オルタペストリー~東京ギフトショー限定配布冊子

 リビングのドアを開けた途端、お香の香りに包まれた。

 そうだった。今日はお義母様の命日だ。

 手探りで壁をつたい、慣れた位置のスイッチを押す。白い光で明るくなった部屋は、朝出かけたときとあまり変わりない。ソファの前のローテーブルには昨夜私が置きっぱなしにした雑誌がそのまま。洗濯物の籠も、中身は少し違うけど同じ場所に置いてある。違うのはダイニング。食卓の上には朝、私が並べたベーコンエッグの代わりに、ラップのかかった大皿と空の小鉢が置いてあった。それとメモも。


 おかえり。今夜は自信作の麻婆豆腐。辛いよ。


 思わず頬が緩む私。メモを片手に部屋を突っ切り、窓際のスタンドに掛けたハンガーに麻のジャケットを通した。除臭スプレーを軽く吹きかけるだけで、食卓に戻った私は、そこで逡巡する。部屋着に着替えるか、それともこのまま座って自信作をいただくか。カウンターのディジタルは、左の「11」がもうすぐ「0」に替わるところ。かれこれ半日なにも与えられていない胃袋は、電車に乗っていたときからずっと不満を募らせていた。暴動の芽は早々に詰むべきだろう。

 椅子を引き、ラップに手を掛けた。


 あ、しっかり冷めちゃってる。


 限界を訴える腹の虫に、私はもっとも効率の良い折衷案を提案した。



 電子レンジが合図の音を鳴らすタイミングで、部屋着に着替え終えた私はリビングに戻った。保温ジャーのごはんをつぎ、レンジから取り出した麻婆豆腐が盛られた小鉢を手にして食卓につく。


 いただきまーす。


 滋味の深い辛みでごはんが進む。美味しい。豆腐が茄子が挽肉が、カプサイシンと一緒に全身に染み渡って、指先まで熱くなる。山椒のアクセントも効いている。

 あっという間に小鉢も茶碗も空になった。しばし悩む私。


 今日はよく働いたよね。ちょっとくらいご褒美があっても、いいよね。


 そう言い訳して、もう一杯ずつおかわり。

 小鉢が温まるのを待つ間、お香の残り香に鼻をくすぐられた私はテレビの横の壁に掛けた掛け軸に目をやった。


 オルタペストリー。新しい時代の仏壇。私たちはオルタと呼んでいる。

 一郎は、毎月六日になるとオルタの軸先にお香を仕込んでいる。火を使わない無煙のお線香。


「誰よりも、俺が母さんを忘れちまったらマズいからな」


 毎度そう言いながら、彼は軸棒の端にぶらさがる風鎮のりんを一度鳴らすのだ。

 オルタに刷り込まれた弥勒様をぼんやりと眺めながら、私は一度だけお義母様と逢えた白い病室に想いを馳せる。思えば、一郎と私のはじまりはあのときだった。

 マッチングアプリをキッカケに会食の機会こそ何度かありはしたが、当時の私たちは未だ単なる知り合いでしかなかった。そんなとき急に彼が持ちだしてきたイレギュラーで切迫した頼み。断り切れなかった私は、あの日の彼の帰郷に同行したのだ。

 過去に会ったときの席を盛り上げ自らを演出せんと藻掻く気配などまるでなく、特急列車での彼の顔は最初から最後まで言葉少なく真摯だった。死期を目前にした母に、安心できる姿の自分を見せてやりたい。切実なるその願いは、彼本来の誠実な資質と相まって私の琴線を震わせた。


「嘘をつかせて申し訳ないけど、病室の中でだけは僕の婚約者になって欲しい」


 膝に付かんばかりに頭を下げて頼み込む彼に、病室の扉の前で私は告げたのだ。

 その嘘、本当にしちゃいませんか、と。



 誘われるようにオルタの前に立っていた私は、静かに膝をつき、なめらかな布地の上で立体のように浮かび上がった半跏思惟像を見上げた。そうして片側の風鎮にぶら下がるりん棒を手に取ると、もう片方に下がった鈴をそっと鳴らした。

 清らかに響く余韻にかぶさり、背後からなじみ深い音が鳴った。

 チン。

 レンジができましたって呼んでる。


 回想から引き戻された私は食卓に戻り、ふたたび一郎のつくり置きしてくれた麻婆豆腐に取り掛かる。二杯目でもやっぱり美味しい。

 少し温めすぎた豆腐をはふはふと頬張りながら私は思いついた。

 来月の祥月命日にはお休みを取ってお墓参りに行こう。奥の寝室でゆるやかな寝息を立てている夫とふたりで。

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