三 運命の交差(リシェ)

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 もう怖くはない、とリシェがそう言ったのは嘘ではなかった。ネルクの戸惑う眼差しに、どこかで申し訳なさを感じもしたけれど、名を繋いだこと自体は後悔はしていなかった。幼い頃から見守ってくれた彼以上に信頼できる相手を見出せるとも思っていなかったので。


 翌朝、祈りの間を訪れたリシェの前で、日頃は温厚な空の神殿の神官長でさえ顔を顰めた。だが、すでに繋いでしまった名の契約は取り消せるものではない。何よりネルクの日頃からの真摯な態度を思えば、強行に反対する理由もないと結論づけたようだった。

「けれどねえ、リシェ、いずれにしても彼は地の神殿へ共には行けないのよ?」

「わかっているわ。だからこそ、名を繋いだの」

「彼の心を縛るために?」

 率直な言葉は、小さくとも確かに非難の響きを宿していた。驚いて目を向けると、神官長は愁眉を開いたけれど、慈愛に満ちた老女の顔には、それでもやはりどこか憂う色が浮かんでいた。

「あなたに悪気がないのはわかっています。けれど、空の神官が地の神殿を訪れることができるのは、つがいの儀式の同伴者として送り届けるときと、生まれた仔の名を披露するいわいの儀式の日のみ。それほど深い絆を結びながら、離れていることが辛くはないの?」

「私は平気よ。ネルクを忘れないしずっと身近に感じていられるもの。彼だって私のことを忘れないでしょう?」

「それこそが問題だと……いえ、彼が了承したのなら、私たちが口を出すことではないのでしょう」

 彼女の頬に手を伸ばし、神官長は切なげに微笑んだ。

「あなたが神殿を去るのは私たちにとっても寂しいこと。けれど、どうか幸せに。忘れてしまえるほど幸せになってくれるのなら、それが一番ですよ」

 どうしてそんなことを言うのか、その時の彼女にはわからなかった。彼女が結んだ真摯ではあったけれど、無邪気な誓いが、どれほど残酷なものであったかも。


 そうして知らぬままに、番の儀式で伴侶となる黒竜と出会った瞬間、彼女はというものを自覚した。


 衣装まで含めて全て淡い色の彼女とは対照的に、青みがかった黒い衣装に身を包んだ彼は夜そのもののような黒髪と、微かに緑がかった、見つめていると吸い込まれてしまうような深い青の瞳の持ち主だった。彼は、リシェがそれまで出会ったどんな人とも異なっていた。一目見た瞬間に、この人だ、とわかってしまうほどに。


 空の神殿で一人祈っていた彼女に、神はその重荷を共に分かち合う相手を用意していてくださったのだ。何の疑いもなくそう確信した。


 名しか知らなかった相手もそれは同様だったらしく、蕩けるような甘い笑みを浮かべて壇上に上がると、彼女の手を取って胸に押し抱いた。

「リシェ、私の運命の人。ずっとあなたに会えるのを心待ちにしていました」

 真っ直ぐな言葉に心が昂揚する。運命というものをかけらも信じていなかった彼女の最後の反発心さえ、その人の笑みは容易に溶かし柔らかく包み込んでしまう。触れられた手から伝わる温もりと、それ以上に神気を通して伝わる真摯な想いに、リシェはもう降伏するよりなかった。何よりもその伴侶を得たことに理性よりも本能で圧倒されるほどの幸福感を感じて。


 だからこそ、リシェは気づかなかった。招かれた神官たちがひざまずく中、彼女をじっと見つめる眼差しの一つが悲痛な色を浮かべていたことに。押し隠そうとしても隠しきれない痛みを、ただ俯くことでやり過ごしたことも。

 はその痛みを彼女には決して見せなかった。名を繋ぎ、受け継いだ叡智と共に、その身に宿した激情をねじ伏せてただ微笑んだ。その想いを押し隠し、彼女の幸福だけを願えるほどに愛していたからこそ。


 その深い愛が、悲劇の呼び水となることなど、まるで予想だにすることもなく。

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