二 夜と森の愛し子
弾かれたように身を起こし、あたりを見回してそこが見慣れた自分の部屋だと気づく。まだ震える体を抱きしめるように左肩を右腕でぎゅっと掴むと、ごく淡い金の髪がふわりと揺れる。しばらくそうしてじっとしていると心臓の音も静まってきて、他に物音もしないのを確認し、彼女はようやくそっと息を吐いた。
「ただの夢だよね……」
窓の外を見れば、空は白み始めていた。見知らぬ光景なのにひどく生々しい悪夢を見て
冷え冷えとした窓の向こうの空の色は、穏やかに、けれど鮮やかに変わっていく。ぼんやりとそれを眺めていると、トントンと扉を叩く音がした。低く柔らかな声がくぐもった響きを宿して届く。
「もう起きていますか?」
聞き慣れた声に、するりと寝台をすべり降りる。扉を開くと、
柔らかな
「おや、失礼ですね」
「何も言ってないよ」
「あなたは私の髪の毛の跳ねているところばかり見るでしょう」
「だったら
「あなたの髪を寝癖のままにしておくなんて、森の精霊たちへの
「私はシェンだよ、ネルク」
「
「生まれ持った名は変えられない。そう言ったのはあなたじゃないか」
「それはそう、ですが……」
名は生まれながらに神から与えられるものだ、という。そこに両親が選んだ祈りや願いの言葉の一部を
何かしらの事情があって正式な名を持たない者は、婚姻をせずとも名を選ぶこともできる。ただし、基本的には自分の道を自分で選べるようにと、成人してからのことが多い。
「まあ、今はあなたがそれで良いのなら。いずれあなたが成人する時にまた考えましょう」
ネルクはそう肩を竦めて頷いた。
今もそうして屈んで間近に視線を合わせたネルクは、わずかに眉根を寄せてシェンの頬に手を伸ばし、柔らかく撫でてから、そっとその胸に彼女の頭を引き寄せた。
「また、怖い夢を見ましたか?」
「平気。ちょっと背中が痛い気がしただけ」
そう言うと、青年の体がぴくりと震えた。けれど、強張った腕の力はすぐに緩んで、そうっと壊れ物を扱うように柔らかく彼女の頭を撫でる。
「眠れないのなら、温かいお茶でも
「まだ朝早いよ?」
「今日は
もうそんな時期か、とシェンはネルクの腕の中でほう、と息を吐く。春待ちの宵祭は一年に一度、冬の終わり、春の先触れの東風が吹く時期に行われる。シェンたちの住むオリの村は西の果て、やや北に位置する。冬には数日降り込められるほどの雪が積もることもあるが、もっと北の国に比べれば、冬の厳しさはまだましな方だ。それでも野菜や果実の少ない冬は楽しみが多いわけではなかったから、木の芽吹きを感じれば誰もが心を弾ませる。
冬の備蓄の中から木の実や干し果実でパンや焼き菓子を作り、家畜に余裕があれば炙り焼きにして皆で分け合う。ささやかながらも皆が楽しみにしている行事のひとつだった。
「お祭りは夜からなのに、早起きするの?」
「もう十年ですからね。ちょっとしたお祝いのようですよ」
「十年……」
「あなたがここに来てくれた感謝を皆が伝えたいのですよ」
「そんなの……私は何もしてないし。どっちかっていうと、みんなが感謝してるのはネルクにでしょ?」
目の前の青年はこの街の
青年は静かに首を横に振り、それ以上は何も言わず柔らかな毛織の肩掛けでシェンを包み込むと部屋の外へと促した。台所と一続きになった居間の暖炉には明るい火がぱちぱちと静かな音を立てて燃えている。そのそばに置かれた柔らかなクッションの上にシェンを座らせ、テーブルの方へと歩いていく。その背中を見ながら、シェンは首を傾げた。
「火を
この辺りは森の中だから、薪には事欠かない。それでも日が沈めば人々はカーテンを閉めてひっそりと過ごす。蝋燭の灯りは限りなく小さくし、淡い光を放つ白色貴石の
「言ったでしょう、今日は皆早起きをするから、と」
「それにしたって、まだ夜明け前だよ」
「すぐに明けますよ。今日は昼と夜の長さが等しくなり、太陽が力を取り戻す日。空が明るさを増せば、守り石もより力を得るでしょう。あなたの負担も減るはず」
その言葉に、どきりとシェンの心臓が跳ねた。そんな彼女の内心を知ってか知らずか、ネルクはシェンの手をとり持っていた木のカップを握らせた。口をつけると少しばかりぴり、と舌先に刺激を感じたけれど、すぐにとろりとした甘さが包み込む。
「
「ええ、体が温まるでしょう?」
ネルクはシェンを椅子に座るよう促し、後ろに回って彼女の髪を
彼女は穏やかなその色が大好きだった。少し赤みがかった、豊かな実りを生み出す大地の色だ。本来は空を舞う
「では、それを飲み終えたら、今のうちに行きましょうか」
「え……?」
ネルクの言葉にシェンの体が強ばる。どこへ行くのか、問わずともわかったからだ。常にシェンに優しい青年は、それでも、それだけは譲ってはくれない。
「この街の人々と——何よりあなたを守るためです」
どうか、と眉根を寄せて懇願するように言われれば、シェンにはそれを拒めるはずもなかった。
ネルクに促されるままに、手早く着替えて
——いつか、こんな空を見上げたことがあるような気がして。
「どうかしましたか?」
振り返ったネルクは、シェンの顔を見て気遣わしげに眉根を寄せた。何でもないと首を振り、そのまま足早に追いついて一緒に歩いていく。たどり着いたのは街外れの崖。そこに掘り込まれたような大きな石扉だった。街の食糧の備蓄や武器庫として長らく使われてきたその奥へと続く石扉は、
一見ただのごつごつとした岩にしか見えない。だが、ネルクが右の手のひらをぴたりと当てて何かの一連の音の連なりを呟くと、その変化はすぐに現れた。
触れているところを中心に、幾つもの円が波紋のように広がる。さらに放射状の線がまるで太陽のように浮かび上がった。ネルクは目を閉じ、今度は低く歌うように、いくつもの音の連なりを紡いでいく。
その響きに呼応するように、円と放射状の線の間に絡まる
「不思議……」
「何度見ても見飽きないですね」
「ネルクもそう思う?」
「ええ、これほどのものは世界中を見渡してもそうはありません。ずっと貴重なものが収められ、守られてきたのでしょう」
「貴重なもの……」
シェンがそう呟くと、ネルクはふっと表情を和らげた。大きな手でシェンの頬に触れ、親指を滑らせるように撫でて顔を覗き込んでくる。
「まあ、あなた以上に貴重なものなどありませんが」
「人を珍獣みたいに言わないでよ」
「希少で可愛らしいのは間違いないですけれど」
くすくすと笑うその顔に緊張も和らいで、促されるままに奥へと足を踏み入れた。
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