忘れもの

湊賀藁友

忘れもの


「いってきまーす!」

「待って」


 玄間から出かかった所で突然そう呼び止められて、ほとんど前に移動させていた体重をどうにか引き戻す。


 「わっ、とと」と少し間抜けな声を出しながら振り返った私に『ずい』なんて効果音でも付きそうな風に差しだされたのは、私の大切なお昼ご飯──お弁当だ。


「これ、忘れもの」

「あぶなっ、忘れる所だった〜!」


 危うく今日の昼食がなくなる所だったという事実に一瞬目を見開いたが、生憎その恐怖にのんびりと身を震わせている時間はない。


 「ありがとう!」とお礼を言いながらお弁当を受け取った私は、玄間を出てしっかりを鍵を閉め今日も会社へと急ぐのだった。



 ■



「ってことが最近毎日でさあ〜」


 今日はお弁当、昨日は鍵。一昨日はかばんだったしその前は眼鏡。

 毎日毎日色々なものを忘れかける自分の頭が流石に心配になって同僚に相談をしてみたのだが、するとその間僚は口に含みかけた食事を直前で止めて、心からこちらと心配するような目でこちらを見てきた。


「えぇ……鞄の中身ってそんなに取り出すことある……? というか鞄まで忘れるって……。

 学生時代もそんなことなかったでしょ?」

「ないない!」


 確かに他人と比較すれば忘れる回数が多い方ではあったかもしれないが、流石にここまでではない! 

 焦って首を振る私に、同僚は「だよねぇ~」と頬杖をついた。


「前日にどれだけ確認しても忘れかけるし……はぁ、病気とかなのかな……」

「あ〜、確かに…………あんまり続くようなら、病院行くのもアリかもね」


 自分の情けなさに項垂れる私を見かねて話を変えようとしたのだろう。同僚がまた口を開く。


「そ、そういえば、最近彼氏でも出来たの?」

「……え!?」


 予想もしていなかった話題に一瞬頭が動かなかったが、その言葉を理解したと同時に私は慌てて首を横に振った。


「いやいやいや! 出来てない出来てない!!」


 が、同僚は何故かへらへらと笑って信じてくれない。


「またまたぁ! 料理出来ないからってテイクアウトかコンビニ飯ばっかりだったあんたがそんな美味しそうな弁当持ってきてるとか……社内の皆察してるよ? 愛されてるね〜!」

「ちょっ、やめてよ! これは別にそんなんじゃなくて──」


 ──……あれ? 

 そんなんじゃ、なくて……? 


「鍵原さんすみません。今朝話していた案件についてなんですけど、今先方からお電話をいただいてしまいまして……」

「え!? 分かりました、すぐ向かいます! 

 ごめん、また明日の休憩時間にでも彼氏についての話聞かせてね!」

「だから彼氏なんて──!」


 言い切る前に足早に去ってしまった同僚の背を見ているようで、その景色は全く頭に入っていない。

 脳内のどこかがズレているかのような強烈な違和感の正体も分からないまま、しかしもう休み時間も長くないので慌てて弁当をかきこむ。


 ……なんだろう。

 何が、こんなに……



 ■



 駅から家まで歩きながら、小さな欠伸を一つ。

 今日も忙しかったなぁなんて考えながら、ぼんやりと空を見た。


 早く帰って夜ご飯食べて寝たいなぁ……。


 疲れと眠気で霞がかったような頭でそんなことを考えながら歩いている内に到着した自宅の扉を前に、私は少し急ぎながら、しかしのんびりと鍵を探す。


 ……? 


 ぎぎ、と音をたてて頭の中の歯車が軋んだような、そんな感覚。

 昼間に感じた強烈な違和感が再び私を襲うが、やはりどうにもその違和感の正体が分からない。


 なんだっけ。

 何が。

 なに、が。


 と、その時。

 鞄の中身を探っていた手に、金属特有のひんやりとした硬い物が触れた。……鍵だ。


「良かった〜、あったあった」


 少し安心しながら鍵を握って私の目に見える場所まで持ってきて、鍵を見て、家の扉の鍵を開けようとした、直前。


 ──あれ? 

 なんで私、チャイムを鳴らさなかったんだろう。


 私は気が付いた。

 思い出してしまった。

 忘れていたものを、記憶を、違和感を。


 チャイムを鳴らさなかった? 当然だ。



 だって私は、一人暮らし・・・・・なのだから。



 全身から血の気が引く感覚がした。

 疲れも眠気も消え去って、霞が消えて明瞭になった頭はただてのひらから伝わる金属の冷たさと恐怖だけを強く感じ取る。


 胃なんだか鳩尾なんだかが急に冷たくなって、それが全身に広がっているかのように首筋に走るゾクゾクとした感覚は、しかし冷えが原因ではないのだろう。

 肺が酸素を拒もうとするから必死に呼吸をしているのに、浅く早くなる呼吸音が自分の耳に響いて、恐怖だけがただただ増していく。


 小刻みに震える体を上手くコントロールすることすら出来なくなって、手から落ちた鍵がコツコツン、と小さく音をたてた。



 ──私に毎朝忘れ物を手渡していたのは。私のお弁当を作ったのは。私の家にずっと住んでいたのは。


「あれは、一体──」

「──忘れ、もの」

「ヒッ!?」


 不意に背後から聞こえた声に反射的に振り返ると、そこにいたのは────。


 ……そこに、いた、のは……? 



 …………あれ? 何だったっけ。



 ■



 お昼休み。いつも通りお弁当を食べていると、やはりいつも通り同僚が声をかけてきた。


「お疲れ〜!」

「あ、お疲れさま〜」


 テーブルの向かいに座った同僚は手早く昼食を準備しながら、こちらを心配するような目で見てきた。


「そういえば昨日の話だけど、今日は大丈夫だった?」

「昨日の話?」

「忘れものが多くてって話してたじゃん!」


 ……??? 


「……ごめん、何の話……? 

 昨日ってそんな話、してたっけ……」

「え〜!? 絶対、し、て…………あれ……? 

 ………………ごめん、勘違いだったかも」

「あ、分かった! 夢を記憶と混同したとかでしょ!」

「そうかも〜……ごめんごめん!」


 あるあるだよね〜! なんて笑って、私はまた一口美味しいお弁当を頬張るのだった。

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