二 夜と森の愛し子

 弾かれたように身を起こし、あたりを見回してそこが見慣れた自分の部屋だと気づく。まだ震える体を抱きしめるように左肩を右腕でぎゅっと掴むと、ごく淡い金の髪がふわりと揺れる。しばらくそうしてじっとしていると心臓の音も静まってきて、他に物音もしないのを確認し、彼女はようやくそっと息を吐いた。

「ただの夢だよね……」

 窓の外を見れば、空は白み始めていた。見知らぬ光景なのにひどく生々しい悪夢を見てうなされるのはこれが初めてではない。夜明けが近いこんな時間に目を覚ましても寒いばかりだ。もう一度、毛布に潜り込んで眠ってしまう方がいい。そうわかっているのに。

 冷え冷えとした窓の向こうの空の色は、穏やかに、けれど鮮やかに変わっていく。ぼんやりとそれを眺めていると、トントンと扉を叩く音がした。低く柔らかな声がくぐもった響きを宿して届く。

「もう起きていますか?」

 聞き慣れた声に、するりと寝台をすべり降りる。扉を開くと、角灯ランタンに照らされた背の高い影があった。


 柔らかなかしの木のような色の髪に、もう少し赤みがかった鳶色とびいろの瞳。彼女にとっては誰よりも親しい人の姿に、ほっと息を吐く。不思議そうに首を傾げた拍子に揺れる青年の髪は背の半ばまでさらりと流れて美しいが、ところどころ跳ねている。いつも通りのそんな様子に、気が抜けたついでに思わず吹き出してしまう。


「おや、失礼ですね」

「何も言ってないよ」

「あなたは私の髪の毛の跳ねているところばかり見るでしょう」

「だったらかせばいいのに。私のは毎朝やるくせに」

「あなたの髪を寝癖のままにしておくなんて、森の精霊たちへの冒涜ぼうとくですよ、フォルヴィ」

「私はシェンだよ、ネルク」

 ネルクという名を持つその青年が甘やかに呼ぶ声がくすぐったくて、シェンは苦笑しながら首を横に振る。真白い森フォルヴィというのは、青年が彼女につけた愛称だ。

薄い色シェンだなんて。私だったらもっとぴったりな名前をつけて差し上げたのに」

「生まれ持った名は変えられない。そう言ったのはあなたじゃないか」

「それはそう、ですが……」


 名は生まれながらに神から与えられるものだ、という。そこに両親が選んだ祈りや願いの言葉の一部をつなぐ。婚姻をすると、両親から繋がれた名を解き、相手の名を自分の第二の名として繋ぐ。シェンは親を知らず、だからただのシェンのままだった。

 何かしらの事情があって正式な名を持たない者は、婚姻をせずとも名を選ぶこともできる。ただし、基本的には自分の道を自分で選べるようにと、成人してからのことが多い。


「まあ、今はあなたがそれで良いのなら。いずれあなたが成人する時にまた考えましょう」

 ネルクはそう肩を竦めて頷いた。角灯ランタンが放つ白色貴石の光に照らされた表情は、いつも通りの優しいものだ。彼女よりも頭一つ高いのに、いつも少しかがんで彼女の顔を覗き込むように近づくから、あまり背の高さを感じさせない。

 今もそうして屈んで間近に視線を合わせたネルクは、わずかに眉根を寄せてシェンの頬に手を伸ばし、柔らかく撫でてから、そっとその胸に彼女の頭を引き寄せた。

「また、怖い夢を見ましたか?」

「平気。ちょっと背中が痛い気がしただけ」

 そう言うと、青年の体がぴくりと震えた。けれど、強張った腕の力はすぐに緩んで、そうっと壊れ物を扱うように柔らかく彼女の頭を撫でる。

「眠れないのなら、温かいお茶でもれましょうか」

「まだ朝早いよ?」

「今日ははるちのよいまつりの日ですから、皆早起きしていますよ」


 もうそんな時期か、とシェンはネルクの腕の中でほう、と息を吐く。春待ちの宵祭は一年に一度、冬の終わり、春の先触れの東風が吹く時期に行われる。シェンたちの住むオリの村は西の果て、やや北に位置する。冬には数日降り込められるほどの雪が積もることもあるが、もっと北の国に比べれば、冬の厳しさはまだましな方だ。それでも野菜や果実の少ない冬は楽しみが多いわけではなかったから、木の芽吹きを感じれば誰もが心を弾ませる。

 冬の備蓄の中から木の実や干し果実でパンや焼き菓子を作り、家畜に余裕があれば炙り焼きにして皆で分け合う。ささやかながらも皆が楽しみにしている行事のひとつだった。

「お祭りは夜からなのに、早起きするの?」

「もう十年ですからね。ちょっとしたお祝いのようですよ」

「十年……」

「あなたがここに来てくれた感謝を皆が伝えたいのですよ」

「そんなの……私は何もしてないし。どっちかっていうと、みんなが感謝してるのはネルクにでしょ?」


 目の前の青年はこの街のさいつかさどる神官のような役割を務めている。ような、というのは、シェン自身が神官どういうものなのかよく知らないせいだ。


 青年は静かに首を横に振り、それ以上は何も言わず柔らかな毛織の肩掛けでシェンを包み込むと部屋の外へと促した。台所と一続きになった居間の暖炉には明るい火がぱちぱちと静かな音を立てて燃えている。そのそばに置かれた柔らかなクッションの上にシェンを座らせ、テーブルの方へと歩いていく。その背中を見ながら、シェンは首を傾げた。

「火をおこしておいてくれたの?」

 この辺りは森の中だから、薪には事欠かない。それでも日が沈めば人々はカーテンを閉めてひっそりと過ごす。蝋燭の灯りは限りなく小さくし、淡い光を放つ白色貴石の角灯ランタンだけが夜の頼りだ。

「言ったでしょう、今日は皆早起きをするから、と」

「それにしたって、まだ夜明け前だよ」

「すぐに明けますよ。今日は昼と夜の長さが等しくなり、太陽が力を取り戻す日。空が明るさを増せば、守り石もより力を得るでしょう。あなたの負担も減るはず」


 その言葉に、どきりとシェンの心臓が跳ねた。そんな彼女の内心を知ってか知らずか、ネルクはシェンの手をとり持っていた木のカップを握らせた。口をつけると少しばかりぴり、と舌先に刺激を感じたけれど、すぐにとろりとした甘さが包み込む。

蜂蜜はちみつ生姜ジンジャー?」

「ええ、体が温まるでしょう?」

 ネルクはシェンを椅子に座るよう促し、後ろに回って彼女の髪をく。手際よく緩やかな三つ編みに編み込んでいくその手は大きく温かい。見上げれば、鳶色の瞳もいつも通り穏やかに笑んでいた。

 彼女は穏やかなその色が大好きだった。少し赤みがかった、豊かな実りを生み出す大地の色だ。本来は空を舞う猛禽もうきんの色だと聞いたことはあったけれど。

「では、それを飲み終えたら、今のうちに行きましょうか」

「え……?」

 ネルクの言葉にシェンの体が強ばる。どこへ行くのか、問わずともわかったからだ。常にシェンに優しい青年は、それでも、それだけは譲ってはくれない。

「この街の人々と——何よりあなたを守るためです」

 どうか、と眉根を寄せて懇願するように言われれば、シェンにはそれを拒めるはずもなかった。


 ネルクに促されるままに、手早く着替えて外套がいとうを羽織り、外へ出る。春の気配が近い夜明けの空気は冷たく澄んで、けれど真冬ほどの鋭さはもうなかった。東の森の向こうからゆっくりと日が昇り、空を薔薇色に染め上げていく。美しいのに燃えるようなその色に背筋が冷えた。


 ——いつか、こんな空を見上げたことがあるような気がして。


「どうかしましたか?」

 振り返ったネルクは、シェンの顔を見て気遣わしげに眉根を寄せた。何でもないと首を振り、そのまま足早に追いついて一緒に歩いていく。たどり着いたのは街外れの崖。そこに掘り込まれたような大きな石扉だった。街の食糧の備蓄や武器庫として長らく使われてきたその奥へと続く石扉は、小人妖精ドワーフの手になるものだと言われている。


 一見ただのごつごつとした岩にしか見えない。だが、ネルクが右の手のひらをぴたりと当てて何かの一連の音の連なりを呟くと、その変化はすぐに現れた。

 触れているところを中心に、幾つもの円が波紋のように広がる。さらに放射状の線がまるで太陽のように浮かび上がった。ネルクは目を閉じ、今度は低く歌うように、いくつもの音の連なりを紡いでいく。

 その響きに呼応するように、円と放射状の線の間に絡まるつたのような紋様が浮かび上がり、やがて中心に細く亀裂が現れる。蔦模様が石扉全体を覆って埋め尽くすのと同時に、中心の亀裂から奥へと招くように扉がゆっくりと開いていく。


「不思議……」

「何度見ても見飽きないですね」

「ネルクもそう思う?」

「ええ、これほどのものは世界中を見渡してもそうはありません。ずっと貴重なものが収められ、守られてきたのでしょう」

「貴重なもの……」

 シェンがそう呟くと、ネルクはふっと表情を和らげた。大きな手でシェンの頬に触れ、親指を滑らせるように撫でて顔を覗き込んでくる。

「まあ、あなた以上に貴重なものなどありませんが」

「人を珍獣みたいに言わないでよ」

「希少で可愛らしいのは間違いないですけれど」


 くすくすと笑うその顔に緊張も和らいで、促されるままに奥へと足を踏み入れた。

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