あるいは深層に、遥かなる地平を夢見て【本編完結済】

カイエ

プロローグ

# 01

「……ぐっ……」


 男が必死にロープにしがみついている。

 屈強な肉体は分厚い迷宮潜行服に包まれており、腰には重たそうな迷宮潜行器具ギアが大量にぶら下がっている。

 防御衣服に保護されていないのは顔の一部だけ――その表情は苦痛に歪んでいた。


 今のところ意識ははっきりしている。

 が、余裕など全くない。

 しかし生き延びるため、危険な領域から移動するために懸命に体を支えている。


 ――迷宮。

 そこは一見、巨大な洞窟のように見える。

 高さと幅が共に100メートルほどの巨大な洞窟――しかし、不自然なまでに真っ直ぐで、奥の方は暗くてよく見えない。

 壁は荒く突き立った岩盤。所により垂直だったり、逆テーパーの箇所も多く見受けられる。


 前方からは瘴気混じりの突風が容赦なく襲ってくる。

 気を許すと岩壁から剥がされそうだ。


 地面もゴツゴツとしており、しかし人が歩くのに不都合はない程度には平面だ。

 しかしこの地面を歩くわけにはいかない。


 地面の一部がまだ薄く輝いている――触れれば即座に肉体が燃え上がる、致死性のトラップだ。

 いかなる手段を持ってしても事前に見破ることのできない迷宮のトラップだが、こうしてハマってしまうと一定時間は光を放つ。しかも光が収まると位置が変わってしまう。

 故に、迷宮の地面は踏んではいけない――それが冒険者たちの常識だ。


 男は誤ってトラップを踏んでしまい、何とか即死は免れたものの、左足を失う大怪我を負った様だ。


(ダメだ、意識を失えば死ぬ――)


 すでに助けは呼んだ。

 早ければあと小一時間ほどでギルドの救助隊レスキューが到着するはずだ――。


 ▽


 肺に蓄積された瘴気と、燃やされ灰にされた左足の痛み、さらには失った血液のせいで、意識は朦朧としている。

 消し飛びそうな意識を繋ぎ止めるため、男は周りを観察する。


 ――こんなはずではなかった。


 準備は完璧だった。

 この階層を踏破できるための訓練も欠かさなかった。

 他階層でも十分な経験を積んだ。

 深層順応訓練にも余念はなかったはずだ。


 なぜだ。

 努力が足りなかったのか。

 あるいはこれまで積み上げてきた経験が慢心へと繋がったのだろうか。


(まさか俺があんなミスをするとは)


 見ればプロテクションが壁からぶら下がっている。

「カム」と呼ばれる迷宮潜行器具――壁のひび割れクラックに差し込んで広げてやれば、引けば引くほどガッチリと食い込み、大人の体重くらいなら余裕を持って支えてくれる頼もしいプロテクション。


 これが剥落ならカムはロープにかかっているはずだ。

 おそらくロープをかけ損ねたのに気付かず、次のクラックへ手を伸ばしたのだろう。

 溜まりに溜まった疲労で、普段なら絶対にやらないようなミスをやらかしたらしい。


 結果、壁からの滑落。

 男は致死性のトラップに片足を突っ込んだ。

 ほんの一瞬地面に足を触れただけ、しかし急激に燃え上がる肉体――その衝撃に耐え、ロープを引いて体をトラップから引き剥がさなければ、今頃は全身灰にされていただろう。


 炭化した足の痛みに堪え、なんとか体をトラップから引き剥がしたが、体が硬直してしまい、随分と時間を要してしまった。

 男は腕にかかる負担を減らそうと、腰のベルトとロープの接続を必死に試みる。


(だめだ、力が足りない)

(支えるだけで精一杯で、体を持ち上げることなどできそうもない)


 壁に取り付いたままギルドの救助隊レスキューを待つ。


 そういえば、と男は思い出す。

 救難信号を出した時、相手は随分と落ち着いた様子だった。

 きっとギルドにとっては日常茶飯事で、いちいち慌てるようなことではないのだろう。


 ▽


 ――こちら冒険者ギルド。

 ――Lレイヤー16、4500DデプスCキャンプ3付近より救難信号Dシグナルを受けているが間違いはないか?


 そうだ、あってるッ!


 ――落ち着いて、所属と登録名と状況を。


 頼むッ! 一刻も早く助けに来てくれ!


 ――落ち着いて、所属と登録名と状況を。


 じゅ、14級のコランドル・オーカーだっ!

 プロテクションの操作をミスって滑落したっ!


 ――怪我は?


 一瞬だが燃焼トラップを踏んだっ!

 左足は膝下まで灰になった!

 もういいだろッ!! 早くしてくれッ!!


 ――了解。あなたには二つの選択肢がある。

 ――安価だが時間のかかるギルドによる救助か、高価だが最短時間で向かえるフリーの冒険者による救助だ。

 ――費用の説明は必要か?


 いいから最短で来てくれ!

 もういつ死んでもおかしくないんだッ!


 ――了解。救助ポイントに一番近いフリーの救助隊員レスキューを向かわせる。

 ――二次災害を防ぐためレスキューの指示には絶対に従え。

 ――健闘を祈る。通信終了。


 通信終了だ、くそったれッ!


 ▽


 男の意識が何度も飛びそうになる。

 かろうじて壁に取り付いているだけで、意識を失えば墜落するしかない。

 そうなれば間違いなく死ぬ。


 時間にしてほんの十五分ほどしか経っていないが、瘴気による呼吸困難、怪我による失血とショックのせいで、もう丸一日は壁に張り付いている気がする。


 瘴気の流れが強い。

 何度も壁から剥がされそうになり、男は必死にロープにしがみつく。


 ずる、とロープが滑る。

 体が振動するたび激痛が走っていた左足が、今はもう熱いだけで痛くはない――きっと死が近づいているのだろう。


(もう、無理だ)

(手を離してしまえば、これ以上苦しまずに済む……)


 どのみち男にはもう力が残されていない。

 血に濡れて摩擦係数が下がったロープでは、これ以上体を支え続けるのは無理だ。


 とうとう男の手から力が抜け、体が死の罠トラップへと墜落しそうになった瞬間だった。


「おっと!!」


 ガシッ、と力強く体が支えられた。


 男はぼんやりした頭のまま支えてくれた、声の主の顔を見る。

 ヘッドライトのせいで顔はよくわからないが、自分より若い青年のようだ。


「よく耐えたな。もう少しの辛抱だ。死ぬなよ」


 静かで落ち着いた、低い声だった。

 男はどこか安心して、そのまま力尽きて気絶した。


「うおっ!」


 ズシ、と助けに来た青年の腕に体重がかかる。


(気絶すると急に重くなるよな……)


 青年は慌てる様子もなくハーネスとカラビナを用いて男を背に固定する。

 締め付けにより背中の男がうめき声を上げるが、今は我慢してもらうしかない。


 さてと、と青年はヘッドライトで元来た道を照らし、壁面に打ち付けたハーケンにロープをかけ、一歩を踏み出した。

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