第5話 捕縛 その1



 かくして陰謀は暴露された。


 拷問に耐えかねた安念法師の自供から、参加を約していた者数百人の名前が知るところとなり、張本とされた渋河しぶかわ兼守かねもり八田はった茂木もてぎ知基とももと一村いちむら近村ちかむら宿岩やどいわ重氏しげうじ薗田そのだ成朝なりともなど十数人が逮捕された。


 泉小次郎は、安念坊が戻って来ないことから計画が露見したことを悟っていたのだろう。義時の命を受けた工藤十郎という者とその家人が捕縛に訪れた時、すでに武装し、逃亡する準備を済ませていた。


 勇猛剛力で鳴らし、組み合いには滅法強い小次郎である。その小次郎を捕まえる任を命じられたくらいなので、工藤十郎もそれに劣らぬ戦闘能力の持ち主だったのだろうが、小次郎はかれらと小合戦に及んだ末、見事十郎を討ち取り、指揮官を失った敵が混乱している隙に、いずこかへ逐電した(*註)。


 捕縛吏は平太の元にもやってきた。


「何だ、そちたちは──」


 謀が露わになったとは知らない平太は、ほとんど丸腰である。平太の屋敷に突如現れた義時の被官、金窪行親と安東忠家を見て狼狽した。


 金窪行親は武蔵国児玉郡こだまぐん(埼玉県上里町かみさとまち金久保かなくぼ付近か)出身の侍で、元々は武蔵七党の児玉党に属していた者ではないかと、筆者は勝手に想像している。今は義時の家来に納まっていて、側近とも目されているが、義時の命令ならどのような事でも実行する、悪魔の化身のような男である。


 この男は、修禅寺の門前にある湯治場で入浴していた前将軍頼家を襲い、抵抗する頼家の首に縄をかけ、陰嚢を握り潰して怯ませた上で刺し殺すという、なんとも残忍な方法で殺害したほか、頼家の家人たちの多くを殺害するのにも一役買っている。また、後には駿河に住む頼朝の甥の阿野あの時元ときもとを、謀反を企図したかどで攻め滅ぼしている。仮に内裏の奥にまします帝を害せよ、と言われても、それが義時の命であれば、金窪行親は何の躊躇もなく御所に踏み込み天皇殺害を実行するだろう。


 金窪はのちに侍所所司となり、その他謀反人の尋問を担当したり、騒ぎを起こした御家人の糾明使になったりしているが、このような職務は当然のように拷問が付随するので、この男のように暴力的な人間には適任なのだろう。


 平太は金窪がどんな男なのかを知っている。この男が武装してやって来た意味もすぐに理解した。


 平太と金窪らは屋敷の前庭で睨み合っている。騎乗している金窪と安東の後ろには、彼らの家来どもが薙刀や六尺棒などを手にして、控えている。


「和田平太胤長たねなが、その方の企てはすでに暴かれている。神妙に縛につけ」


「なに! うぬらなどに俺が捕まると思っているのか!」


 平太は金窪と安東に向けて怒鳴った。怒鳴りながら、必死に脱出するすべを考えている。


 大鎧を身にまとった金窪は、平太の内心を敏感に察知して言った。


「逃げる道などないぞ、おとなしくお縄になれ。さもなければ容赦はせぬ」


「ふざけるな!」


「ふざけているかどうかは今に分かる──」


 金窪は薄ら笑いを浮かべ、馬上、手にした弓を振って、六尺棒を構えた手下に指図した。


「それ、こ奴を召し取れ」


 平太は身構えながら辺りの様子を窺った。すると通りに面した表は勿論のこと、屋敷の裏手からも馬の嘶きがかすかに聞こえ、多くの武者がいる気配がする。どうやら屋敷は金窪らの人数で取り囲まれているらしい。


 ──やんぬるかな。


 とは平太は思わない。なんとかこの窮地を脱して本家の左兵衛らに注進せねばならない。しかし彼も、この場にいる郎党も、身に着けている得物は脇差しというべき小刀しかない。


「しっかり生け捕れよ──。殺してしまっては楽しみがなくなる」


 金窪は下唇を舐めながら恰好を崩した。


 小規模な乱闘の結果、平太は多数の六尺棒に叩き伏せられ、あっさりと金窪の手に落ちた。


 同じころ、千寿丸が養われている三浦胤義の屋敷にも官憲が現れ、千寿丸を連行していった。和田四郎、五郎兄弟も義時の手の者に屋敷を急襲されて、抵抗するすべもなく捕まった。


 この間、和田一族の頭領である和田左衛門尉義盛は、領地のある上総国伊北荘いほくのしょう(房総半島東部の夷隅川中流部、千葉県大多喜町付近)に下向していて、鎌倉を留守にしている。




 *註釈


 吾妻鏡では、陰謀発覚から半月ほど経った三月二日に、大倉御所の目の前にある筋違橋(筋替橋)辺りに泉小次郎が隠居(潜伏)していると判明し、工藤十郎を遣って捕縛しようとしたところ、小次郎は工藤らを殺害して逃亡した、としている。しかしどのような事情があったにしろ(例えば義時暗殺を企てていたとしても)、まだ事件のほとぼりが冷めやらぬ半月後に、小次郎が鎌倉くんだりに、まして御所の目と鼻の先に潜伏していたとはにわかに信じがたく、吾妻鏡のこの記事は信憑性が感じられない。

 また一説には、小次郎は筋違橋のたもとで寝ていたともされるが、これこそ誰かが話を面白くするために「盛った」としか考えられない。

 ところで橋の名称について、筆者の手元にある「吾妻鏡」や「鎌倉北条九代記」では「建橋」(「違橋」の誤写であろうか)、「将軍記」では「立橋」となっているが、「岩瀬案内記」という書物には「二枚橋」と書かれている。この「二枚橋」は川崎市麻生区に架かる橋のことかもしれない。泉小次郎の屋敷は現在の横浜市泉区にあったというので、何らかの関連がありそうな気もする。



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