24 : Lynn
額に衝撃が走る。
すぐ目の前をハイジの
額から生えた角が、ほとんど根本からへし折られ、角を持って引っ張り上げられるかのように持ち上がっていたあたしの体は、角が折れた途端に解放されて、地面に落下し始める。
ドサ、と熱を持ったなにかに受け止められる。
ハイジの腕だった。
微かに震える腕で、ハイジがあたしの体を支えている。
後ろからはノイエ耳障りな悲鳴。
「アアッ! 痛いッ! 痛ぁいッ! ハイジさんっ! 何故ッ! 何でぼくの腕をぉおッ!」
ハイジはそちらを一瞥もせず真っ直ぐあたしの顔を覗き込んでいる。
「……正気に戻ったか?」
「ッ!!」
「それとも……まだなにかに取り憑かれているのか?……」
その顔は、必死で、本当に心配そうで––––。
「見ないで!」
あたしが体をよじって腕の中から逃げると、ハイジはぱっと離れてすぐに剣の柄に手を添える。いつでも攻撃できる体勢だ。
「あたし……あたし……ッ!」
あたしの様子を見て、ハイジはホッとした様子で、柄から手を離した。
「……どうやら正気に戻ったようだな」
「見るな! あたしを見ないでよ!」
「リン」
「見るなって、言ってるでしょぉ……」
恥ずかしくて、悲しくて、耐えられない。心の自由が効かない。イヤイヤと頭を振るものの、額には角の断面がくっきり残っている。
「あたし……あたし……、人間じゃなくなっちゃった……!」
恐る恐る額を触ると、指先にはざらつく角の感触。
「魔物になっちゃったよ、どうしよう、ハイジ!」
「リン」
ハイジが気遣わしげに近づいてくるが、あたしは後ずさって逃げた。
「それに……あたしのせいで、ハイジが! ハイジが、ノイエを……!」
「構わん」
「構わんわけないでしょぉ!?」
ハイジがこれまで、『はぐれ』たちのためにどんな無茶をしてきたか!
あたしはよく知っているはずだったのに!
なのに、あたしのためにハイジが『はぐれ』を斬るなんて!
両手を失ったノイエは、血みどろの中、必死に逃げようとも這いずっている。
辺り一面は、何が起きたかもわからないまま死んでしまった敵兵達。
血の湖ができている。
死体の山。
転がる『はぐれ』の少年の両腕。
その手に握られた、ハイジの思い出のレイピア。
地獄だった。
これをあたしが作り出した……?!
「いやぁああああああああッ!」
あたしは絶叫した。
その途端、額から魔力が大量にあたしに流れ込んできた。
ぞる、と成長し始める角。
(ああ)
(––––やっぱりあたしは魔物なんだ……!)
「嘘っ! 嘘嘘嘘ッ!!」
「リンっ! やめろッ!
「放っておいてよッ!」
「放って置けるかッ!」
「止めたいなら、殺せばいいでしょう! だって、あたしはもう人間じゃないんだから! 魔獣は殺す! 見た目がどうだろうと、見つけたら殺すッ! それが森で生きていくための鉄則でしょうがっ!」
もはや、何を言っているか自分でもわからなかった。
「リンっ! やめろっ!」
「停止ッ! 時間よ、止まれ!」
「リ…………………………………………」
世界が静止した。
いつの間にか雨は上がっており、しかし、動いているものは何もなかった。
静止した世界の中で、動いているのはあたしと……必死の形相でじわじわと動くハイジだけだった。
「わああああああっ!!」
あたしは顔を覆って叫び……ハイジに背を向けると、一目散に逃げ出した。
もうここには居られない。
魔獣なら魔獣らしく……人の居ないところに逃げよう。
狩人に狩られるまで、そうやって生きていこう。
だって、あたしはもう、ハイジの前に立つ資格など無いのだから。
▽ – Eihim
ハイジが気付いた時には、すでにリンの姿は消えていた。
声をかけた時には幻のように消えてしまっていたのだ。
自分の力ではどうしようもないと悟ったハイジは、全速力で自陣に戻ると、傭兵ギルドへ鳩を飛ばし、かつての仲間達を集めるように依頼をかけた。
すでに儀礼戦など、あってないようなものだ。
何しろ、兵站病院から飛び出したリンは、すれ違う全ての敵を無力化しながら敵陣のど真ん中に飛び込み、並み居る将軍達を一瞬で皆殺しにしたのだ。
こんなことは、自分にだって不可能だ。ハイジは今の自分の力では、リンを救い出すことは不可能だと判断した。
念には念を入れて鳩を複数放ったハイジは軍馬を一頭借り受け、飛び乗るが否やエイヒムへと向かった。
巨大な軍用馬車を引いて三日かかる距離を、ハイジはたった一日で駆け抜けた。
結果、借り受けた馬を潰してしまったが、ハイジは気にすることもなく、皆が集まるギルドへと走った。
▽
「リンに逃げられたぁ?!」
ヘルマンニはハイジの言葉がにわかには信じられなかった。
リンのハイジに対する忠誠心(あるいは恋慕)については、疑いようがない。そのリンがハイジから逃げるということ自体がありえないことであるし、さらにハイジがそれを取り逃がしたという事実もにわかには信じがたかった。
確かにリンは強い。その剣は
「マジかよ。何があった?」
「リンが魔力に
「魔力に咽まれたぁ? どういうこった」
「わからん……あんなのは、俺も始めて見た
ヘルマンニの疑問を、ペトラが引き継いだ。
「一体何がありゃあ、そんなことになるんだい。そもそも何故リンがアンタから逃げる必要がある? ……ハイジ。何があったか洗いざらい話しな」
「待てペトラ。まずはリンの状況が気になる。ハイジ。リンが魔力に咽まれたと言ったな?」
「ああ」
「具体的にどうなったのか話せ」
ヨーコの質問に、ハイジは少しだけ逡巡したが、力を借りるために、それを口にした。
「リンの額から角が生えた」
「は? 角?!」
「––––よく見慣れた……あれは魔獣の角だった。捻れていて、長さは『魔物の領域』のイレギュラー級ほどか」
「そ、そんなことあり得るのかい?!」
「生えた瞬間をこの目で見た。とっさに根本から切り落としたが……しかし、魔獣と同じように、周りから魔力を集めているように見えた」
「人間に魔獣の角?……魔獣の角だって?! あたしはそんなもの見たことも聞いたこともないよ!」
「……珍しい事例だが、無いことはない」
ヨーコは腕を組んだまま、ためらいながら言った。
「アゼム師匠から聞いた事がある」
「……」
「といっても、四方山話の類だぞ。師匠の父親が『はぐれ』や魔獣について調べていた事は知っているな?」
「ああ、何度も読んだことがある」
「本には書かれていないかも知れないな。調査中に、誰にも保護されずに生き残った『はぐれ』に遭遇した、という話がある」
「そんなことがありえんのかよ? 『はぐれ』には戦闘能力はないだろ。リンは別として……それに、発生するのはいつも魔物の領域なんだから、 保護されなけりゃ、すぐに死んじまうだろ」
「普通ならな。ただ、その『はぐれ』はまだ小さい子供で、なぜか魔獣に育てられていた、と言うんだ」
ヨーコの言葉に、ヘルマンニが肩をすくめた。
「なんじゃそりゃ。本当にただの四方山話じゃねぇか」
「俺もそう思う。ただ、その話には続きがあってな。その『はぐれ』には、魔獣の角があったというんだ」
ヨーコの話を聞いて、全員が絶句する。
これまで、あらゆる動物の魔獣が見つかっている。ここヴォリネッリならば、狼や熊、兎をはじめ、トナカイや馬、地を這う虫や、さらには樹木など、ありとあらゆる生物が魔獣化する。
だが、人の魔獣だけは存在しない––––それが定説だったからだ。
「俺の読んだ本の中には、そういった言及はなかった。それは、師匠のいつもの冗談だったのではないか?」
「ああ、そうかもしれない」
ヨーコはハイジの意見を肯定しつつも「だが」と話を続ける。
「魔物の領域には、魔獣が自然に発生する。親はおらず、ただいつの間にかそこにいる……それが魔獣だ」
「それがどうしたんだい? リンのことと何の関係が?」
「だが、それはもしかすると、俺たちにはそう見えているだけ、という可能性がある」
「どういうこったよ?」
「なるほど……。魔獣と同じように、
「……『はぐれ』か……!」
「お前も知っていたか、ハイジ」
「ああ……師匠の父親の書いた本は、俺も全て読んだ。角の生えた子供の話はついぞ読んだことがなかったが、『はぐれ』と魔獣の共通項については、何度か目にした」
「そのとおりだ。『はぐれ』の存在はこの世界ではイレギュラーだ。『はぐれ』には例外なく親が居ない。だが、
「な、何を言ってるんだい? じゃあ、なにかい? それじゃあ『はぐれ』は、まるで人間じゃなくて……魔獣みたいじゃないか!」
「ペトラ、落ち着け。そういう説があるってだけだ。ただ……」
ヨーコの言葉に、皆は暗い顔でうつむく。
たしかにこれはただごとではない。
「でもよぅ……俺らに何ができる?」
ヘルマンニがうなりながらそんなことを言った。
「ハイジの頼みなら、そりゃ助けてやりたいぜ? それにリンについても、知らない仲じゃねぇし……だが早い話、お前、俺たちにどうしてほしいんだ?」
「リンを、保護するのを手伝ってほしい」
「保護、ねぇ……」
「ハイジ」
ヨーコが厳しい表情でハイジに問いかける。
「保護できればそれが一番だ。だが……」
一度言葉を区切り、ヨーコは確認するようにそれを口にする。
「だが、それが無理な場合は、
「なっ……! ヨーコ! あんた、何言い出すんだい!?」
「黙ってろ、ペトラ。ヘルマンニが言いたいのも、要するにそういうことだ」
「リンは、あたしの娘みたいなもんなんだッ! 殺させてたまるか!」
「だが、もし本当に人間が魔獣化したのだとすれば、危険だ。魔獣には理性がない。悪意と殺意だけの存在だ。しかもリンだぞ? 俺たちでも手こずるほどの戦闘力を持ち、厄介な魔術が使え、その上無尽蔵の魔力を使えると来た。到底放ってはおけないだろう」
「だからって!」
「よく考えろ。リンが本当に魔獣化したというなら、あいつ一人でライヒ領どころか、ヴォリネッリを滅ぼしかねんぞ」
「なっ……!?」
絶句するペトラを横目に、ヨーコはため息を付いて宣言した。
「リンが元の人間に戻るか、あるいは理性を完全に保てるのでなければ……殺すほかあるまい」
「……ッ!」
だが、それを止める者がいた。
「ダメだ」
「ハイジ?」
「ダメだ。リンを死なせるわけにはいかない」
「……納得いく理由があるなら訊こう」
「理由などない。だが、ヨーコ。お前は傭兵ギルドだけでなく、冒険者ギルドの長でもあるだろう」
「だからどうした?」
「お前たち……元『魔物の谷少年傭兵団』メンバー全員に
「「じゅ……ッ?!」」
「頼む。力を貸してくれ」
ペトラとヘルマンニが絶句する。
それも無理はない。王国金貨は、エイヒムで流通しているものよりも信用度が高い。銀貨数百枚に相当し、一ヶ月の平均収入を上回る。それが十万枚––––王国中の貴族を探したとしても、これだけの金額をぽんと出せる者は居ない。
「おいッ! エイヒムがまるごと買える額だぞ!」
「問題ない。ギルドに預けている額だけでもその程度はある」
「ふむ……」
ヨーコが少し考える振りをして、
「額については魅力的だな。正直、お前からそれを引き出されてしまうと、ギルドが破産する。いわば、ギルドを人質に取られるのと同じようなものか」
「そう取ってもらって構わない」
「では、制限時間については? 三日というのはいささか短いのではないか?」
「それについても、相談したい」
「聞こう」
「三日以内に区切った理由は単純だ。––––おれの命があと四日だからだ」
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