第51話 別れ


~前回までのあらすじ~

 シノ様が熱を出した。フミル王国へ行くための峠道には雪が降り初め、一度体勢を整えて出直す時間的余裕はない。峠越えを強行すべきか、来年の夏を待つか。意見は割れている。

 そんな中、シノ様は峠を越えられる状態にないと別れを切り出した。


 ***


 長い夜だった。


 シノ様はずっと具合が悪そうで、ボクとイチセがずっと隣に引っ付いて様子を見ていた。


 寝ておかないと明日歩けなくなるとアズマには言われた。


 でもボクは、考えたけれど、やっぱりシノ様の体調が万全でない状態で雪の降る峠なんて越えたくない。

 シノ様が行くと言い張っても反対してどうにか押しとどめるつもりだった。


 たぶんアズマも出発できるとは思っていないのだろう、ボクが生返事を返しても何も言わなかった。


 シノ様は忙しなく荒い息を吐き、微かにうめき声をあげる。

 ボクはその度に心配になってシノ様の冷たい手を握り締めた。


 シノ様がこんなに苦しそうなのに、どうしてボクはシノ様の苦しみの半分でも分け合ってあげられないんだろう。


 シノ様はボクの顔を見て、そんな顔してないでよ、と笑った。


 深夜に一度、シノ様が目を覚ました時に服を脱がせて身体の汗をぬぐった。

 汗ばんだ服を脱がせてボクの服を代わりに着せると、シノ様は遠い目をして微笑んだ。


「……前に、イヅルの看病をしてあげたことがあったわね」

「はい。ミドウさんに会った時のことですね」


 あの時は大変だった。頭はがんがんとして割れそうで、身体はちっとも動いてくれなくて、シノ様が何でもしてくれるからボクも途中からは調子に乗って、必要以上に甘えてしまったと思う。


「あの時わたし、弱ってるイヅルが可愛くて、この子の為になんでもしてあげようって思ったのよ。でも……」

 もう、わたしがいなくても大丈夫だね、とシノ様は言った。


「そんなことないですっ!」


 思ったより大きな声が小屋の中に響いた。

 眠っていたアズマたちのことを起こしてしまったかもしれない。でもボクにはそれに構う余裕はなかった。


「そんなことない。ボク、確かに昔よりはできることも増えたけど、それはみんな、シノ様がいたからで。シノ様の為に頑張ろうって、ボクは……」


 ボクは言葉に詰まって唇を噛んだ。

 上手く言葉が出てこない。胸の内で感情は渦巻いているのに、ボクはその感情を表せるだけの言葉を持っていない。


 だから、ボクはせめてシノ様の腕を掴んだ手に力を込めた。


「……痛いよ。もう言わないから、放して」

 シノ様は静かに言った。


 嘘は許さないとじっとシノ様の目を覗き込んで、ボクはゆっくりと指先から力を抜いた。

 シノ様は弱弱しくボクから腕を取り戻して、怖い顔、と笑った。


「シノ様が、変なこと言うからです」


 傍らに座るイチセは、そんなやり取りを少し不機嫌そうな顔で聞いていた。

 

 イチセの周囲からは、ずっと呪力の漏れ出す気配が届いている。

 おそらく今のイチセは、初めに戦った時に使っていた砂鉄の術を即座に発動できる状態にある。


 イチセはゴドーさんとセリナさんを怪しんでいる様子だった。

 シノ様が多少危険でも峠越えを強行すべきと言ったのが相当に気に食わなかったらしい。


 二人は行きがかり上ボクらに付き合ってくれているだけだ。来年の夏を待つだけの義理は彼らにない。

 強行すべきと言った理由も納得できるものだし、賛同はしないまでも、ボクはそのことについて思うところはなかった。


 もっと二人の立場に立って考えてあげなさいよとイチセには思っているけれど、イチセはまだ幼いし、自分の感情に引っ張られて他人の事情が見えなくなっても仕方ないのかもしれない。


 ただ、イチセがシノ様の体調を考えて怒ってくれていることが頼もしかった。


 初め、ボクはイチセのことを警戒していた。

 まだボクらがミドウさんのことを隠し立てしていると思っているんじゃないかとか、実はアマミヤの手先なんじゃないかとか、そんな風に考えて睨んでいた。


「シノ様と仲、良さそうじゃん」

 ある時ボクがひがみ交じりに言うと、イチセは面倒くさそうにボクを睨みつけた。


「そりゃあ、お姉ちゃんですからね」


 そう言われた時、ボクの頭の中でかちりと何か歯車が合わさるような音がした。


 イチセはたった一人、町の裏路地で残飯をあさって生きてきた。そんなイチセが今、ミドウさんのことを、お父さん、と呼んでいる。

 そう考えると、姉と呼ぶ相手を裏切ることはないんじゃないかと自然にそう思えたのだ。


 ゴドーさんとセリナさんは、話し合いを終えてからそんなに経たない頃に二人で小屋を出て行った。これからのことで相談することでもあるのだろう。


 するとイチセがこそっとボクの耳元に口を寄せて囁いた。

 

「警戒してて。何が起こってもいいように」


 ボクは息を呑んでイチセの顔を見た。

 イチセは険しい表情をしていて、冗談交じり、というわけでもない。

 イチセはそれ以上言うつもりはないらしく、すました顔でシノ様の向こう隣りに潜り込んだ。


 一体何がイチセをそんなにまで言わせて、一晩中臨戦態勢でいさせるのか、ボクには分からなかった。

 考えすぎだと笑い飛ばしてしまっても構わないけれど、イチセの真剣さにはどことなく説得力のようなものがある。


 でも、ゴドーさんたちが一体何をするって言うんだ。


 イチセと一緒に居た時間の倍の間、ボクとシノ様は二人と一緒に過ごしてきた。それにイチセだって、出会ってからずっと仲良くしていたはずだ。

 例え何か気に食わないことがあったとして、この先の道が決定的に別れてしまったとしても、警戒するようなことにはならないはずだ。


 そうは思うのだけれど、イチセが言うことも気になりはする。


 ボクはイチセと一緒に一晩中、シノ様の隣で眠らずに過ごした。




 朝になっても、シノ様はまだ青い顔をしたままだった。

 茶粥の入った椀を渡すとシノ様は背を荷物の山にもたせ掛けて、ありがとう、と億劫そうに笑った。


 どうにも言葉の少ない朝食だった。


 イチセはぴりぴりと気を張り続けているし、ゴドーさんとセリナさんは、イチセに警戒されていることに気づいているのだろう、穏やかな態度ではあったけれど、どことなく所作に素っ気ないものを感じる。


 アズマは知らぬ顔でベインさんにもらった乾燥チーズを口の中で噛んでいるし、あんまりこういう空気に慣れていないボクは、シノ様の給仕をして居心地の悪さを紛らせている。


 そんな中でシノ様だけが、熱を出して弱ってはいるのだけれど、一番普段通りに近かった。


「発熱、頭痛、身体の痛み、食欲不振……。今感じている体調不良は、まあざっとそんなところでしょうか。

 しばらくここでゆっくり休むか、一度麓に戻るかする時間があればいいんだろうけど、峠は雪に閉ざされようとしている。あんまりぐずぐずしている時間はありません」


 シノ様はボクに上体を預けながら一言一言確かめるように言った。そしてボクに視線を合わせ、ふっと微笑む。


「わたしは、ここまでね。すぐには治りそうもないし、治っても体力を失った状態で峠に挑むほど無謀じゃないつもり。だから……、さよならね。

 イヅルとアズマは、ゴドーさんとセリナさんと一緒に峠を越えなさい。わたしは、イチセと一緒に下山します。イチセには付き合わせちゃうけど……」


 シノ様が言い終わる前にボクは大きな声を上げていた。


「ちょっと、待ってください!」


 昨夜言っていた、わたしがいなくても大丈夫、というのはこういうことか。

 シノ様は、きっとしばらく前からこうなる可能性を考えていたんだ。


 確かに、峠を越えられないというのはシノ様一人のことだ。


 シノ様には、急いでシュベットを脱する理由はない。アル・ムール湖を目指すという目的はあるにしろ、別にそれが来年になったところで問題はないだろう。

 アマミヤの追っ手の影は見えないし、むしろフミルへ入るよりシュベットに残った方が安全なように思う。


 一方でボクとアズマは急いでシュベットを脱出する必要がある。

 ゴドーさんとセリナさんは予定通りフミルに戻るのだし、それならば四人でフミルへ行くというのは至極自然な考えだ。

 

 残ることになるのはシノ様とイチセ二人だけになるけど、イチセは優秀な呪術師だ。シノ様を護衛するのに十分な力を持っている。

 ラバのリタもいるし、きっとシノ様を安全なところまで連れ帰ってくれるだろう。


 だから、万事オッケーだ。

 シノ様の提案の通りにすればイチセの意見もゴドーさんの意見も聞き入れられて丸く収まることになる。


 ボクが残ったところでどうなるものでもないと分かっている。むしろ狙われる理由を作るだけのお荷物にしかならないだろう。


 でも、理屈じゃそうだって分かっても、仕方ないねって、簡単に頷けることじゃない。


 身体の内側から激情がせり上がるのを感じた。


 ボクはシノ様と一緒にいると決めたんだ。迷惑だって言われたって、絶対に置いて行かれたくなんてない!


「ボクは、シノ様と一緒に行きます」

 ボクはきっぱりと言った。シノ様の背中を支える手に力を込める。


「ボクは、シノ様の奴隷です。奴隷が命令に逆らうことが気に障るなら、どうぞ、呪印でもなんでも使って呪い殺してください。それともまさか、そんな覚悟もなくてボクを自分から引き離すことができるなんて思ったんですか!」


 ボクは絶対に文句なんて言わせないぞと唇を結んで、シノ様の目を強く睨みつけた。


 シノ様は、どう思ったか分からない。

 生意気な奴だって、ご主人様をこんな風に睨みつけるなんて、こんな反抗的な奴隷は沢山だと思ったかもしれない。


 シノ様は一人になった寂しさでボクを買った。

 でも今はイチセがシノ様の隣にいる。

 寂しさを紛らすだけなら、ボクじゃなくたって構わない。


 もしかしたらボク、売られちゃうかもしれない。


 ちらと頭の片隅でそんな風な考えがよぎってもボクは、やれるものならやってみろと、そんな傲慢なことを思っていた。


 シノ様は、ボクの言葉をぼんやりと目を見開かせて聞いていた。


 睨めっこは数秒続いて、ふっ、とシノ様が息を吐いた。埒があかないとでも思ったのか、ボクから視線を逸らしてゴドーさんたちに目を向けた。


「ゴドーさん、セリナさん。お二人はたまたまイヅルがさらわれたところを目撃しただけだったのに、こんなところまではるばる付き合わせてしまいました。

 わたしは来年のフミル入国を目指します。護衛として残っていただければ心強いとは思いますが、わたしにはもう支払えるものなどないし、これ以上ご迷惑をかけるわけにもいきません。

 確か、ゴドーさんは故郷に家族を待たせているんでしたよね。ここで一度お別れとしましょう。縁があれば、きっとまた会えることと思います」


 シノ様は深々と頭を下げた。


 いや……、とゴドーさんが何か言い掛けるのを制して、頭を上げてください、とセリナさんが言った。


「こちらこそ、シノのおかげで楽しい旅ができました。縁があれば、また会いましょう」

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