ラミナス
奥野霖
星と、限りなく星に近いもの1
夜が永遠に続くように、道路も永遠に続いていた。どちらも実際には終わりがあるのだけど、なぜかそんなふうに感じた。道路の両脇に等間隔で並んだ電灯もまた、永遠に続いていた。煌々と光る灯だけが夜に抗って、めいめいに命を燃やしていた。神経をなぞるような冷たい空気のかたまりが絶え間なく押し寄せた。風のない夜は静寂に包まれ、僕の息遣いや服の衣擦れがよく聞こえた。その間隙にかすかに車の駆動音と、近くの建造物に反響する僕の足音が聞こえる。道路の脇には高層マンションが聳えていたが、その部屋には灯りはひとつもなく、飛行機の衝突を避けるための航空障害灯の赤い明滅と、非常口のピクトグラム、消火栓の赤い光だけが見える。それらが吐いた息の白くなるのに溶け合って曇った。車は車線に対して逆走する向きで停車していたが、それを注意するものは誰もいない。ライトに照らされた地面の膨らみと道路の両端の欄干からここが橋梁であることを知るが、闇に目を向けてもそこにあるらしき海の姿は見えない。空気に僅かに潮の香を感じた気がしたが、鼻先に意識を集中してみるとつんと冷たい空気がなだれ込むだけで何も匂わなかった。完全なる闇は見事なまでに海と空の境界を塗り潰し、そこを針で突いたような星明かりだけがわずかに覗く。徐々に頭の角度を上げながらそんな光景を眺めやると、海さえも永遠に続くような気がしてくるのだった。僕はおもむろにポケットから煙草の箱を取り出すと、その中から一本、紙巻きドラッグを取り出して口に噛み、手で庇を作りながらライターに着火した。ゆらゆら風に煽られ揺れる火にドラッグの一端が包まれるのを確認して、吸い込んだ。火の揺らぎが次第に大きくなり、麻痺した耳に届く音が遠のく。身体が弛緩して平衡感覚がなくなっていく。それに応じてこうべを垂れた街灯は地面に向かってさらに頭を落とした。星は瞬きを増しながらみるみるうちに降下し、やがてあたりは一面真っ白になった。
おい、ラケッシュ。名前を呼ぶ声がする。どこだろうか。聞き馴染みのある声のような気がする。とても懐かしく、すぐに忘れてしまいそうになるほど朧げな印象がある。眩しさで顰めた顔をなんとか声のする方に向けて目を開けると、一帯に広がる廃棄ゴミの中でこちらに呼びかける父の姿があった。父は「危ないからしっかりしろ」と言った。ゴミの海はありとあらゆる種類の廃棄物からなり、金属製品やプラスチックで表面をコーティングされた製品のゴミは太陽光の照り返しでぎらぎら眩しかった。そうでなくとも顔を顰めたくなるほどの強烈な悪臭があり、まともに匂いを嗅いでしまうと命に関わるほどの化学物質が未処理のまま打ち捨てられている。刺激臭によって目に涙を浮かべることすらザラである。そんな中でも、きっちりと意識を保って足元をよく見なければならない。足を滑らせようものなら、ガラス片やプラスチック片、金属片、腐敗した食品などが体を貫き、不衛生なこの環境のありとあらゆる病のうちからランダムでなにかしらの重篤な症状が出る。それは医者にかかる金も方法もない自分達の身の上では死を意味する。ここは世界でも有数の規模を誇る都市で、同時に世界でも有数の規模を誇る貧民窟だ。都市に隣接したこの立地には都市部からの廃棄物を処理するという需要があり、ここの住民の約八割はこの仕事に従事している。その人口は100万人に上ると言われている。不正薬物やゴロツキの跋扈するスラムが煌びやかな都市の麓に位置する奇抜な風景だ。そこには二つの太陽があった。一つは東から西へ登っては沈んで行く太陽。もう一つは西の方角にある、金色の塔。塔は時間によっては太陽光を反射し、時に前後から、時に左右から挟み込むようにこの場所で働く者をその熱と光で蝕んだ。そして他の土地より少しだけ早く夕方を連れてくる。これが少年ラケッシュの原風景だった。手袋などない。マスクなどない。靴さえもない。それでもゴミを漁って化繊の袋に分別をして行かなければならない。ラケッシュは先日まで一緒にこの辺りのゴミ分別を行なっていたハリシャという名の少女のことが思い起こされた。彼女は同業者の中でも特に幼く、体が小さく、貧しい少女だった。周りの人間の口頭での注意も虚しく、何かの油でぬらぬら黒光りする釘をふくらはぎに貫通させてしまい、その後すぐにその足は逆の足の2倍ほどに太ももまで赤く肥大し、立ち上がれなくなった。そのうち発熱と共に全身が動かなくなり、ついに死亡した。これは特に珍しいことではなかった。ここではさまざまな、思いつくだけ全ての死に方で人が死んでいく。ただ呼吸するのにもリスクがある。それでもさまざまな死に方をするだけのさまざまな事情を持った人間がこのスラムに流れてくる。まるで寄せては帰す波のようだとラケッシュは感じた。積まれたゴミの山の稜線の向こうに海が見えた。どうして海には波があるのだろうか。止めることは出来ないのだろうか。学校に行ったら先生に聞いてみようと思った。
「おい、ラケッシュ。聞いているのか」
またも上の空になる僕に、薄小麦色の肌に髭を蓄えた父から声をかけられる。目を閉じると、暗闇の中でゴミ山は無数に折り重なる死体の山に化けた。それを二つの太陽が照らしている。ラケッシュは足もとにごろごろ転がる死体の中に、自分の死体が転がるのを思った。このゴミ山に喰われるわけにはいかない。ラケッシュは口をつむぐと、登校の時間になるめいっぱいまでひたすらゴミを集めた。
時間になると、ラケッシュは朝の仕事を終え通学路を歩く。ここでいつも、なにか逆らえない大きなものに従っている感覚に陥る。ゴミ捨て場の中から拾って繕った鞄をもって、スラムから少しだけ豊かな経済状況の市場周りを抜けていく際、そこで目にする売り物に目を奪われながら、食欲や物欲と同時に、理不尽に対する不満を抱いている。未だ名残のある身分差別によって貧しくなることが確約された一族の末の子。そうした自分の状況を登校の都度再確認するのである。ここでは大きければ大きいものほど力をもつ。たとえば自分よりも背丈の高い人間の方が優先して道を歩くし、牛やヤギはもっと優先であり、車であれば立派な値の張るものほど傷つけてはならぬという周りの意識から優先となる。そうしたここの人や動物、機械たちも太陽の浮沈というもっと大きなものに逆らえずにいる。それがラケッシュにとって世界の法であった。そうだ、例えば目に映るふたつ目の太陽ーーあの高い塔に住むような、富豪たちの支配に自分たちは逆らえないでいる。そう思うとやはり何か強い感情が静かに湧きあがってきて、やりきれない気持ちになった。ラケッシュは立ち止まると、想像もつかない中の人間を想像して塔を睨みつけるのだった。
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