幕間 : Laakso
Laakso - 1 : Azem
その知らせが届いた時、『魔物の谷』には衝撃が走った。
力量はすでに師であるアゼムをも凌駕し、無敵とも思われた––––ハイジがやられた。
▽
ライヒ随一の優秀な治癒師によって治療されたため、命に別状はなし。切り落とされた利き腕も綺麗につながったという。とはいえ満身創痍––––利き腕だけでなくもう片方も健を断たれ、複数の矢傷と剣傷。左眼球損傷に出血多量。
アゼムが駆けつけたとき、その目に飛び込んできたのはまるでハリネズミのような有様のハイジの姿だった。もし助け出すのがほんの数分遅れていれば、確実に死んでいただろう。
敵の損害も尋常ではない。辺り一面は文字通りの死屍累々である。しかしまだ残党が残っている。弟子を今まさに殺害せんとしている。アゼムは迷わず敵兵の輪の中に踊りこんだ。今にも死を迎えそうなかつての英雄の首を横から掠め取ろうとでも言うのか、群がっているのは弱々しい兵ばかりだった。強敵は弟子が既に滅殺したらしい。
「––––ッ?!」
敵兵達の中にまだ年若い少年を見たアゼムは、一瞬逡巡した。しかし、弟子を救うため、すぐに躊躇することを辞め、残兵たちを一人残らず切り捨てた。
女と子供は殺さない––––それがアゼムが自らに課したルールである。
もはや取り返しは付かない。しかし、他に選択肢もなかった。
アゼムは迷わなかった。全ての結果を受け入れる覚悟があった。
残兵を殲滅したアゼムは、疾る気持ちでハイジへと駆け寄った。
地獄のような光景の中心で、ハイジは何かに覆いかぶさっていた。
すでにハイジの意識はない––––生きているのが異常なほどの
その光景にアゼムは呆然とした。しかし状況は一刻を争う。怒り、悲しみ、後悔……湧き上がるさまざまな感情、あらゆる動揺を切り離して、行動を開始した。
死んだように動かないハイジの巨体をアゼムは無理やり起こそうとするが、ハイジはそれに抵抗するように体を丸め続ける。
下にいる小さな遺体を、無意識に守り続けているのだ。
––––『はぐれ』の子供。
子供は既に事切れている。眠っているかのように薄く目を閉じて、力なくぽかんと口を開けている。魔力を通してみればその死は明らかだった。その顔はあどけなく、苦悶の表情はみられない。おそらく即死だ。苦しまずに死んだなら、それだけがせめてもの救いだった。
痛ましい。耐え難いほどに痛ましいが––––アゼムは湧き上がる感情を全て無視して、ハイジの背に突き立った矢を一刀のもとに切り落とす。もし抜いてしまえば、失血死は免れない。おそらく毒矢ではないだろう。そうでないと信じたい。もし毒矢なら、どんなに魔力で強化しようと抵抗できない。だとすればすでに手遅れだ。故にアゼムは鏃は残しておいたほうが良いと判断した。
アゼムは意識のないまま子供を守ろうとする弟子をその遺体から引き剥がし、肩に担いだ。アゼムの倍以上もある体格のハイジだが、魔力強化したアゼムなら担ぐのに問題はない。
ハイジは無理やり子供と引き離されたことで、軽く暴れたが、アゼムはそれを無視して兵站病院まで大急ぎで運び込んだ。
運の良いことに、兵站病院にはライヒの姫君からの厳命で、近隣で最も優秀と言われる治癒師が多数控えていた。
『何があっても、絶対に英雄を死なせるな』
そんな曖昧な、しかし切実な命令を受けた治癒師は、担ぎ込まれたハイジを見て顔面蒼白になった。これは本当にまだ生きているのか? と。
だが、息はあった。徹底的に損壊された遺体のように見えるが、たしかに小さく呼吸している。生きている。ならば、絶対に死なせるわけにはいかない。切り落とされた腕も、アゼムが口に咥えて持って帰ってきてくれた。何が何でも生かさなければならない。
うつ伏せに寝かされたハイジの背には、二桁以上の鏃が埋まっている。だが、深く刺さっているわけではない。頑強な筋肉が、鏃の侵入を拒んだと見える。一本一本鏃を抜き取っては治癒し、切り傷を塞ぐ。
腕は二人がかりで接合させ、枯渇した魔力を注ぐために、全ての治癒師に治療に当たらせた。
英雄の少年は、こうして命を救われた。
▽
一命をとりとめた
切り落とされた腕に積み上げられていた経験値、それにともなう身体能力。
ジクジクと痛む接合面から手首にかけて、なだらかに痩せてしまっている。鍛え込んだ筋肉は残っているものの、魔力を用いた身体強化による肥大化はリセットされ、まるで自分の腕ではないかのようだ。
だが、この戦いでハイジが失ったのは、自らの肉体の性能だけではなかった。
むしろ、そんなことは些細な問題だ。どれだけ力を失ったとて、また鍛えればいいだけの話だ。生きていれば、いくらでもやり直せる。肉体など、所詮魂の乗り物に過ぎない。何とでもなる。
この時ハイジが失ったものは、ハイジの人生そのものを変質させた。
失ったものとは、仲間との友情と信頼関係、未来の選択肢、そして––––最大の恩師である、アゼムである。
▽
ハイジが目を覚ました時、隣にはアゼムがいた。
いつもどおり飄々とした風体で、シャリシャリと果物をかじりながら、のんきに本の頁をめくっている。
「……師匠」
「おっ、起きたか、バカハイジ。具合はどうだ?」
「……おれ、どうなったんです?」
「覚えてねぇのか? ま、意識なかったしな」
その言葉に、ハイジは「うっ」と呻いて、頭を押さえた。
血が足りていないからか、記憶は曖昧で、意識も朦朧としているが、すぐに心の奥深くから、認めがたい悪夢のような光景が認識の表層まで泡のように浮かび上がってくる。
(そうだ)
死んだ。
死なせてしまった。
守ることができなかった。
「……ああっ……!」
ハイジは小さく悲鳴を上げた。
目の前で死んだ。まだあどけない幼い子どもだった。矢で射られるところを見ていることしかできなかった。自分はどこまでも無力だった。
これまで、何十人もの敵を屠ってきたが、その都度見てきたその死に様を以てすら、アンジェの死の瞬間の記憶を塗りつぶすことはできなかった。
しかしこれからは、この光景を一生背負って生きていくことになるのだろう。
もう沢山だ、とハイジは思った。
愛しい者、弱い者、助けが必要な者が死んでいく様を見ることに、もう耐えられなかった。
(いっそこのまま死ねればよかったのに)
ハイジは強い。それこそこの世界でも最上位に位置するほどに––––しかし反面、その心はまるで子供のように脆く弱い。頑迷で、融通がきかず、怒りや悲しみに対する耐性がなく、繊細で傷つきやすい。
ただ、死神に嫌われているだけ。
どんなに屈強であっても、ハイジは戦士には向いていない。
この男は、何かを守って生きていくには––––優しすぎるのだ。
「ハイジ、訊きたいことがある」
苦悩し、涙を流すハイジの様子を無視して、アゼムが声をかけた。
「ハイジ、お前––––もしかして
「……は?」
「辛かったろう? 耐え難かったろう? だからお前、––––
ハイジには、アゼムの質問の意図が読めなかったが、戦場で、そしてあの状況で何かに縋らない者など居ない。
この世界にも信仰はあるし、精霊への敬意があろうがなかろうが、極限状態になれば、人は何かに縋る。
人の死が最も身近な戦場でこそ、祈りは最も多く捧げられる。
「はい、祈りました。その––––自分の力が及ばない運命みたいなものを感じて、救いを求めました」
「……何に祈った?」
「それは……わかりません。ただ、あの子を助けて欲しい、守る力がほしいと何かに祈りました」
「その時、お前は何かを差し出したか? 例えば––––何かと引き換えに助けて欲しいと」
「よく覚えてません」
「思い出せ。重要なことだ」
ハイジにとっては、ほんの少し前の出来事だが、その記憶は、思い出すのに苦痛が伴う。しかしアゼムはどこか焦るように、ハイジに思い出すことを求めた。
アゼムを敬愛するハイジは、きっと何か意味があるのだろうと、自らの苦痛と躊躇を押し込めて、必死に記憶を辿る。
そうだ、確かに祈った。そして差し出した。
どうか助けて欲しいと。
そのためなら喜んでこの生命を捧げる、と。
「差し出しました。その、……命を。だから、守る力が欲しいと。結局––––守ることはできませんでしたけど……その、子供には矢が当たっていて、すでに死んだ後でしたから」
「そうか。……そう、か……」
アゼムは強く目を閉じて天井を仰いだ。
最悪だ。
手遅れだ。
だが––––これも運命なのだろう––––きっと、こうなることは始めから定められていたのだ。
アゼムは、一つ深呼吸をして言った。
「よし、わかった。ハイジ。よく聞け」
そして意図的にいつもの飄々とした態度に戻り、笑ってみせた。
「……お前、俺を殺せ。そして、俺の跡を継げ」
その言葉を聞いて、ハイジは驚愕のあまり、気が遠くなった。
「……師匠、何を言い出すんです?!」
「言いたいことはあるだろう。だが、もう時間がない。ハイジ、すぐに谷へ帰るぞ」
そう言って、アゼムはまだふらつくハイジに期間命令を下した。
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