第82話 ずっと好きだった
~前回までのあらすじ~
霊地アル・ムールにてイツツバの力を振るうナツキとの戦いが行われている。ミドウさんとボクは火精レンヤ、水霊ナガミタマの封印解除に成功。呪本は五つのうち二つの力を取り戻した。
しかしナガミタマの力を受けたミドウさんは沈黙し、力を奪う封印術の中心にいるのがボクだと気づいたナツキはボクを狙って攻撃を仕掛ける。ボクはナツキに不意打ちを食らわせ、シノ様からナツキを引き離すことに成功した。これでナツキはイツツバの力を行使できない。
安心しかけた時、ボクの腹に鉄杭が突き立った。
薄れゆく意識の中、ボクはシノ様の中でイツツバの神霊たちが鳴動するのを感じた。イツツバの力が暴走している。このままじゃ、イザナとアスミの終焉を再演することになる。
ボクはシノ様の夢へと飛び込んだ。
***
そこは澱んだ沼の中のような、肌触りのねばりつく閉塞した場所だった。
どこに目を凝らしてもぼんやりとくすんで、何があるのか分からない。
そのうえ沼は激しく荒れ狂っていた。
それはガラウイ山の偉大な霊力の流れのように広大で、天外山脈で感じた霊力の鼓動のように荒々しい。うかうかしていると力の流れに磨り潰されて持って行かれてしまいそうだ。
そして一度溶け込んでしまえば、今のボクにはもう一度返ってくる余力は残されていない。
ボクはこの場所からツチミヤと会った天外山脈の底で感じたのと似た気配がすることに気が付いた。
おそらくここは、地の底やアル・ムールの内側と同様に一種の異界なのだ。
それはシノ様という境界の内側に広がり、イツツバの神霊たちの霊力によって作り出された。
そして今、神霊たちは境界を破り、周辺へとあふれだそうとしている。
それがもたらすものは、魂の死だ。
シノ様の魂の揺らぎによって生じた境界のほころびは、刻一刻と広がっていく。
それはやがて修復不能なほどになり、そして一気に自壊するだろう。
ボクはそれを止めたい。
でも、どうすれば……?
ボクは立ち竦み、惑う。
こういう時にどうすればいいのか教えてくれたイザナはもういない。
時間は刻一刻と経過して、今にもシノ様かボクかに限界が来ないとも限らない。
ボクはいつしかシノ様の姿を思い描いていた。
脳裏に思い浮かんだのはこれまで出会ってきたシノ様のいろんな表情だ。
初めて会った時、シノ様はボクに意地悪をした。
ボクに食べさせてくれようとした干し杏を取り上げて、引っかかった、と笑った。
きっとボクとの距離感を測りかねてのことだったんだと思うけど、結構ショックだったよ。
あの時の杏の味は忘れられない。
出会ったばかりの頃はたぶんシノ様も緊張していて、今考えれば、結構カッコつけていたんだなぁと思う。
それがだんだん打ち解けていくうちに、シノ様は不機嫌になって拗ねてみたり、横暴なことを言い出してみたり、子どもっぽいこともし始めるようになった。
ボクはそういうことの一つ一つに悩まされたり困らされたりするのが、案外嫌いじゃなかった。
シノ様の笑った顔、怒った顔。たまに給仕の仕事でやらかしてしょぼくれた顔とか、呪術師の仕事の依頼があったと言って出かける時のなんだかきりっとして凛々しい表情とか。
シノ様の見せてくれる全部の表情に一度死んだボクの心は慰められて、やがて生き返っていった。
でも、シノ様が辛そうにしている表情はあんまり見たくないな。
忘れて、とシノ様は言った。
天外山脈を越えた後の森で言い争った時のことだ。
ボクはシノ様と一緒にいるうち、少しずつシノ様に惹かれていった。
それは初め、頼る者もないボクに降りてきた幸福を必死で捕まえようとするみたいな気持ちだったと思う。
ボクはそれまで誰かを好きになることなんてなかったし、シノ様は向けられた好意を無視できるような人じゃない。
ボクの恋は、きっと勘違いと打算から始まった。
そんなことだったから、ボクとシノ様の気持ちは食い違った。
シノ様はボクの気持ちを真摯に受け止めてくれようとしていたのに、ボクときたらずっと恋を勘違いしたままだった。
好きって気持ちはボク一人のものだ。
それは間違いない。
でもそれを誰かに向けた時、気持ちは決してボクだけのものではいられなくなる。
ボクはボクの気持ちを、もっときちんと考え直してみるべきだった。
何もかも無くしたボクに好きだと思える人ができた。
そのことに舞い上がって、浮かれて、キスしたいな、とか、恋人同士が夜にすることをしてみたいな、とか、上辺だけのことばかり考えて、その気持ちに覚悟がなかった。
ボクは奴隷で、シノ様はご主人様。
いくらシノ様がボクのことを愛してくれていたって、どうせボクの気持ちは届かないんだ。
そんな風に甘えて、言い訳をして。
そんな適当な気持ちじゃ、真面目に受け止めてくれていたシノ様が怒るのだって当然だよね。
そんなボクの曖昧な気持ちが分かったから、シノ様はあんなに辛そうな顔で笑ったんだ。
ボクが、シノ様が覚悟を決めて言ってくれたこと、してくれたことを、忘れて、なんて言葉で打ち消させてしまった。
まあ、シノ様だって、ちょっと性急に過ぎたと思うけどね。
手前にもうちょっと何か言ってくれてれば、ボクだってさぁ……。ぶつぶつ。
でも案外、ボクなら気持ちを分かってくれてるって、思ってくれていたのかもしれない。
期待に沿えなかったのは申し訳ないんだけど、それならボクも覚えがあるな、勝手にシノ様が分かってくれてることに期待しちゃう、なんてさ。
シノ様はいつも凛として、意志が強くてしっかりしてて、ボクのご主人様だからつい忘れてしまうけれど、ボクよりほんの少し年上なだけの女の子なんだ。
それにシノ様がボクに何も言わずに自分一人で考えてさっさと結論を出しちゃうのは、今に始まったことじゃない。
フミルへ来ることも、ゴドーさんたちと別れることも、アマミヤに行くことも、全部シノ様が勝手に決めちゃったことだ。
ボクが信用されるようなことをしてないって言われたらそうなんだけど、そういうとこ、ボクは怒ってますよ!
シノ様を取り戻したい一心でここまで来た。
ボクはシノ様と出会って今のボクに生まれ変わった。
さらわれて旅に出ることになっても、ずっとシノ様が隣にいたから幸せだった。
笑顔だったり、咎めるような目だったり、いぶかしげに眉をひそめたり。
そういう何でもない表情を、またボクに見せてほしい。
あなたがそばに居ない生活なんて考えられない。
ボクはまだ、あなたがいなくなることに納得していない。
だからボクは、ここで命尽きることになったってあなたのことを取り戻す。
それでできるなら……、えっと。
あなたの人生を、半分ください。
ボクはもうじき死んじゃうかもしれないけど、その時にはちょびっとだけでいい。
ちょっとだけでも、あなたの心を分けてください。
気がつくと、ボクの目の前には一人の少女がいた。
歳の頃は十二、三だろうか。後ろで束ねた長い髪は黒く艶めいて、その目許は優しく微笑んでいる。
彼女はひどく傷ついていた。
その裸身には胸から下がなく、両腕も崩れている。
この場所に満ちる荒々しく流動するものに削られ、押しつぶされ、元々は傷ひとつなかっただろうその顔は今やひび割れ、首元から走った大きな亀裂が、見ている間にもぴしりと頬まで達した。
「……アスミ、なの?」
ボクはおそるおそる問いかけた。
彼女は何も言わずにふっと目を閉じ、そして静かに崩れていく。
「あ……!」
咄嗟に伸ばした手に触れたのは小さな玻璃の玉だった。
ボクは、アスミが神霊たちの狂乱からそれをずっと守っていてくれたのだと分かった。
その玉は中央には光を宿していた。
その光は今にも消えそうで、玉はあちこち欠けて亀裂が入っていた。
けれどもそれは温かな熱を帯び、今も確かに鼓動している。
「シノ様。シノ様、お寝坊ですよ。早く起きてください。それで、ボクと一緒に帰りましょう」
ボクは胸がいっぱいになりそうになるのをこらえながら囁いた。
名を呼ばれると、玉の中の光はゆっくりと明るさを取り戻していった。
この場所に満ちていた粘りつく暗い流動は静かに濁りを無くし、それは澄んだ空間の中に三つの形を成していく。
妖樹シュラハ、土精ハンリ、鉄蛇カナツノカナナハの気配はそこで再び交じり合い、瞬く間に周囲には木々の生い茂る岩山の景色が広がった。
その景色は濃密な霊力と神秘を漂わせながら、ずっと視界のかなたまで広大に続いている。
う~ん、でも。
何かが足りないなあと思ったら、空だ。
ボクは呪本イツツバの中にも描いたシュベットの空を、この場所の空にも一面に広げてみた。
ああ、しっくり来た。これ、これ。
「人の中、勝手にいじくらないでよ」
ふっと手の中に玉の感覚がなくなり、気づくとボクは両腕にシノ様の腰のあたりを捧げ持つように抱いていた。
あんまり唐突だったので、ボクはきょとんとして首を傾げてしまう。
シノ様はむすっとした顔で両腕を組み、ボクを軽く睨んでいた。
なんか偉そうな態度なのに持ち上げられちゃってるのが面白くて、ボクは声を上げて笑っちゃった。
「あはははっ!」
「あっ、こら。なに笑ってんの。まずは下ろしなさいよ!」
シノ様は土の上に降りると改めて腕を組み、仁王立ちしなおした。
その時に初めて、シノ様が小さく唇を震わせていることに気が付いた。睨んでいると思ったのは、どうやら涙をこらえていただけらしい。
「……ごめんね。こんなになるまで頑張らせちゃって」
シノ様はボクの身体をそっと両腕で抱きしめた。
シノ様に触れられるとボクの身体は少しずつ崩れ、溶けて消えていった。
ボクはここにきていよいよ一つの旅が終わろうとしているのだということに気が付いた。
ボクは……。
「好きです、シノ様」
ボクはいつ時間が来るともしれないと、急いでそれだけ、一番伝えたい言葉だけを伝えた。
胸の奥がつんと熱くなる感覚があった。
苦しくて、痛くて、でもほんのりと甘い。
シノ様は一度息を呑んで、ぎゅっと唇を結んだ。
そして開きかけた口を制して、ボクはもう一つだけ言葉を続けた。
「……好き、でした」
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