僕は女になりたかった

ガジュマル

僕は女になりたい

 僕は女になりたい。そう感じ始めたのいつの日だっただろうか。中学生の時、女子より男子の方が可愛いと思い始めたのが発端だ。


 曰く、女子よりも男子の方が純粋だから。これはある一側面においては事実だと思う。男性は単純、女性は混沌を指し示す節は誰しもが経験があると思うから、また、女性は精神的に熟すのが早いからこそ少なからず中学生という時代においては男性の方が女性よりも(ある側面において)単純/純粋であるといえる。しかし、結局この問題は私の環境が原因であると結論づけた方が良いだろう。


 この時、真剣に私は自身がゲイセクシャルでないかと悩んだ。悩んだ末、ゲイポルノに拒否感を感じるという理由で自信をヘテロセクシャル、異性愛者というふうに結論づけた。


 しかし、日に日に疑惑は疑念へと変わっていく。少女漫画を読むようになった。ドロドロした純愛を好むようになった。アニメが好きだったが、基本的にラブコメ作品は心理描写の細やかさ、自然さで選ぶようになった。


 これぐらいならよくある話だが、一つ決定的なことが起こった。それは、チンコに興奮したのだ。


 私の論理は前提から崩れ去った。今まで自分はゲイポルノを見ることができないという理由でヘテロセクシャルであると結論づけていたが、この出来事によって自分はバイセクシャルではないかとまず考えた。


 そして天啓が降りたのだ。マンコが欲しい、と。


 これは男性がしばしば考える「女性の快感は男性の何倍もの強さらしいから一度女体化して体験してみたい」という快感目当てものものではない。オナニーをするときに、想像してみて、きっと自分はチンコを握ってるよりマンコをいじってる方が自然だというふうに感じたのだ。純粋になぜ男性器であって女性器出ないのだろうと思ったのだ。


 そこから思いは強くなった。女性者の下着を履きたいと思った。スカートを履いてみたいと思った。


 こう言った話をして、人は私に問いかける。「それは、女装とは何が違うのかね?」と。


 確かに男性でありながら、心身ともに男性だと自他共に認めているものが、それでも女装願望を持つ場合がある。彼は男性であるが、しかし、女性らしい格好をしたがる。こう言った人種と、私は何が違うのかと。


 明確に違う、と私は言いたい。それは、私は女性らしいことをしたのではない。女性になりたいのだ。


 聞くが、女性の全てがファッションに興味があると思うかね。女性の全てがズボンを履いてないと思うかね。


 違う。違うのだ。女性であるからと言っても十人十色。いろんな人がいる。


 それでは、いったい何を持ってしてジェンダーを確定するのか。


 心だ。心で、本当にそうありたいと願うものがそうなれる。


 例えば1人のヘテロセクシャルである男にこう聞いてみるとしよう。「君は男性と女性、どちらが好きか?」と。


 きっと彼は「女性だ」と答えるに違いない。では、こう聞いてみよう。「本当にそうなのか? 君は、本当に好きになれるような男性にたまたまこれまで出会わなかっただけで、本当はバイセクシャルなのではないか?」と。


 この質問はきっと彼に大きなストレスを与えるであろう。なぜならば、彼は自分がヘテロセクシャルであるとわかっているのに、周囲にそれを証明できない。認めてもらえないのだ。


 こう言った問題はあらゆるジェンダーにおいて起こりうる。故にジェンダーとは疑い、証明するものではない。個々人がそれぞれの環境において自己申告するものだ。つまり、インターネットのハンドルネームと同じく、自身で決めて良いのである。


 例えこれまで男性が好きだった女性も、それをただの気の迷いだったとして自身はレズビアンであると呼称しても良い。自分に自信がなくても、そうありたいと願うのであれば、どのジェンダーに属しようと問題ではないのだ。やってはいけないのは、人のジェンダーを疑うこと。なぜなら、人が持つジェンダーというのは先ほどの問題にも示される通り、突き詰めればどうやっても証明できないものだからだ。


 それにおいて、私は女性として振る舞う自分と男性として振る舞う自分を想像し、ある状況下においては女性として振る舞う方が感覚として「自然である」というふうに感じたから、私はトランスジェンダーであると位置付けた。私にとって、女性であるこの上ない証はマンコであり、それをいじるのは女性の特権であると感じていたから、そういう価値感覚だったから、そうしたいと思ったのだ。


 しかし、それが女装願望や女体化願望と違うのは、別に女の子らしいことをしたかったわけではないということに帰結する。


 私は女性でありたかった。しかし、女性だからといって所謂女性らしいことをしなきゃいけないわけじゃない。そうとも限らないのだから、特段そう言ったことに興味がわかなかったのだ。


 とは言ったけれど、別に全くなかったわけじゃない。先も言ったようにスカートを履いてみたいと思ったこともあるし、なんならお姫様のような可愛いドレスに身を纏って、柔らかな髪をたなびかせてキラキラした自分になりたいという思いはどこか私の中で燻り続けている。しかし、私は外見から声帯から骨格、ホルモンに至るまで男性だ。そんな私が女性らしい格好をしたところで歪なだけ、私の本当になりたいものには慣れていない。根が女性でないのだから「女性」にはなれない。仮にどうにかこうにかメイクやファッションで着飾って、なんとか女性のように見えるよう取り繕ったとして、今の自分とは大きく違ってしまう。それはただの外面を取り繕っただけで、本当の自分を表現したことにはならないのだ。


 故に下着。下着なら誰にも見られることはないし、パンティというのは私にとって女性が履いているものであるという認識が強かったから、それを履くことでもしかしたらもっと女性らしくあれるのではないかと考えた。


 本当なら少し可愛く見える服を着て、靴を履いて、下着を履いて、自分を大切にして、サラサラな髪を結いながら身支度をしてる方が性に合ってるのだと思う。もし私が女性として生まれていたら、どちかというと男っぽいボーイッシュな格好をして街を出歩いていたと思う。けれど、残念ながら今の私がそのような格好をすることには側から見れば違和感を覚える。


 他の人はどうか知らないが、少なくとも自分が女性らしい格好をしている姿は思い付かない。男性性が強く入り混じり、そして、そんな自分を私は否定する気がない。


 言うなれば、男性性85%、女性性15%程で構成されているのだ。そしてメンタリティの30%を女性性が占めている。


 私は男性であることに誇りを持っている。自分が男の体を持っていることはしょうがないと思うし、プライドを持っているのかもしれない。


 けれど、時折思う。少しでいいから、燻ったこれを発散できないかと、露出できないかと。


 とどのつまり承認欲求だ。承認欲求を満たすには、まず、表現することから始まる。しかし、今の社会において私がありのままの姿を晒し、表現するのは少々危険だ。それについてどうにかしろと世に問い直し、他人を変えようとは思わない。どこまでいっても、これは私の問題なのだから。


 故に私は今日も今日とても男もののパンツを履く。ジャージに着替え、外に行く時もダウンにズボンという、実に学生らしい格好をする。私は女性っぽくなりたいわけじゃない。女性になりたかったのだ。その証として、生物学的に最も強力強固な証拠となる女性器を欲した。それがあれば、身も心も女の子になれるような、そんな気がしただけだ。それが叶わぬのであれば、別に女装をすることにそこまで価値はないはずだ。


 買い物をしたら家に帰り、親の代わりにご飯を作る。ネグレクトではない。分担しているだけだ。そうして、暇な時間に文字通り余暇を過ごし、そして、深夜になってマスをかく。その時見ているのは男向けのポルノというのだから、ひどく皮肉的だ。私の全ては、なにも女性だけでは構成されていないという証拠である。


「世界は何一つ変わらない。変えたいのであれば、まず自分から変えることだ」と、誰かが言っていた気がする。


 故に私は、今日も変わらない。



 けど、きっとどこかで思っている。「女の子みたいになりたい」と。




──了。


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