16
新ママが廊下の方を鋭く振り返る。一瞬、肩を掴む手の力が緩んだ。わたしは渾身の力で新ママを突き飛ばして立ち上がる。逃げなきゃ。どこに? 廊下に? 廊下に出るには新ママの側を通らなくちゃいけない。それは無理だ。だったら、庭に────
障子を開ける。窓がある。鍵がかかってる。開けなきゃ。うちが平家で良かった。でも手が震えて鍵をうまく掴めない。新ママがわたしの腕を掴む。スナオちゃん。わたしを呼んでいる。耳から這入り込んで脳みそをぐちゃぐちゃにするような新ママの声。助けて。誰か助けて。ちょっと前までにはこの家にはたくさん人がいたのに。パパの舎弟も、部下も、東京から来たおじさんもいて、賑やかで、ここは確かにヤクザの家だけど、それでも賑やかで楽しくて、
「お待たせスナオさん !」
大声と共に窓ガラスが割れた。新ママがびっくりした顔でわたしから離れる。割れたガラスの向こうには、釘抜き用のバールを振りかざした探偵助手さんが立っていた。
探偵助手さんは自分で割ったガラスに手を突っ込んで鍵を開け、それからわたしを引き寄せてひょいと抱き上げた。片手にバールを持っているからお姫様抱っこではなく小脇に抱えられた。マリアママの娘のわたしはそんなに小柄じゃないのに、こんな風に軽々持ち上げられるなんて思ってもみなかった。
「スナオちゃん!」
新ママが叫んでいる。バールを持った方の手を新ママに向けて、探偵助手さんは「動くな」と言った。
「
「……あんた、誰」
新ママが低く唸る。今までとは別人のように怖い声だった。わたしを抱えたまま、探偵助手さんはにやりと笑った。
「狐憑きの市岡って言えばあんたたちにも馴染みはあるかな。四宮さんさ、あんたら身寄りのない女を集めて育てて神を降ろしたり死人の声を聞いたりするのが売りだっていうのに、このやり方はあんまりみっともないぜ」
新ママ──四宮茜が鋭く息を呑んだ。狐憑きの市岡? なんの話だろう。わたしには分からないけれど、四宮茜にはすぐに理解できたようだった。
「狐の奴隷が、邪魔しないでくれるかな」
「邪魔はしないよ、それぞれの線引きの中で生きてるだけなら。でも今回は違う。あんたは他人の復讐心につけ込んで、才能のある若い子を強引に奪おうとした」
「ヒサシ、パス!」
遅れて現れたのは探偵間宮さんだった。探偵助手さん──ヒサシさんは間宮さんにわたしを預け(間宮さんは何の躊躇いもなくわたしをお姫様抱っこした)、左手に持ったバールをぶんと回した。
「諸悪の根源は東京で病院送り、これも四宮さんの仕業だろ。もういいでしょ。やめなよ」
「やめない。ここでやめたら意味がない」
四宮茜の口調は厳しかった。バールを構えるヒサシさんに向かって、何やらぶつぶつと呪文のようなものを唱えている。
「全部折ってやる」
ヒサシさんの左手の小指がそり返り、バキリと嫌な音が聞こえる。ヒサシさん、と思わず叫ぶ。大丈夫よ、と応じたのは四宮茜だった。すぐ終わるから、スナオちゃん、待っててね。
ヒサシさんは──笑っている。
「すげー。神じゃん。やるなあ四宮」
薬指も折れる。間宮くん逃げて、とヒサシさんが叫び、間宮さんはわたしを抱いて走り出す。四宮茜は間宮さんにも攻撃をしているようだけど、ヒサシさんが全部途中で止めている。そんな気配がした。
「首も折るよ」
四宮茜の声がした。
「おまえじゃなくて、探偵の首を折る。引っ込め、狐」
「んっふ……俺はねえ、神様よりも怖いお兄ちゃんにこの案件を任されてる身なんだよね。だから四宮、たとえ俺が死んでも間宮くんとスナオちゃんはここから逃す」
ヒサシさんはもうバールを持てなかった。両腕がだらりと垂れ下がり、苦痛に顔を歪めながらも笑っていた。見ちゃダメ、と間宮さんが言う。逃げるよ、逃げてから先のことを考えるんだ。
「死ね、狐憑き」
四宮茜の声は文字通りの死刑宣告だった。わたしにできることは何もない。わたしはヒサシさんを助けることができない。
一瞬の空白があった。
えっ、と間宮さんが声を上げる。彼女の腕の中で身を縮めていたわたしも思わず顔を上げた。本当ならヒサシさんの断末魔とかが聞こえてくるはずだ。それなのに。
四宮茜を背後から抑え込んでいる人影があった。あれは────
「間に合っ、た……っ!」
間宮さんごとわたしを抱き締めたのは小野さんだった。ヒサシさんが地面に倒れる音が聞こえる。けれど四宮茜はこれ以上彼を攻撃できない。なぜなら四宮茜は、自分で作った桧原ハジメに羽交い締めにされて身動きが取れなくなっていたから。
「サンキュー小野さん! ハジメさん!」
ヒサシさんは最後の力を振り絞った様子で叫び、気絶した。
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