Laakso - 3 : Jouko

 戦地から『魔物の谷』へはおよそ二日かかる。

 すでにハイジが『はぐれ』をかばって九死に一生を得たことは早馬にて谷へは伝わっている。そしてハイジが目を覚ませばすぐにも帰還することも。


 だが、ヨーコには嫌な予感しかなかった。普通なら予感などといえば曖昧なもので、殆どの場合は気の所為と言っても差し支えない。しかし、ことヨーコとアゼムに関しては、それは当てはまらない。なぜなら、ヨーコはすでに力の集中の条件に『アゼムのために生きる』ことを選んでいるからだ。

 故に––––アゼムに何かが起きれば、それはヨーコに直感として伝わるのだ。


 だから、知らせがあった日は平静を装いながら、内心かなりイライラしながら二人の帰りを待っていた。

 さらに翌々日––––『何か』があった四日後に、アゼムとハイジは帰ってきた。

 アゼムはまったくのいつもどおりで、「帰ってきたぜ、我が愛しの古巣よ!」などと芝居がかったポーズで伸びをしている。

 対して、ハイジの顔は酷くやつれていた。

 他の弟子と比べて、アゼムと一緒にいる時間が長いヨーコは、ハイジに何が起きたかすぐに理解した。書簡にも、ハイジが利き腕を切り落とされたこと、左目を失ったことなどが書かれていた。治癒師により跡形もなく治療されたことも。だが、ヨーコは切り離された肉体に積み上げられた経験値がどうなるか、既に知識として理解していた。

 あれだけ必死に鍛えた経験値、それも利き手を失ったのだ。ハイジの焦燥はよく理解できる。無理もない。同じだけの力を取り戻すのに、一体どれほどの時間と労力が必要なのか、考えただけで気が遠くなる。


 ––––これでは、今後の『魔物の谷少年傭兵団』の運用スケジュールを検討し直さなければならないな。


 ヨーコはハイジへの心配を一旦脇において、思考をチームのまとめ役としてのそれに切り替えた。


 アゼムは驚くほど多くの知識があり、知恵が回り、勘が良く、戦闘はもちろんのこと、戦術戦略の類から兵卒の教育まで、膨大な情報が頭に詰め込まれている。

 それだけでも相当なものだが、戦闘にあまり関係のなさそうな知識も相当量記憶しており、それは哲学や魔法学などまで及ぶ。


 だというのに、アゼムは情報の整理や、スケジューリングなど、傭兵の運営に関わる様々な事務仕事を徹底的にサボる。

 今や、アゼムは一傭兵としての役割が大きく、すでに技術的に教わることも多くはなく、傭兵団を実質運営しているのはヨーコである。


 ヨーコはそのことに大きな喜びを感じている。

 事務仕事から逃げ回るアゼムに、口ではうるさく言うものの、実際は面倒な仕事は全て自分がこなすと決めている。ありえないことではあるが、もしもアゼムが心を入れ替えて「これからは全部自分でやる」などと言い出しても、ヨーコはそれを断って、自分の仕事を投げ出すようなことはしないだろう。


 そのかわり––––と、ヨーコは打算的に考える。

 子供の頃に両親に裏切られ、そのままアゼムに引き取られたヨーコには、いわゆるという概念がない。そうした献身や奉仕といった感性は幼少期に親から学ぶところが大きいが、その生い立ち故にヨーコにはギブアンドテイクでしか物事を判断できない。こちらが尽くしているのだから、自分にも見返りが欲しいと、当然のように考えている。


 だから、ヨーコは常々考えている。

 アゼムの替わりに傭兵団を守る代わりに、自分だけを特別に愛して欲しいと。

 それさえ与えられるのなら、アゼムが手塩にかけて育て上げた傭兵団を守るために、自分の全てを捧げようと。



 * * *



(なんだ、これは)


 焚き火を囲みながら、アゼムの言葉を、傭兵団のメンバーと、数人の保護された『はぐれ』が呆然と聞いている。


「そういうわけだから、ちょっと早いが、先に死なせてもらうわ」


 その言葉を聞いた者は一人残らず大きなショックを受けている。

 しかし、アゼムはどこ吹く風だ。


 中でも一番動揺が大きかったのは、間違いなくヨーコだ。

 アゼムの口調はまるでいつもどおりで、「腹が減ったから一足先に飯にする」とでも言うような気軽さだった。


戦死者の館ヴァルハラで待ってるからよ。なるべくゆっくり来いよ?」


 強がっている様子はない。動揺もなければ恐怖もない。この口調はアゼムの本心の現れに違いなかった。他ならぬヨーコにはそれがよく分かる。


 だからこそ、許せなかった。


 死ぬことが、ではない。そのくらいのことはいつだって覚悟している。自分も、師匠も、仲間たちも、ペトラとかいう女だって、いつ何時死ぬか解ったものではない。傭兵なのだ、そのくらいの覚悟はしておいて然るべきだ。


 だが、許せなかった。


「でもって、ほっといてもあと二日ほどで死んじまうんだけどよ、経験値がもったいねぇだろ? だから、俺を殺す役目を、ハイジに頼んである」


 アゼムから続けて吐かれた言葉は、これまでアゼムに尽くしてきた自分への裏切りのように思えた。


 ––––何故、俺じゃないのだ。

 ––––何故!


 ヨーコの心の奥底に、昏い何かが産まれた。

 アゼムに胸に、裏切られたという思いと、アゼムを信じなければという思いが去来する。

 嫉妬、怒り、悲しみ、寂しさ、後悔……あらゆる感情が渦巻いた。


 しかし、最後に残ったのはだった。

 どうしようもなく痛く、果てしなく大きく、耐え難いほどに重い愛。


(ああ……!)


 ヨーコは空を仰ぎ、泣きたくなる気持ちを追いやり、いつもどおりの顔を作った。


「……わかりました。そういうことなら仕方ないですね」


 普段どおりの口調で、アゼムの言葉に同意して見せた。

 挫けかける心を全身全霊で立て直し、精神力を振り絞って平静を装いながら。


「でも、ハイジはどうなんだ? お前、顔が真っ青だぞ」


 ヨーコがハイジをに声をかけると、ハイジは真っ青な顔のまま俯いた。

 本当は、ハイジのことを殺したいほど憎かった。

 何故こいつなのか。アゼムに認められ、選ばれたハイジが憎い。

 だが––––アゼムがハイジに殺されることを求めているのなら、それを邪魔するわけにはいかなかった。


 ハイジがポツリと呟いた。


「……納得はしていない。だが、選択肢がないなら、おれは師匠に従う」

「ハイジっ!」


 その言葉に、ペトラが激昂した。


「あんた、それ本気で言ってんのッ!? 自分の師を……その力がもったいないから殺す?! あんた……あんたは……ッ!」

「……師匠の最後の願いだ。聞き届けたい」


 ハイジの言葉を聞くや否や、ペトラは剣を抜いてハイジに斬りかかった。

 場は騒然としたが、ハイジはそれを剣で難なく受ける。

 ペトラの剣は重い。獲物は細剣レイピアだが、アゼム譲りの技術を用いて、大剣グレートソードと鍔迫り合いすら可能だ。

 ギリギリと押し合いながら、ペトラとハイジは怒鳴りあった。


「そんなにしてまで強さがほしいかッ!」

「そんなわけがあるかッ!」

「なら……一秒でも長く生きて欲しいと思うのが当たり前だろっ! 強さ?! 経験値……?! ああ、そりゃあ大事だろうさ! あたしだって強くなりたいッ! でも、恩師を殺してまで手に入れたいとは思わないね!」

「俺が殺したがってるみたいに言うな! 俺だって……俺だって師匠を殺したくなんかない!…………何なら、ペトラ、お前が殺せばいいっ! 喜んで代わろう! いつまで経っても弱いままのお前も剣も、師匠の力を奪えば俺に届くかもしれないぞ!」


 売り言葉に買い言葉だった。

 その言葉を聞いてペトラはフニャリと顔を歪ませて、剣にも力を入れられなくなった。みるみる涙が溢れ、こぼれ落ちる。ペタリと座り込むと「うぉぉー!」と女とは思えない声で泣き始めた。


 言い過ぎた。本気ではなかった。ペトラが自分を目標に死にものぐるいに努力していたことはよく知っている。ついカッとなって、余裕を無くして、思ってもいないことを口にしてしまった。

 ハイジはペトラに謝罪しようとその肩に手を置こうとしたが、ヒステリックに振り払われる。

 そしてポンと肩を叩く誰かの手……振り向くと、ヘルマンニが「やめとけ」と首を左右に振って、ハイジを止めていた。

 ヘルマンニの顔は落ち着いて見えた。目は悲しげだが、それでも冷静に見える。

 ヨーコも、ヘルマンニも、すでにアゼムの死を受け入れているというのか。自分はこんなにもまだ苦しんでいるというのに。こいつらはどこかおかしいのではないか。怒り狂って襲いかかってきたペトラのほうがまだマシだ。

 だから、ついハイジはまた要らないことを口にしてしまった。


「ヘルマンニ……、おれの替わりに、おまえが」


 最後まで言わせてくれなかった。頬に衝撃を食らった。ヘルマンニに殴られたと解った時には、すでに転がされていた。


「おー痛て。お前、顔までかってぇのな」


 殴った方のヘルマンニは、もういつものふざけた顔に戻っていた。

 小馬鹿にするようにハイジを見下ろしながら、殴った手を痛そうにプラプラしている。

 ハイジは起き上がる気力もなく、ただこの気の良い友人に、自らの無礼を侘びた。


「……すまん、失言だった……」

「いやまぁ、わかるけどよ。それは言っちゃだめだろ……」


 ヘルマンニはヘラヘラ笑いながら、黍酒ラムを煽った。


 めちゃくちゃだった。

 ハイジは殴られた恰好のまま男泣きしてるし、ペトラもギャーギャーとやかましい。ヘルマンニは挑発するみたいに二人を睥睨しながら酒に逃げているし、遠巻きに見ている『はぐれ』どもも震えて固まっている。

 ヨーコはその様子を黙って見ていた。


(死ぬなら、お前が死ねよ、ハイジ)

(お前なんかが生き残るから、師匠は––––)


 本当は、そう口にしたかった。

 しかし、それを不屈の精神で抑え込む。


 アゼムが大事に育て上げたこの傭兵団の心は、こんなに一瞬でバラバラになってしまうほど脆いものだったのか。

 アゼムは傭兵団の精神的な支柱だ。だが、自分はそのアゼムの何だ。

 尽くしてきた? 実質的に傭兵団を支えている? とんだ思い上がりだった。そんなものはただの幻想だった。自分には、傭兵団を守る力などない。ましてやその資格もあろうはずがない。戦う力にしても、ハイジや他のメンバーと比べれば一歩劣る。そんな俺が、こんなに汚れた俺が、アゼムの跡を継ぐなど烏滸がましい。



(だが!)


 だが、とヨーコは心を定める。


 最後の願いを託してはもらえなかったが、何の見返りももらえなかったが、自分がアゼムを愛したことは間違いではないはずだ。


 そうだ、愛してもらえなかったかもしれないが、じゃないか。

 それ以上を望むなどと……間違えているのは自分の方だ。


 本当は、死んでほしくなかった。

 ハイジなんかではなく、自分を選んでほしかった。

 自分だけを見てほしかった。


 だが、今は自分の気持などどうでも良い。

 アゼムの気持ちに応えるのだ!


 ヨーコは腹に力を入れて怒鳴った。


「お前ら! バカはやめろッ! お前たちが仲違いしてたら、師匠が悲しむだろうがっ!」


 その声は、その場の空気を吹き飛ばした。

 喧嘩の雰囲気は一層された。

 我に返った皆は、師の気持ちを考えずに感情を爆発させてしまったことを恥じた。

 バカなことをしてしまった。

 充満していた怒りが霧散していった。


 クツクツと笑い声が響いた。

 アゼムだった。


「ヨーコ……助かる。俺さ、弟子が喧嘩してるところ見るの、めちゃくちゃ嫌いなんだよ」

「知ってますよ、そのくらい」


 軽口のように聞こえるが、その声にはアゼムの強いが込められていた。

 ヨーコの返事も軽口への応酬のようで、アゼムへの強いが込められている。


 アゼムはそれを知ってか知らずか、いつもの調子で言った。

 それは、二人で旅をして、焚き火を囲んで酒が入ると必ず交わされた言葉だった。


「ヨーコ、俺が居なくなったら、傭兵団こいつらを頼む」


 だから、ヨーコもいつものように自然に答えたのだ。


「そのくらいのこと、自分でやってくださいよ……でもまぁ、今日のところは仕方ないですね」


「あとは任せるぜ」

「ええ。任せてください」


 ヨーコはそう言って笑い、––––そして、とうとう耐えきれずに涙をこぼした。

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