五 対峙

 大剣を構えた男に、けれど緋竜は一瞥いちべつをくれただけで、ばさりと翼を羽ばたかせ、もう一度浮き上がる。そうして空から容赦なく炎を吐きかけた。相手は翼持つ竜だ、それはそうだろうと半ば呆れながら、シェンは熱波を避けてティスと共に木陰へと滑り込んだ。


「あいつ、剣でどうするつもりなんだ?」

「だよね……」

 彼らの声が届いたのか、盛大な舌打ちが聞こえた。男が低く何かの音の連なりを呟くと、その剣がふわりと薄青い光をまとう。男は大剣の刃を担ぐように肩に載せ、空からこちらを睥睨へいげいする竜を見上げた。剣のつかに右手を添え、ぐっと歯を食いしばる。

「空は、お前たちのものじゃない」

 緋竜を睨み据え、低く絞り出すように呟かれた言葉に、シェンははっと目を見開いた。眼前で吹きつける炎を青く輝く剣が二つに切り裂き、風の刃を放つ。

「その程度の炎で俺を焼けると思うな。この辺り一帯を焼き尽くしたとて、俺はお前たちを追うことをやめない。逃げても無駄だ」

 挑発する言葉を緋竜が理解したのかはわからない。それでも男の不敵な笑みと、掲げられた剣の意味は理解したのだろう。緋竜は向きを変え、下降し始める。だが、その標的は男ではなかった。

「な……ッ」

 真っ直ぐにティスとシェンに向けて滑空し始めた竜に、ティスが怯えた声を上げる。止める間もなく、木の影から飛び出し、街へ続く道へと駆け出した。

莫迦ばかが!」

 男がぎしりして叫ぶのが聞こえた。同時にシェンも気づく。


 あちらに街があることに緋竜がすでにきづいているかどうかはわからない。けれど、ティスを追っていけば確実に見出すだろう。そして、緋竜は一度見つけた街を、決して見逃しはしない。廃墟になるまで焼き続けるのだ。


 ごう、と炎がシェンのすぐ脇をかすめた。駆け出したティスの背中に炎が迫る。

「ティス‼︎」

 叫んだシェンの横を黒い影が疾風はやてのように駆け抜け、ティスの小柄な前へと突き飛ばした。大きなその背を真っ赤な炎が舐めるように包み込む。

「ぐ……っ」

 呻き声に、シェンはためらいも忘れて駆け寄る。

「大丈夫⁉︎」

「これくらい、なんとも……ない」

 だが、男の髪も肌もあちこちが焼け焦げ、無惨な様子を晒していた。その程度の炎で、と言ってたのは強がりに過ぎなかったのか。それでも男は剣を離そうとはしない。

「逃がすか!」

 低く呟いた時、ばさりと大きな羽音がすぐ近くで聞こえた。いつの間に降り立ったのか目と鼻の先に異形の竜の顔があった。感情を映さない黄色い眼球——だが、それがなぜか興味深そうにシェンを見た気がした。

「莫迦! ぼーっとしてないで逃げ——!」

 目の前に炎が迫る。男は立てそうにない。ティスは逃げたが、このまま緋竜が街に迫れば、いずれにしても街の被害は避けられない。

「そんなこと、許せない」

 大切な人がいる、大切な場所。それをこんな——に。

 どくん、とシェンの心臓が大きな音を立てた。同時に背中に熱と痛みが走る。身体中の熱が背中に集まってくるような。

「……ッ」

「どうし——」

 緋竜がその顎から炎を吐き出そうとした瞬間、シェンの中で何かが弾けた。手のひらを緋竜に向け、背筋を伸ばして睨みつける。

「木々は炎を生み、炎は大地をはぐくむ」

 溢れた言葉はネルクが教えてくれた祈りの詩篇。ただの昔話かおとぎ話のように聞こえていたその言葉が、今や別の意味を持つ。


『祈りは願いです。かつてあまねく天地に満ちていた摂理を示し、秩序を取り戻すための』


 青年の声が脳裏にはっきりと蘇る。言葉に込められたのは、容易には届かない場所へ、それでも懸命に手を伸ばし掴もうとする意志。

「破壊し、焼き尽くすだけの火など、まがものに過ぎない」

 シェンの淡い空の色の瞳が濃さを増す。彼女自身は知らなかったが、それは、空を覆う雲の向こうの澄み切った色と重なる。

 シェンの身から淡い光が溢れ、その瞳が真っ直ぐに緋竜を捉える。切先のように伸ばした指先を突きつけられた緋竜がギィ、と怯えたような声を上げる。

 後ろで男が息を呑む音が聞こえたが、シェンはただ真っ直ぐに緋竜を睨み据えた。不思議と恐怖は感じなかった。ただ、己の中の何かが確信していた。


 こんなものは、自分にとっては取るに足らない紛い物に過ぎない、と。


 シェンが口を開くより先に緋竜が後退り、空へと舞い上がる。それを見て、男が舌打ちする音が聞こえた。

「逃がすか!」

「無茶だ、そんな体で! 飛べもしないのに」

「くそ……ッ」

 男はそう歯軋りしたが、そのまま地面に崩れ落ちた。慌ててその体を支える。

 見れば男の背中と左半身は無惨に焼け焦げていた。常人ならとっくに気を失っていてもおかしくない。なのに、男はシェンを見上げると、片眉だけを上げて不敵に笑った。

「まあ……いいか。どうやら、俺はらしいからな」

「え? ちょっとどういうこと⁉︎」

 だが男は問いに答えることなく、そのままシェンの腕の中で意識を失った。

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