百八十三話 瑞稀、白露(五)
スタッフTシャツにボーダー柄のボレロを羽織って受付に座る私は、ノートPCのエクセル表を見つめて頭を抱えています。開いているのは、本日予約されているお客様との商談の時間割。二列のセルを十五分ずつの段で格子にした表で、ひと枠三十分の予約はさほど埋まっているわけではありません。ただ二カ所ほど、ふた組のお客様の商談枠で半分重なっている時間帯があるのです。最初のかぶりは十時四十五分から十一時、ふたつめは十三時から十三時十五分。
予約用の入力フォームはすでに閉じているので、新たにかぶることはありません。でも会期前から予約してくださっているお客様については、こちらからスケジュール変更を切り出すわけにはいかない。なにせ今日の今日の話だから。とはいっても、東京のスタッフでオルタのことをちゃんと説明できるひとはいないし。
うー、このままじゃ手詰まりだよー。
「おはようございます」
開場三十分前、ひとりきりでいる私の耳に歯切れのいい挨拶が飛び込んできました。いま、いちばん待ち望んでいた声。
「……皆川さん」
顔を上げた私の前には、ポロシャツの左肩にディパックを担いだ皆川さんが立っていました。
待ってたよ。朝早くからホントにごめんなさい。
よほど心細げな貌をしていたのでしょう。目が合うとすぐに、彼はこう言ってくれました。
「もう大丈夫。ちゃんと助けに来ましたよ」
私まだなんにも伝えていないのに。思わず涙が出そうです。
*
初日の夜、ホテルの部屋に戻ったところで私はLINEのことを思い出しました。前日の朝に栄さんから受けていた着信。機内のひとだった私は、それに気づくことなくスルーしていたあれです。私が返信したトークは、案の定既読だけで返答がありませんでした。なにか、テキストのやりとりでは伝えきれないお話なのでしょう。
不義理を悔やんでいてもはじまらない。多少遅い時間でしたが、躊躇せずに通話ボタンを押します。五回目のコールで繋がりました。
「間に合わんかと思ったとよ」
開口一番の声色があまりにも弱々しかったので別人かと思ったくらい。
「ごめんなさい栄さん。こんなに遅くなっちゃって」
「いいとよ。瑞稀も忙しいっちゃろ」
「昼間はそれなりですけど、始まっちゃったからあとは目の前のお客さんに対応するだけで」
「え? 瑞稀、もう東京行っとると?」
あれ? 私、栄さんに日程伝えてなかったっけ?
そんなことありません。先週お土産届けにいったときに留守だったからポストに入れて、そのときに一緒につけたメモに書いておきました。展示会の本番は六日から八日です、って。栄さん、ちゃんと読んでくれてないの?
「昨日の朝から東京です。栄さんが電話してくれときは、私ちょうど飛行機に乗ってたから出られなかったんです」
返答が途切れました。切れてしまったかと思って表示画面を確かめたら、まだちゃんと繋がってた。不安になってきたのでなにか言葉を繋ごうかと思ったら、遠くの方から聞こえるような低い声が返ってきました。
「
一瞬、なんのことかわからなかった。でも、一拍置いて気づきました。ミツル、とは灰田さんのことです。
「来てます」
電話口の向こうで深い溜息がありました。私は待ちます。バッテリーも時間も、いまはたっぷり残っています。
・・・・・・うち、と栄さんは話し出しました。
「どげんしたらよかか、もうわからんとよ」
でも、少なくとも彼女の声は、敷かれた
「
栄さんの独白をよくあるマリッジブルーと断じるのは簡単なことです。でも、と私の直感は告げています。栄さんは心を残しているのだ、と。他ならぬ、灰田さんに対して。
「そもそも、うちん中のいろんなもんはまだケジメばついちょらん。それなんに、ちゃんとした準備や覚悟が出来ちょらんとに向こうん家族と会うとか、そげんことしよってよかっちゃろうか」
栄さんの悲痛な救難信号を聴きながら、私は妙な高揚感を感じていました。彼女はこの極めてセンシティブな内面の
童話の中の床屋が国家の機密を叫ぶために掘った穴なんかで終りたくはない。私が、いや、私ならできることがある。いま
栄さんの上京スケジュールをざっくりと聞きだした私は、できるだけの強い調子でこう伝えました。
「栄さん。少しだけ時間をください。明日、明日の夕方までには私から連絡します、必ず。だからそれまでは、なにも決めたりせずに待っていてください」
*
二日目の朝、ビッグサイトに向かうゆりかもめの車上で、私は前夜の電話の要約を灰田さんに告げました。絶句する灰田さんの返事を待たず、私はひと晩考えたプランを続けたのです。
「明日の最終日、灰田さんはひとりで羽田に向かってください。そこで栄さんたちと会って彼女の気持ちを聞き、灰田さんご自身の本心と向き合うんです」
なにか言おうとする灰田さんを制して、私は言葉を重ねます。
「これは私自身からのお願いです。私のいちばん大事な友だちの人生の岐路なんです。もうあとのないその場で、彼女が納得のいく答えを指し示してあげられるのは灰田さんしかいないんです」
開きかけた口を閉じてこちらを見つめる灰田さんに、私は笑顔を返しました。
「大丈夫、ご心配なく。一日ぐらいなら、オルタのブースは私ひとりでも回せます。半年間もいっしょにやってきたチームのサブリーダーなんですから」
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