【番外編・後日談】世界の終わりに

 二週間前、地平線の彼方にあった『闇』が今はもう半分以下の距離にまで迫っている。

 人類に、否、世界に残された時間はもう殆ど無いだろう。

 女は結界の外にある大地にそっと手を伸ばし──深いため息をついてその手を下ろした。


「こちらにおられたのですね、姫」


 背後からの声に振り返ると、そこには長身かつ細身の男がいた。

 本来なら陽光を受けて煌めくはずの金髪はくすんで見る影もなく、青く美しい瞳にも疲労による翳りが見える。長い研究生活によって視力は落ち、眼鏡によって補っているものの、レンズの替えなどもう世界のどこを探しても存在しない。

 憐憫を覚えるのには十分な姿だ。

 しかし、それは女自身も同じだろう。月の女神に例えられた銀髪も全盛期の輝きはもはや無く、儚げな美貌と謡われた身体も単なる痩せすぎの魅力に欠けたそれに変わっている。

 それでも、想い合った相手にくらいは今できる最高の美しさを届けようと優しく微笑んで、


「王子こそ。研究はもう良いのですか?」

「これは耳が痛い。……打ち込みすぎて貴女に怒られた事が何度もありましたね」

「ええ。世界のためだとわかっていても、愛する人に自分だけを見て欲しい──女というのは本当に、ままならない生き物ですね」

「姫」


 女と同じく十分な食事のできていない男の細い腕に抱き寄せられる。

 情熱的なキス。

 身体の火照りを感じながら唇を離すと、彼もまた切なげな表情でこちらを見つめていた。限界ギリギリの生活。男性の裸を見た経験は何度もある。彼の「あの部分」がどうなっているか想像することも難しくはない。

 衝動のままに触れて、求めて、与えてもらえればどんなに良いか。

 しかし、二人で交わした誓いを破ることはできない。それに今更求めあったところで、子を孕み、産み落とす時間は残されていない。


「……こんな時くらい、名前で呼んでくださればいいのに」

「私達に名前など必要ありません。この世にはもう『姫』も『王子』も私達しかいない。そして、いずれ来る救世主達にはその役職名ですら不要です」

「私達には会うことも叶わない救世の英雄たち。彼らには、酷な事を強いてしまいますね」

「仕方ありません。我々には時間も選択肢も残されてはいなかった」


 完全に身を離した王子が視線を下へ。

 石造りの床。

 壁はなく、外周に設置された何十本もの柱が石の天井を支えている。

 四方には階段。敵の侵入経路を限定するための策であり、同時にこの場を神殿として機能させるための措置でもある。

 神殿。

 そう。ここは神殿である。祈り、願い、救い手を求めるしかなくなった者たちが作り上げた最後の場所。


「滅びゆくこの世界がせめて、ここに存在していた事だけは伝えなくては」

「ええ。……そして願わくば、ここに新しい世界が築かれますように」








 世界最高の学術都市を有する『知』の大国の第三王子。

 王都に大神殿を擁する神聖王国の第二王女にして、未完の大聖女。


 魔の軍勢による攻撃が王都にまで及んだのを受け、最小限の配下と共に大陸中央に位置する小国へと避難させられた二人。

 未だ成人年齢にも達していなかったものの、既にその才能を認められ将来を嘱望されていた二人は受け入れ先の小国で人類が生き延びるためにあらゆる策を講じた。

 新しい戦術。新しい兵器。新しい魔法。少ない労力で育つ作物。

 幾つもの策によって人類の生存日数は確かに伸びた。しかし、神聖王都をたった一匹で滅ぼしたドラゴンでさえ魔の軍勢にとっては一つの駒に過ぎない。力の差は歴然。対抗しうる力を持ったごく一部の英雄たちもまた、力を結集する前に敵の先制攻撃によって各個撃破されてしまった。


 新たなる魔王が真の滅びを狙っている事は明白。


 学術都市の大賢者が唱えた「世界の終わり」。

 姫自身が神託によって教えられた『迫りくる闇』。それらの情報から世界の滅亡は避けられないものと判断され、二人の策は人類が滅びないためのものから「たとえ滅びても世界だけは存続させる」ための策へと変わった。

 築かれたのは神殿。

 魔術の理論を用いて神聖魔法の効率を最大限に高め、魔王が奉じる邪神と対となる善の女神の力を借り受ける魔術要塞。

 建設は成功した。

 そのために貴重な魔術師、学者、建築家を酷使してしまったが、その価値はあっただろう。

 しかし、そこまでして建てた神殿も決して広いものではない。

 結界によって外敵の侵入を防ぐことのできる要塞には発案者である王子と姫を中心に、その協力者が入ることとなった。


 ──混迷の中、他国の王族を保護し続けてくれた小国の王族を差し置いて。


 抗議の声は聞き入れられなかった。

 王も、王妃も、親交を深めた王子王女ですら「二人が適任だ」と笑って延命の手段を手放した。残り少ない兵を率い、少しでも時間を稼ぐために散っていった彼ら。その遺品はおろか遺髪すら回収することは叶わなかった。

 代わりに。

 選りすぐられた魔術師と巫女を収容したこの神殿は迫りくるありとあらゆる脅威を退けてきた。そして迎えたのだ。

 真の滅び。

 無の象徴、否、無そのものである深い闇が彼方から迫る光景を。


 魔王も、邪神も、この神殿には現れなかった。


 おそらくは力を使い果たしたか、一足先に滅ぶことを選んだのだろう。

 『闇』は邪神の力ではない。邪神の力によって誘因された滅びの運命。運命にはたとえ神でさえも抗えない。女神は人類側の味方だが、邪神の力を打ち消すことはできても『闇』を打ち払うことは難しい。

 しかし、


「世界の縮小を逆手に取る手段がある」


 世界とはいわば大きな器だ。

 神の力は強大だが、それでも世界をあまねく満たすことはできない。だが、世界が小さくなれば? たった神殿一つ分の世界ならば女神の力を十分すぎるほどに満たすことができる。

 女神の力を十分に引き出すことさえできれば理論上、迫りくる闇から永久に神殿を保持することさえ可能だった。


 これで、滅んだ世界にたった一つだけ「世界があった証」が残る。


「世界が滅びなかった可能性を手繰り寄せて、世界を作り直しましょう」


 この世界の人間では打ち倒せなかった敵。防ぎ切れなかった脅威。回避できなかった滅び。

 対抗できる戦士たちへ試練を与えて鍛えながら「世界の欠片」を回収し、新たな世界を生み出す。『闇』とは世界の寿命そのものであり、新たな世界を滅ぼすことはできない。

 綱渡りどころか夢物語と言われても仕方ないような構想。

 世界で最高峰の知者でさえも鼻で笑いそうなほど斬新で驚異的で幼稚で希望的な発想ではあったが、王子と姫は最後まで諦めなかった。


「世界を作り直すのは私達ではない」

「滅びを防げず、受け入れるしかなかった私たちにその資格はありません」


 異世界から戦士を招こう。

 無限の可能性を知り、無限の可能性を持つ者を。一人ではなく大勢を。一度ではなく何度も。そうして世界を作り直してもらおう。


 逃げてから十年以上。

 長い戦いの終わりに待ち受けていたのは決死の作戦だった。









「試練の構築は完了しています。……後は『世界結界』さえ起動できれば」

「わかりました。……いよいよ、ですね」


 頷いた姫は、彼方の『闇』をじっと見据えた。

 この瞬間にもゆっくりと近づいてきている滅び。もはや猶予は殆どない。起動するのであれば早い方がいいだろう。

 外から内へと踵を返し、一歩踏み出そうとしたところで──腕を引かれた。

 見上げれば、王子の真摯な瞳。

 今まで一度も見たことのないほど悲痛な表情。


「私達は十分頑張った。ならば、ここで終わりでも良いのではないでしょうか」

「王子」

「世界のために貴女が犠牲になる事はない。……いや、私は貴女を失う事が耐えられない」


 現在張られている結界は主に魔術的なものであり、外敵を滅ぼす事はできても『闇』には対抗できない。

 滅びから神殿を守るには女神の力を可能な限り強く引き出さなければならない。それには聖女級の力を持つ者が己の魂を捧げて神威を召喚しなければならない。

 儀式の中核となれる者は王女ただ一人。

 神殿には共に逝くために残された十二人の処女巫女たちがいる。姫の魂は彼女たちと共に砕かれて女神の糧となり、世界を守る結界を紡ぐ。

 死んだ者は輪廻転生の権利を得るが、魂まで砕かれた者は真の死を得る。


 しかし、姫は微笑んで答えた。


「世界が滅びれば神にも死が訪れます。そうなれば、あらゆる生命が転生の機会を失う。いずれにせよ私たちを待ち受けているのは滅びです」

「ですが!」

「王子。……私は、あなたを愛しています。他の誰よりも。だからこそ、私はあなたと築き上げた『希望』を信じたい」

「姫」


 王子の唇から一筋の血が流れだした。強く噛みしめすぎて裂けてしまったのだ。

 拳を握りしめて耐えるように立ち尽くした王子は、やがてそっと手を離して、


「申し訳ありません、取り乱しました。貴女の言う通りだ」

「王子」

「もう大丈夫です。我々は最後まで自分に出来る事を──」


 その時だった。

 結界からなにかが震えるような、あるいはひび割れるような音。確認すれば、二足歩行する山羊のような魔物が数十の魔物を率いて神殿に向かってきていた。

 まだ、あれだけの数の魔物がいたとは。

 今になって攻めてきたということは、この時を待っていたのか。あるいはしぶとく生き残った結果、終わりの時が近いことを悟ったのか。


「あれは、まさか四天王の一角……!?」

「だから、結界が警告を発したのですか?」

「おそらくは」


 四天王のうちの一体。二足歩行する山羊の姿をした邪神官。利己的な性格と恐ろしい魔力の持ち主であると言われている。四天王級の魔物が直接攻撃してくるとなるとさすがに結界が危ない。度重なる戦闘によって脆くなっているうえ、儀式が近い今、補強し直すだけの魔力はない。


「どうやら、いずれにせよ他に道はなかったようですね」

「王子!」


 笑って、男は一歩足を踏み出した。

 神殿の内部。そこへ待機したいくばくかの兵、そして魔術師に命令を出すためだ。

 神殿を守って死ね、と。

 儀式に必要なのは巫女と姫のみ。倉庫に残された食料ももう少ない。儀式の後、神殿以外に何もなくなった世界で生き残るのと今ここで死ぬのに大きな違いはなかった。

 それでも、


「王子!」

「姫。私は私にできることをします。……だから、貴女は貴女にできることをしてください」


 今度は自分が王子の腕を引き、縋りつく王女。

 自分の背中を涙で濡らす女に男は優しく囁いた。


「もしも世界が生き残って、輪廻転生が許されたら──その時は、またお会いしましょう」

「っ」


 姫は「約束、ですよ」と呟くように言って身を離した。

 最後にもう一度だけ口づけをして。

 互いの涙を指で拭い合った時には、二人は、世界に残された最後の指導者としての顔を取り戻していた。


「兵と魔術師はここへ! 敵襲だ! 結界と神殿を守るため、これより我々は最後の戦いに出る!」

「巫女は全員、儀式の準備を始めてください! 残った水と酒は全て清めに使って構いません! ……今日まで守ってきた私たちの魂と純潔を捧げ、女神様に降臨していただきます!」


 全員がいなくなることが前提の戦い。

 儀式が終われば、神殿の内部は全て閉鎖されることになっている。人間がここで生きていた名残は消え、残るのは人類最高の魔法的・神的装置としての神殿のみ。

 しかし、それさえ残れば後はきっと、希望が繋がる。

 慌ただしく動き出した世界で、二人は一度だけ視線を交わして──。


 その日。


 世界を大きな光が包み込んだ。







   ◇    ◇    ◇

 

 





「転移、成功したみたいだね」

「うん。ほんとにもー、鬱陶しいくらいに闇ばっかり。いかにも世界の終わりって感じで本当やだ」

「あそこに敵がいます! ……あ、でも、四天王の一人ですね。あれくらいなら私一人でも」

「面倒ですから早く焼き払ってしまいましょう。倒してもドロップ品が出ないのが残念です」

「皆さま。ここはダンジョンではないのですから、軽はずみな行動は控えるべきかと」

「どっちでもいいわよ。元気があり余っているくらいでないとやってられないでしょう。……私たちだけでこの闇を払うなんて、ね」


 夢か幻なのだろうか。

 光が収まった後、天から幾人かの少女たちが舞い降りてきた。

 色とりどりの髪を持った彼女たちはあまりにも気楽に、そして自然に世界を見渡すと神殿へと舞い降りてきた。

 一団の中から進み出てきた少女──否、女性。一団の中では最年長に見えるその巫女を見た姫は、かつてドラゴンと刺し違えて亡くなった『聖女』の姿を思い出した。


「遅くなって申し訳ありません。私はエル。大神殿の聖女様より聖女の位を賜った者です。……只今、遠い時の彼方より、異界の英雄を連れてやって参りました。私たちが来たからにはもう、誰も殺させませんし滅ぼさせません」

「……遠い時の彼方だと。まさか!?」

「ええ。……きっと、そうなのでしょう」


 涙が溢れる。

 決死の覚悟だった。後を託すつもりで、自分が助かることなんて考えていなかった。

 なのに。

 困難をすべて押し付けたはずの異界の戦士たちはきちんとやり遂げてくれた。それどころか、姫たちが考えもつかなかったような手段を用いて時さえ超えてここへやってきた。滅んだあとの世界を作り直すだけではなく、滅びようとしている世界を救うために。

 こんな、こんな奇跡があっていいのだろうか。


「皆さんが最後まで諦めなかったお陰ですよ。……さあ! あんな魔物と闇なんてさっさとやっつけてしまいましょう!」


 文字通り世界を作り直すように消し去られていく闇。

 英雄たちの活躍を目にした姫は、傍らに立つ王子と共にただその光景を目に焼き付けた。

 新たなる神話。

 これがその最初の一ページになることは、疑いようもなかった。

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