月の鏡

政宗あきら

月の鏡

 ◇


 昨晩あれだけ眺めた月は影も形もなくなって、空は青く染めあげられている。

 色とりどりの紙吹雪が風に乗り、雲の代わりにと浮き上がる。

 遠くの城壁で轟く祝砲。

 街中の至るところで鳴り響く管弦楽。

 それらに張り合うようにして挙げられる道を埋め尽くす人々の声、声、声。


 みんな笑顔で、でも泣いている人もいて、手を振りながら叫ぶようにして……そんな人たちの表情を見ていると、この旅が本当に終わったんだといまさらに実感がわき上がってきた。


 私たちの乗る豪奢な馬車が大通りをゆっくりと進む。その先々で呼ばれるのは、私の名前。勇者様、なんて呼ばれるのは一年経っても慣れないけれど。


「アヤノ様、もう王宮が見えておりますわ」


 隣に座るシェリルが、少し大きめの僧帽を手で支えて言う。この三つ年下の少女が扱う治癒魔法に、私たちは何度も助けられてきた。


「そうね。このペースだと、まだ時間は掛かりそうだけれど」


 道を覆う市民の熱狂を肌で感じると、これまでの出来事が走馬灯みたいに思い出される。


「でも、こんなに沢山の皆さまが出迎えてくれるなんて……私、勇者様についていって本当に良かったです」

「ううん、勇者様ってやっぱり慣れないかも」

「あっ失礼しました、アヤノ様!」

「ありがとう。でも私もそう思う。シェリルがいてくれないと、命がいくつあっても足りなかったもの」


 それは、共に戦った仲間たちの総意だろう。


 重装兵団が躊躇なく最前衛に立てたのも、魔導師団が攻撃に全精力を注ぐことができたのも、すべて彼女の並外れた能力、そして勇気のおかげだ。この子がいなければきっと、私たちは魔王を倒すことなんてできなかった。

 私たちにとって、そしてこれからの世界を導く指導者として、彼女はまさに女神のような存在だ。


「シェリルも、国王陛下とお会いするのは一年ぶりね」

「はい、お父様……陛下とは手紙を何度かやり取りしましたが、お顔を見るのは本当に久しぶり」


 やがて歓喜の声が遠ざかり、城門を通り過ぎたのだと気付く。規則正しく整列する城兵たちは皆、大剣を胸元に掲げてまっすぐに背を伸ばしている。


「また眺めていらっしゃるのですね」

「うん?」

「その、スマホ? というのでしょうか、表面はいつも真っ黒ですが、アヤノ様には何か見えるのですか?」


 言われてみれば、確かに私はスマートフォンを手に取っていた。


「ううん、何にも見えないよ。本当は人と連絡を取るアイテムなんだけど」


 充電もとっくに切れているし、そもそも電波さえ拾わない彼の地の電子機器。この世界で使いみちはないけれど、時々、手に取って眺めてしまうことがある。元居た場所ではスマホ中毒だったし……クセっていうのは怖いというか。


「やはり、元の世界とは繋がらないのですね」

「そうみたい。連絡を取ると言っても、私は一人くらいだけどね」

「カスミ様、と仰っていましたね。どのような方なのでしょう?」


 好奇心に輝く青い瞳を、銀色の前髪がふわりと揺れて少しだけ隠す。


「すっごく絵が上手だったの。この国の宮廷絵師だって敵わないかも」

「それは凄い……」

「香澄の絵が本当に好きだった。いまでも夢に見るくらいだもん」


 石畳の上をカタカタと揺れながら、白馬に引かれて車輪が回る。窓をつく陽光は夏真っ盛り。そびえ立つ白亜の城壁が、入道雲みたいに照らされている。


 ◆


『香澄、危ない!!』


 綾乃の叫び声はいまも耳の奥に残っている。彼女が交通事故に巻き込まれたのは、ちょうど一年前の夏の、この時間帯だった。


 アスファルトを黒く焦がして照りつける陽射し。蝉の声がコンクリートの建物に反響して、音と音の境目が曖昧になる、学校へ向かう途中にある少し大きめの交差点。


 あたしは綾乃に背中を押されて、直後にとてつもない衝撃が聞こえて、振り返るとそこに彼女はいなかった。


 そう、いなかった。


 身体も、血液も、衣替えしたばかりのセーラー服も、手に持っていたはずの鞄でさえも、綾乃の痕跡は一つもなかった。あるのは電柱へ激突した乗用車だけ。そこに人がいた影もありはしなかった。

 やがて警察が、そして救急車が来たけれど、担架に乗せられたのは車の運転手だけ。それ以外に怪我人はいなかったのだと。

 更におかしな話は続く。

 学校に行っても綾乃はいないし、連絡だって全くつかない。彼女の自宅へ行ってもみたけれど、朝に出たっきりなのだという。それから捜索願が出され、あたしも色々と心当たりを探したけれど、彼女が帰って来ることはなかった。


「綾乃……本当に、どこ行ったのよ」


 すっかり元の姿を取り戻した交差点には、お花の一つも添えられていない。ここでは誰も死んでいないのだから、当たり前ではあるのだけれど。

 ここで何時間と立ってみても、あの声や姿の何一つ見当たらない。

 容赦ない陽射しを浴びせる太陽に、毒づきたい気持ちが湧いてくる。信号が青になったのをきっかけにして、あたしは重たい足を学校へと向けた。


 ◇


 私が香澄に声を掛けられたのは、高校の入学式が終わってすぐだった。


「ねぇ、名城……綾乃さん?」


 言うやいなや、彼女は財布を私の前に掲げた。ゆらゆらと揺れるキーホルダーは、私が鞄につけているのと同じものだった。


「あっ、星崎くんの!」


 春にアニメ化された『アンドロイドに花束を』というライトノベル、そのキャラクターが二頭身にデフォルメされたアイテムだ。


「そうなの、まさか同士がいるなんて思わなかった。あたしは山手香澄。同じクラスみたいだし、仲良くしようね」


 それから一気に打ち解けて、まるで昔からの友達みたいに話が咲いた。たがいに好きな小説やマンガを勧めあって、積ん読が増えるなんて笑いあった。


「ね、綾乃は入る部活とか決めてるの?」

「まだ迷ってるけど……文芸部にしようかなって」

「文芸部? 小説とか書くの?」

「人に見せられるものじゃないけど……書けるようになれたらなって。香澄は?」

「あたしは美術部。絵を描くのが好きなんだ」


 言って、彼女はスケッチブックを机に広げた。そこに描かれた繊細なタッチのキャラクターたちは、一目みて才能を感じさせるものだった。


「凄い……星崎くんとか、アニメそのものみたい」

「まだまだ、だけどね。ちゃんと基礎も勉強したいなと思って、だから美術部」

「もっと上手くなるの? 本当に凄い」

「綾乃も小説書けたら見せてね。あたしのだけ見せるのって、恥ずかしいし」


 そう笑う香澄の表情は本当に眩しくて。

 彼女みたいに胸を張って作品を見てもらえるのなら、それはとても素敵なことだろうと思った。


 ◆


「山手さん、少し良い?」


 そう声を掛けられてハッとする。あたしはどれくらい筆を持って固まっていたのだろう。


「なんですか、部長」

「あまり集中できていないみたいだったから。コンテストまで時間もないし、大丈夫かしらって」


 心配する声色だけれど、その後に続く言葉は予想ができた。


「それに、題材を変えた方が良いんじゃないかしら。あなたは人物画よりも、風景の方が向いていると思うの」


 ほらね、こんな感じ。山手の描く絵はどれも美術というよりマンガみたいだ、なんて陰で言ってるの知ってるんだから。


 綾乃がいなくなってから、あたしは一心不乱に絵を描き続けた。おかげで実力も上がったし、いくつかの賞も取ることができた。

 けれどそれも夏が近づくまでだった。蝉の声が聞こえてくるともうダメで、あの最後の光景が頭に浮かんでくる。交差点の映像が目の前をぐるぐると回って、キャンパスに集中なんてできなくなった。


「いいんです、あたしはキャラクターが描きたいんで。人物をもっと上手く描けるようになりたいんです」

「でも、そう言って全然筆が進んでないじゃない。もし今日の進捗が良くなかったら、考えてみてくれないかしら」


 その口調はもはや部長としての命令を孕んでいて、この局面をどう乗り切るかで頭が一杯になってきた。


「あっ、そうだ」

「山手さん?」

「もし良かったら、気分転換に付き合ってくれませんか?」

「珍しいわね、あなたがそう言うなんて。でも、あなたの進捗で気分転換は……」

「大丈夫ですって! ほら、近くで展示会があるんです。多分、部長の趣味とは合わないですけど、たまには未体験ジャンルも良いと思いますよ!」


 そう言い切ってテキパキと片づけ始め、返事も待たずに鞄を提げて「さぁ行きましょう!」と強引に部長の腕を引いた。


「ちょ、ちょっと」

「今日は学生が無料なんです。混んでるかも知れないし、急ぎましょう」


 よしよし、これで難局は乗り切れた。あとは展示会で気分転換をして、明日のことはまた考えればいい。実際、気分を切り替えないとダメな気がした。あれだけスラスラと進んでいた筆が今は本当に動かないんだ。


 綾乃の小説には、想像力を刺激する強さがあった。


 文芸部に入ったあの子が頭角を現すのに大して時間はかからなかった。描く物語は文字とは思えないほど生き生きとして、読む人に景色や表情を鮮やかに浮かび上がらせた。


 あの子の小説を読んだとき、はじめて自分のやりたいことがわかった気がしたんだ。描きたいのは自分の世界じゃない。あたしは、誰かが作り上げた世界を絵にして表現したいんだって。


 いや、それも少し違う。本当はそうじゃない。

 彼女の小説を絵にしてみたいと、心からそう思ったんだ。


「あたし、描いていい?」

「香澄?」

「あなたの小説を絵にするの。あなたが書いて、あたしが描く。それって、とても素敵だと思わない?」


 ◇


 王城から眺める街の夜景は、どこも光に満たされている。このお祭り騒ぎはどこまで続くのだろう。いつになっても喧噪は止まず、やっと勝ち得た平和な一夜をみんなが力一杯に抱きしめている。


 この光景を忘れたくなくて、私は紙を手にとった。香澄みたいな絵心は逆立ちしても出てこないから、文章で。とても書ききれる気がしないけれど、せめて断片だけでも留めておきたくて、燭台の明かりを頼りにペンを走らせる。


「アヤノ様、ここにいらしたのですね」


 振り返ると、白いドレスに身を包んだシェリルがいた。戦いのための僧侶服ではなく、この国の王女としての、凛として鈴の鳴るような姿で。


「何をなさっているのですか?」

「街を見ていたの。最後に、目に焼き付けておこうと思って」

「最後、ですか……」


 パレードを終えた後、私は王との謁見で望みを伝えた。

 今夜、元の世界へ戻ることを。

 魔族との戦いを終えたいま、私がここに残る意味はない。これからの平和は、この世界で生まれ育った人たちの手で守るべきだと、そう考えを述べたんだ。


 もちろん嘘ではないし、間違いはないと思う。


 けれど一番はやっぱり、元の世界へ……香澄のいるあの街へと戻りたい。ここで体験した出来事を沢山の文章にして見てもらいたい。そして彼女のイラストで、この景色を作り上げて欲しい。


「寂しくは、ないのですか?」


 そう、彼女は私の目をしっかりと見据えて言葉を告げた。


「もちろん寂しくない、と言えば嘘になるけれど……」

「では、もう少しここに留まってはくださいませんか。父の、王の助力があるとは言え、この国を治めるにはとても」

「シェリルならきっと大丈夫だよ。私なんかがいても、戦う以外に何もできないし」

「でも!!」


 不意に、彼女の叫びに合わせるようにして風が吹いた。

 私の手元から飛ばされる一枚の紙片。行方を目で追うより早く、シェリルが簡単な魔法を使って捉えてしまった。あっ、マズい。さすがにアレを読まれるのは恥ずかしい。


「アヤノ様、これは……?」


 えっと、その、なんて説明しよう。これまでも自分の趣味はひた隠しにしてきたし、さて、どう、言い訳したものか。


 ◆


「これって、その」

「あたしが好きな絵師さん、イラストレーターの展示会なんです。部長、こういうのはあまり興味ないですよね」

「えぇ、そうなんだけど……」


 部活を強制的に切り上げたあたしと部長が着いたのは、商業ビルの5階にある展示スペース。原画展と銘打たれた看板を通り過ぎた先では、白いボードにいくつものイラストが掲げられている。


「なんていうか、その、イメージと違うわね……」

「イメージですか?」

「もっと雑な印象だったというか……いえ、気を悪くしないで欲しいのだけれど。色の使い分け、線のきめ細かさも、それに構図も計算されていて……」


 部長の言うことは、少し分かる。

 あたしはこのイラストレーターさんの作品が元々好きだった。けれどこうして実際の原画を目にすると、その繊細なタッチ、そして大胆な色使いに強く心を奪われてしまう。

 

 印刷やWebの画面越しでは伝わらない迫力が、不思議とある。これを描いた人はどれだけの心を砕き、技術を注ぎ、この作品を作り上げたのだろうと考えずにはいられなくなる。


「そう言ってもらえるなら、部長をお連れした甲斐がありました」

「そうね……」


 あたしの言葉を聞いてか聞かずか、彼女は食い入るように作品を見つめていた。芸術には人一倍うるさい人だし、きっと感じるものがあるのだろう。少しホッとした気分になったのを、口にはしないけれど。


「山手さんは、こういう絵を目指しているの?」

「油絵だと、ここまで繊細なタッチは難しいですけどね。でもいつかは、デジタルでもアナログでもこういう風に描いてみたいなって」


 そう、そうなんだ。


 口から出た言葉で、自分の気持ちを思い出す。絵を描くのが楽しくて仕方がなかった頃は、そんなシンプルな想いでキャンパスに向き合っていた。


 夏が近づき、筆が止まり……実は部長の言うように、こっそり風景画を練習したこともあった。けれど出来栄えは惨憺たるもの。足掻くほどに泥沼は深く、スケッチさえもままならず、次第に絵を描く情熱さえも失いつつあった。


 この原画展に来たのは、そんな自分を何とかしたいと思ったから。このままじゃダメなのは、自分が一番よく分かっている。


 今のままじゃ、いつか綾乃が戻ってきたときに合わせる顔がない。

 でも、あたしはどうしたら良いのか分からない。


 ◇


「えっと……どう言えばいいのかな」


 シェリルが私の書いた文字をじっくりと読んでいる。うん、恥ずかしい。すぐに返して欲しい。


「日記ではないのですね。物語、の一部でしょうか?」

「まぁそんな感じ。実は、その、物語を書くのが好きだったんだ」


 色々と諦めて白状する私。この一年間、これまで日記帳だと言い張っていたあの冊子は、実は書き貯めた小説なんだって。


「素敵です、アヤノ様にそんな特技があったなんて! でもどうして秘密に?」

「それは、まぁ、その」


 世界の脅威と戦う勇者が、趣味で小説を書いているんです……なんて告白できなかったのは仕方がないと思う。そんな言いわけじみた言葉は飲み込むけれど。


「でも、もういっか。それはシェリルにあげるね」

「良いのですか!?」

「うん、もうきっと会えないから。そんなのでゴメンね」

「そんな……」


 今度こそ涙を浮かべる彼女を、私はそっと抱きしめた。


「本当に、ゴメン。でも帰らなくちゃならないの。きっと、あそこで待ってくれている人がいるから」

「そう……です、よね」

「月がもう少し昇れば、王宮魔導士たちの用意した術式が発動する。シェリル、本当にありがとう。あなたなら本当に大丈夫。私だって、寂しいよ」


 そう、本当に寂しい。これまで一緒に戦ってきた仲間たちと離れるのは。

 なによりシェリルを残して一人で消えてしまうのは。


 元の街への不安だってある。香澄は待ってくれているのだろうか。今も絵を描いているのだろうか。私が書いた小説を、彼女はまだ愛してくれるだろうか。


「シェリルのことは忘れない。どうか、元気でいてね」


 彼女の言葉は返ってこなかった。小さな肩を震わせ、言葉にならない嗚咽を漏らし、宝石のような雫が頬を濡らす。

 やがて城内に刻を告げる鐘が鳴り、私を探す声が聞こえてくる――術式の準備ができたのだろう。シェリルの目元を拭い、私は城内へと足を向けた。


 月は中天に昇ろうとして、辺りの星を消すように輝いている。


 ◆


 夜道を歩く最中、部長は「あなたの好きにするといいわ」と言って、そのまま駅へと足を向けた。その言葉が、つまり風景画じゃなくて人物画を描いていいという意味だと気がついたのは、自室のベッドに寝転んだときだった。


 相変わらず言葉が足りない人だな、なんて思いながらも、少しだけ胸が熱くなる。


「好きにするといい、か」


 そう……あとはやるだけ、やるしかない。


 言い訳はこの一年で嫌というほど口にした。彼女のせいにしたところで前へと進めないのはもう分かっている。例えいつになるか分からなくたって、あたしは彼女との約束を果たしたい。


 本当に描きたいものを、あたしはまだ描けていない。


 ◇


 青みがかった石造りの床に描かれる、血の色をした十六角形の魔法陣。

 周囲に並ぶのは闇よりも濃い衣装を纏う三十二人の魔導士たち。

 床の中心から天井を見上げると、月の大きさに合わせた丸い窓を通して、私だけに光が降り注いでいる。


「それでは勇者様、ご準備を」

「えぇ、お願い」


 少し緊張するけれど、大丈夫。ここにいる人たちはよく知っている。彼らの実力ならば、人間一人を別世界に飛ばすなんて実際にできてしまうのだろう。


 呪文を乗せた声が地を這うように合わさり、術式発動の詠唱が始まる。足元を駆ける閃光の数々に、魔法陣が紅い輝きを放つ。


 ◆


 スケッチブックを開き、あたしは筆をとる。

 硬い黒鉛が紙に摩擦し、幾つもの線を跡として残す。何度も何度も、線を引く。


 すぐに丸くなってしまうペン先に苛立ち、また別の鉛筆をとる。それもすぐに削られて今度は赤い鉛筆を掴む。またすぐに足りなくなって鉛筆削りをゴリゴリと回す。何度だって、何度だって。


 線を引く。ペンを代える。鉛筆削りを回す。

 線を引く。ペンを代える。鉛筆削りを回す。


 ◇ 


 室内を満たす赤い光が私の視界を塗りつぶす。

 どこからともなく風が強まり、重ささえも奪われた身体が虚空へと誘われる。


 ◆


 起きた出来事を忘れようとするんじゃなく、未来を祈るようにして。何度も、何度も、何度でも。


 ◇


 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、全てが光に飲まれ思考が溶け合うようにしてかき混ぜられる。


 ◆


 絵を描いているのが自分なのか、絵に描かされているのが自分なのか。それはどこか懐かしい感覚で。


 ◇


 そう、こんな浮遊感だったと思う。一年前、私がこの世界に来たときも――




 ◆




 ――やがて右手に力が入らなくなって、ようやく、今が深夜なのだと気がついた。


「痛っ……ちょっとやり過ぎちゃったかな。でも、描けた。描けたよね」


 誰にともなく呟いて窓を開けると、夜空の一番高いところに月が昇っていた。綾乃もどこかで同じ夜空を見ているだろうか。お願いだから、見ていて欲しい。


 あの月が大きな鏡なら良かったのにと、何度願ったことだろう。


 例え離れていても、大きな鏡を見てあの子を探す。あの子から見ればきっと、あたしがそこに映っている。


 瞬間、一陣の閃光を放つ流れ星が空を切り裂いた。月明かりを打ち消すほどの、今まで一度もみたことのない、火の玉みたいな強い輝きが。


 机の上に放り出していたスマートフォンが鳴ったのは、そんなときだった。

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