ボクの名は

深海くじら

プロローグ 令和四年末

瑞稀、令和四年末

 大晦日を明日に控え、換気扇のフィルター交換を済ませた波照間はてるま瑞稀みずきは、腰に手を当てて部屋を見回した。窓拭きもワックス掛けも風呂もトイレも昨日のうちに終わらせているし、家具拭きも台所回りも昼前には片付いた。あとは下のコインランドリーで仕上がってるはずのカーテンを引き上げてきて、レールに掛ければお仕舞だ。八畳半のフローリングに細長いキッチンが付いただけのワンルームマンションの大掃除など、二日もあれば充分ということか。

 足場に使っていたダイニングチェアに腰を下ろし、瑞稀は大きく溜息をついた。

 年末までにやらなきゃいけない予定はもう無い。掃除の間じゅう掛けていたアイチューンズのお気に入りリストを止めたら、あとはもうやることがない。


「カーテン付けたら実家にでも帰ろうかな」


 口に出しては見たものの、そうしないことは自分が一番よくわかっている。

 電車に乗って小一時間の距離ではあるが、今の瑞稀にとっては実家の敷居は高いこと甚だしい。いや高いのは敷居ではなく、両親からの圧なのだ。なまじ昨年末に喜ばせてしまった分、今年も触れないわけにいかない。それを想像するだけで胃が痛くなる。

 のっそりと立ち上がり、午後の日差しが差し込むフローリングまで移動する。ソファベッドに乗ったクッションを途中で拾うと、それを枕に直接床に寝転んだ。カーテンの無い窓は、思っていた以上に明るい。


「独りになるって、こんなにもやることが無いんだっけ」





 十日前、瑞稀は二十六になった。


 あと四日でクリスマスのその日の昼休み、昼食を買い求めて訪れたコンビニの店内で、瑞稀は恋人からのLINEメッセージを受け取った。誕生日当日とは言え、週末の約束にはまだ日がある。先月末に直人なおとから提案してきた湯布院温泉。イベントふたつをまとめての、ちょっと豪華な一泊旅行だ。

 メッセージは週に数回、逢うのも最近は概ね月一回程度だから、こんな真昼間のメッセージには思い当たる節もない。どうせ誕おめのスタンプか何かだろう。そんなふうに軽く思いながら、瑞稀は画面を開く。三日前に二往復した短文が並ぶ水色背景のタイムラインの一番下に、未読の吹き出しがひとつ置かれていた。


「誕生日おめでとう。突然で悪いんだけど、終わりにしよう。イブの予約もキャンセルしといた。質問があればいちおう聞くけど、明日の日付になったらブロックするから今日中にして」


 コンビニエンスストアの列に並んでスマートフォンを凝視する瑞稀は、反応速度が追いつかない。ポンという軽い音とともに、新しい吹き出しが下に並ぶ。


「理由はまあ、わかってる通りだと思うよ」


 さらにもうひとつ。


「あと仕事中の返信は無しね。八時までは返せない」


 四回目の着信音と同時に、直人ご執心のキャラクター『同期ちゃん』が明るく親指を突き上げているスタンプが表示された。

 誰かに肩をつつかれて反射的に振り返ると、ベージュのコートの見知らぬ女性が不機嫌そうな表情で前を指さしている。向き直ると目の前にあったスーツの背中は無くなっていた。会釈も忘れ慌ててレジに駆け寄った瑞稀は、持っていたサラダとジャスミンティーを投げ出すようにカウンターに置き、上着のポケットから財布を取り出した。店員が告げる金額を用意しようとするが、うまくお金が掴めない。そうこうするうちに瑞稀の手から滑り落ちた財布は、足元いっぱい派手に小銭を撒き散らしてくれた。後ろの人の舌打ちが聞こえた気がしたが、瑞稀の視界はぼやけていて散らばったコインさえよく見えなかった。


 なんも泣かんだっちゃよかやなか。そう呟きながらも小銭拾いを手伝ってくれたコートの女性に米つきバッタのようなお辞儀を繰り返したところまでは憶えているが、そのあとのことは記憶にない。


 瑞稀が我を取り戻したのは会社が入っているオフィスビルのロビーだった。擦れ違うひとが皆、瑞稀の方を見ていく。覗き込んで心配顔したり驚いた表情だったり、すぐに顔を背けて見なかったふりする男性も。ふと気づいて視線を落とす瑞希の手には、白いコンビニ袋を提がっていた。自動人形オートマタのような両手で広げて中を覗く。パックに入ったサラダとペットボトル、口が開きっぱなしの財布にばらばらの小銭。そして、スリープ画面のスマートフォン。袋の底にあるその黒い画面を眺めているうちに、ようやっと感情が瑞稀に追いついた。


 あ。

 私、振られたんだ。


 乾いていた頬に、再び雫が伝い落ちる。見開いたまなこからとめどなく涙が溢れ出てきた。自分の身体が見せるその反応に驚きながらも、瑞稀は気持ちだけは小走りで、実際のところはのたのたと通用口の陰に移動した。

 スマートフォンをもう一度開く勇気は無かったが、画面は一語一句漏らさずにしっかり瞼に焼き付いている。


「理由はまあ、わかってる通りだと思うよ」


 思い当たる節は、確かにある。自分の熱意の無さだ。

 去年の秋に請われて交際を始め、年明けまではそれなりに会っていた。お互い社会人なので毎日というわけにはいかないが、それでもLINEでの連絡は絶やさず、毎週末どこかに出掛けたり彼の部屋に寄ったり。彼の実家にだって一度だけだが伺ったし、去年の今ごろはふたりで旅行にも行った。

 やることなすことが初めてのころはとにかくすべてが新鮮だったから、引っ込み思案の瑞稀でもそれなりに楽しかったのだ。絵空事のような記憶を辿る瑞稀は自答した。

 ちょうど一年前までは、私だってふわふわしてたんだよ。


 年が明け、直人からの勧めもあって実家を出てのひとり暮らしを始めた頃から、瑞稀の気持ちは明らかに、そして急速に変わっていった。思いのほか発見の多いひとりの生活、ひとりの時間。ひと通りのことを体験したつもりになって早くも倦怠を感じ始めていた恋人との付き合いより、ひとり暮らしの探求の方が遥かに興味深かったのだ。理由を付けては求められる逢瀬を断り、部屋を整えたり近隣を散歩したりの自分の時間に予定を割く。夜になればネットで調べて好きな料理をつくり、今まで制限されていたテレビや動画で夜更かしをする。この自由のすばらしさ。瑞稀の解き放たれた生活の中で、岡江おかえ直人なおとという存在は必須アイテムに数えられてはいなかった。愛想を尽かされるのは当たり前。


 それならば、この涙はなに?


 昼食帰りのビジネススーツが行き交うエレベータ―ホールを遠目に眺めながら、瑞稀は混乱する自らの感情を推し量り切れず、ただ佇んでいた。それが十日前、令和四年十二月二十日のことだった。





 年末の商戦も最高潮クライマックスを迎え、街の喧騒は浮足立っている。そこかしこに門松や締め飾りが配されて、スーパーの売り場にはきらきらした値札シールが貼られたいつもは見かけない食材が並んでいた。いつもより少し高い肉と常備野菜、それと安物の白ワインを買い、瑞稀は部屋に戻る。


「あ。蕎麦買うの忘れてた」


 気づいたからと言って、商店街に戻るつもりなどさらさら無い。どうせ独りの年越しなら、蕎麦もお餅も用はない。そういえば誕生日もクリスマスも、結局何もしなかった。

 直人に振られてから十日間、瑞稀が始めた新しいことと言えば、ツイッターアカウントをつくり直したことくらい。それまでもたいして使っていたワケではないが、直人にブロックされたのがわかって開けなくなった。彼経由での共通の知り合いからも詮索されたくないし、理由が情けなさ過ぎて同情もしてほしくない。


 気持ち切り替えよ。


 そう思って、クリスマスイブの夜に新しいアカウントを立てたのだ。なにもしてないと、いろんなことを思い出す。涙は出なくても、虚しい気持ちで動けなくなってしまう。話を聞いてくれる親しい友だち数人は去年今年で相次いで結婚してしまったし、それ以外のひとたちもコロナを境に疎遠になった。だからせめて、真っ新まっさらなSNSでもはじめてみよう、と。


 アカウント名は……。そうだ。引っ越してきたばかりの高校一年、友だちができなくて毎日独りで過ごしてたあのころ、ひとり遊びで物語を書いてたときに考えたアレを使おう。名前のはじめと最後を繋げてつくったペンネーム。


 月波つきなみ


 語り口も今までと変えて、テーマも創作を中心にしよう。





 パスタでもつくろうとフライパンを出したところで、オリーブオイルを切らしていたことに気がついた。蕎麦もお餅も要らないけれど、オリーブオイルが無いのはまずい。パスタでもサラダでも、これ無しではつくれない。時間はまだ九時前。瑞稀はひとつ気合を入れてからダウンを羽織って部屋を出た。


 歩いて数ブロックのドンキは年末だというのに賑わっていた。繁華街が近い所為か若者の多さが目立つ。瑞稀よりも若い世代。もしかしたら十代かも。二十代も半ばを越え、アラサーと呼ばれても文句が言いにくい歳になった自分が急に老け込んだように感じられた。アラサーで彼氏無し。それも予兆や目標があるような上昇志向では無くて、十日前、完膚なきまでに振られたばかりの底を打った独り者。

 大瓶のオリーブオイルとパルメザンチーズをかごに入れながら、瑞稀は無意識に呟く。


「未来なんてどこにあるのかな」


 トマトの缶を物色していたベージュのコートが瑞希を一瞥してから振り返った。三十前後の見憶えの無い女性。唐突に見つめられて戸惑う瑞稀に向かって、その女性ひとは口を開いた。


「波照間さん、だっけ」

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