングの調査員などと詐称までして。


「彼自身の評判もよかったよ。軽率な面はあったけど、素直に育ったいいとこの坊ちゃんで、意外にも粘り強いところがある、というのが訪ねた先生たちの共通の評価だった。夜遊びもきれいなもので、近場のスナックのママたちからも愛されていたようだ。若いのに飲み方も綺麗だし気っ風もおあいそも上々だった、と」


 取り分けたのに手をつけてないマリネサラダを見下ろしながら、見違えるくらい消沈した灰田さんがぼそりと呟きました。


「なんか俺の上位互換を見てる気がしたよ」


          *


 木曜日の仕事を終えて会社を出ます。

 天童さんはご家族旅行の四国お遍路第二弾で今日からお休みしてるし、水晶ちゃんは今夜から例のメンバーでキャンプに行くんだそうです。涌井さんもご実家のお盆の手伝いを頑張ってお祖母さまからのお小遣いをせしめるんだ、ってはしゃいでたし。

 みなさん予定があっていいですね、って言ったら、あなたは沖縄があるでしょ、と返されました。そうだった。来週末には出掛けるんだった。東京まで祖母を迎えに行って、それから石垣島経由で波照間島に。三連休の間に準備しとかなくちゃ。

 そんなことを思い返しながら地下鉄に乗っていたら、ふと帰り際の灰田さんを思い出しました。今週末は大阪に行く、と言っていました。ご実家に顔を出して、それから前職の同僚のひとたちと会ってくるんだとか。

 あの夜の灰田さんに私は、がんばって、と言えなかった。そんな空疎な応援などとてもできそうになかったから。

 いまの栄さんが安曇さんとどんなつきあいをしてるのかはわかりません。栄さんと最後に顔を合わせたのはポレポレから部屋飲みに流れていった先月半ばの日曜日だから、かれこれひと月近く会えていない。もともとあまりSNSは得意じゃない方だから、こうなってしまうとLINEでの会話なんかもほとんど途絶えてしまう。

 これじゃいけない。

 決めました、私。曾祖母おばあに逢いに行く前に、栄さんとちゃんと会ってお話ししようって。

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