#20BーC 蒼空はじまりの時【歪其の一】



ひどく寒い。

夜の海ほど恐ろしいものはない。身体中がベトベトで、濡れた頬に砂のザラザラが当たって痛い。あたしはなんでこんなところで……砂浜で……寝ているんだろう?

そうだ……海におちて、それからどうなったんだろう?



のどが渇いた……水がほしい。



それにしても見慣れない景色ね。どこまで流されてきたの……?

街灯もなければどの建物も明かりは点いていない。いや、よく見るとロウソクかなにかの明かりが仄かに点いているみたいだけど……すごく気味が悪いわ。見上げると満天の星空で、今までに見たこともないような、まるで照明の下の宝石のように星が輝いていた。



ここはどこ?



あたし、どこまで流されてしまったのかしら。見慣れない町(まるで昭和をモチーフにした映画みたい)をしばらく歩いていると神社が見えてきた。鳥居の向こう側はすごく明るくて、なんだろうって覗いてみたら縁日をしているようだった。どこからかお囃子の笛太鼓が聞こえてきて、不思議なことに縁日の会場には誰もいない。でも、よく目を凝らしたら提灯の光に照らされた地面には人の影があって(誰もいないのに!)、それらがざわざわと楽しそうに話をしている……!?



「おやおや。あなたは黄泉の者と取引しましたね」



どこからか話しかけられたような気がして、ますます怖くなっておそるおそるキョロキョロと見回したけれど誰もいない。笛太鼓の音もどこから聞こえてくるのかも分からなくて、すごく奇妙で、結末はいつもの理不尽に死ぬ悪夢のような光景に泣きそうになった。はやく家に帰りたい。



「代償にとんでもないものを支払いましたね。2人分ですか。いえ、自身も合わせると3人分……割にあわないのではないですか? 人はいずれ死ぬ。早いか遅いかだけの違いなのに。もったいないでしょう?」



また女の人の声がした。今度は振り返ると誰かが……いた気がした。けれどそこにいるのになぜか認識できない。確かにいるのに見えないし木々に同化しているような感じで、姿かたちがどんなふうなのかまったく分からない。



「あなたは……だれ?」

「……誰でもない誰か、とでも言いましょうか。さて、ここは時のとまり木。あなたは不敬にも迷い込んでしまいました。……まあ、いいでしょう。そうですね、黄泉の者の呪縛は解けません。死んだ後もあなたを喰らうでしょうね」

「あたし……なにも悪いことしていないのに」

「そうでしょうか? あなたの通り道を見るかぎり……代償がゆえに愛する者を裏切り、代償により嫉妬し、あなたは負けたのです」

「どういうこと……? 全然分かんない。あたしは、どうすればいい?」

「どうすることもできません。ですが、あなたが望めば機会は与えましょう」



笛太鼓の音が止まった。風が吹き付けてきて、いきなり寒くなった。



「人は気づかないうちに選択を誤ってしまう。それをやり直すことは不可能なのです」

「…………普通はそうだと思いますけど?」

「並行宇宙で死ぬ運命にある者は、どの宇宙でも同じ時に死ぬのがことわりというもの。では、訊きます。あなたはこの世のものでない者に願ってしまった。それは平行宇宙の外にある者。その異形の者がその世界のあなたと友人だけを救ったとしたら?」

「……本当は死ぬ運命だったけれど、自分の世界のあたし達だけ生き延びて……ほかは死んでいる?」

「そう。あなたは賢いですね。あなたは三人の命を救いました。その代償は3つ」



他の世界のあなた達はもういません。全員死んでいます。

書き換えてあげましょう。黄泉の者と交渉せずに生き延びなさい。あなたが望めば過去は変わる。あなたが間違えなければ未来も変わる。その代わり、あなたがもし黄泉の者との契約の18の年よりも先の未来に行くことができたら……。






あなたを含めた三人のうち——誰かが5年の猶予後に死にます。






三人のうち、誰かの命と引き換えにあなたを今から生まれる前に戻しましょう。

これが———あなたに課せる代償です。代償は必ず支払ってもらいます。






「待って、あたし……また生まれ変わったらを持っていけるのですか?」

「残念ですが……すべて失います。ですが……強く念じなさい。そうですね、あなたの生まれた土地の氏神に祈りなさい。強い感情は比較的残りやすいですから。といっても、あなたには難しいかもしれませんね」



ふと風が止んで、気づくと冷たい水に浸かっていた。嵐の中、冷たい雨が降って口の中に塩水が入ってくる。たしかに今の今まで神社みたいなところにいたのに、な、なんで……海に……誰か、助けてッ!

荒波の中でもがき、あたしは陸地も見えない海の中で沈んでいった。苦しい……。







あたしは早月蒼空さつきそら。今年で18歳になる。鏡見春亜かがみはるあとダンスに明け暮れていて、毎日が充実している女子高生だ。



となりで姿勢よく立つ幼なじみの鏡見春亜はテントの脚を持ち、市役所の職員の指示に礼儀正しく「はいっ!」とうなずいていた。



春休みになっても春亜とは毎週会っているし、少なくとも他の同級生のように会えなくて寂しいっていう状況にはならない。高校3年生の春でダンスのステージは一区切りとなる。3年生は受験の年だし、それをすぎて高校を卒業するとスクールの階級もティーンズから一般クラスに移らなければならない。だから、この春のイベントが最後で、良い思い出を作りたいってみんな張り切っている。春亜もそのうちの一人だ。



祭り当日はステージ設営を手伝わなくてはいけなくて(地元の演者は皆ボランティアとして駆り出される)、あたしも春亜も朝の6時から駅前ロータリーに集合。

これがなかなかダルいのよね……。



「春亜はさ、今日最後までいる?」

「ん〜〜〜多分」

「じゃあ、一緒に回らない?」

「うん、いいよ。どうせ僕ボッチだし」

「みんなと合流しないの?」

「みんな彼女持ちで、って……言わせるなよ……」

「あはは。じゃああたしが今日一日彼女になってあげるよ」

「……うん。あ、蒼空はいいの?」

「なにが?」

「僕なんかで。他に回りたい人いるんじゃないの?」

「まあね。でも、春亜が一人じゃ可哀そうだから仕方ないじゃん」

「はいはい。すみませんね、蒼空さま」



スタジオスパーブは高花市のすべての団体の中でも一番の大所帯で、ステージも一目置かれている。小刻みなタイムスケジュールにもかかわらず、もらった時間はなんと2時間。2時間もあれば各々の生徒の出演時間も多い。ただ、保護者からのクレーム(なんでうちの子はうまいのに出番が少ないの、という理不尽なやつ)も少ない代わりにとんでもなく曲数が多い。先生はピリピリしていて、編曲と立ち位置の調整(大所帯ゆえに後ろの子をいかに目立たせるかがポイントらしい)だけで残業続きだと葛根先生はぼやいていた。



「じゃあ、あたし、チームの練習あるからあとで」

「ああ、うん。あとで」



内心は嬉しかった。だって、春亜は自分で気づかないだけでモテるし、友達も多いから断られるんじゃないかって思っていた。春亜に悪い虫が近づかないように他の女に睨みをきかせていて正解だわ。中学のとき、ある女が春亜に近づいたから、友達みんなに頼んで潰したことがある。すぐに転校しちゃったけど、もしあのまま居座られたらと思うとゾッとする。



鈴木陽音すずきはるね……昔は仲が良かった気がするけど、あいつはあたしを敵意むき出しの目で見てくる、ウザい奴。元はといえばあいつが「春亜を好きかもしれない」なんて口走ったのが原因なのに。春亜は絶対に渡さない。春亜はあたしのものだ。あたし以外の女が触れることも、話すことも絶対に、絶対に許さない。



好きすぎて胸が苦しい。実は春亜に、何回も告白をしている。

あたしたち付き合う? 彼女になってあげる。ねえ、あたしは春亜のこと好きだよ? 春亜にはあたしがついていないとダメだと思う。だから一緒にいてあげる。



どれも……冗談だと捉えられてしまう。



だから真剣に——真面目に告白をしようと思って、春亜と二人きりになると決まって邪魔が入ったり、春亜に今忙しいと軽くあしらわれたり、なにかとタイミングが合わない。まるで呪いがかかっているとしか思えない。この間の悪さは神様のいたずらなんじゃないの?




2時間の長いステージ(演者としてはあっという間だと思う)がはじまり、幼児や小学生が舞台に上がるのを助けながら、いよいよ自分の出番となってお客さんの前に立つ。ステージ前はレンズを向けるカメラマンや楽しみにしてくれていたお客さん、それに子どもたちの親御さんで溢れかえっていた。



ゾクゾクする。舞台袖で春亜が「がんばれ」と口パクサイレント応援をしてくれている。



ジャズダンスと多少のアクロバットを披露し、キメ顔と笑顔を忘れずになんとか3曲踊り終えてステージを降りる。



2時間のステージが終わり胸をなでおろした。準備組に参加した者の夕方の超めんどい後片付け(昨年は、朝起きるのがだるいからって後片付け組にしたことを死ぬほど後悔した)は免除されており、これでようやく自由の身。春亜とお祭り会場を見て回ろう。そして、今日こそ告白を成功させたい。



他のチームのステージを観たり、マジックショーを観たり。バンドも聴いた。

チーズドッグを食べて、春亜と二人で写真を撮っていっぱい笑った。なんだかすごく充実していて幸せ。桜が舞い散る幻想的な光景のなか、あたしは春亜との将来をぼんやりと思い描いていた。



会場の公園は広大な敷地で、隅の方の人はまばらだった。光が射し込む木漏れ日の中で春亜は桜を見上げていて、ふいに振り返り微笑んだ。



「蒼空、今日はありがとうな」

「? なにが?」

「僕に付き合ってくれて」



あぁ、やっぱりあたしは春亜のことが好きだ。その顔も、優しい声も。




なんだかすごく視線を感じるな、と思ったら見知らぬ女が人混みにまぎれてこっちを見ていた。春亜の知り合いなのかな? でも、そうだとしたら話しかけてくるはず。それをしないということは……イベントで春亜を見て気に入ってしまった?



キャップを深くかぶり、マスクを着けたいかにも怪しい女。ただ、見ているだけだから今のところなんとも言えないけれど。あたしに気づいたのか、今度はサングラスまで掛けた。なんなのよ。




「春亜? あの子知ってる?」

「え?」

「あの子よ。ほら、焼きそばの出店の前の……」



あたしが指を差したところで、女はいなくなっていた。



「なに? 同じ学校の子でもいた?」

「違う……と思う。気のせいだったかも」

「ふーん。そもそもさ、蒼空の知らない子を僕が知ってるはずないじゃん」

「あぁ……それもそっか」



あまり気にしないでおこう。



祭りも終わり春亜とは家が逆方向だから別れて歩いていると、ワンボックスカーがハザードランプを点けて停車する。ウィンドウが下がって、ナンパかよ、なんて思っていたら全然違くて葛根先生が顔を出した。



「蒼空、送っていくよ」

「いえ、結構です」

「蒼空の家は結構歩くだろ。ほら、またこの前みたいにさ」

「あれは一度きりって言ったじゃないですか。奥さんに言いつけますよ?」

「家内に言いつけたら、むしろお前が責められるぞ? 既婚者と知っていたんだからな」

「……別に。こっちは高校生ですからね? 逮捕案件ですよ? 葛根先生、確かに……あたしも悪いところがありました。でも、あたしは二度と過ちは犯しません。一度きりでなかったことにしようってことで話はついたじゃないですか」

「ああ、分かってるよ。送っていくだけだ」

「そうやって、本当はいやらしいこと考えているんですよね?」

「ないない。そうじゃなくて、一般クラスに移ってからの話をしたいと思っただけだ」



葛根先生はそう言って車から降りてきて、まるでエスコートでもするかのように助手席のドアを開けた。



「話だけですからね?」

「ああ。一般クラスに移ったら、ダンスのレベルはぐんと上がる。プロもいるくらいだからな。でも、もし蒼空にその気があるなら……選抜に推薦してもいい」

「選抜……本当ですか?」

「ああ」



選抜というのは、その名のとおり選ばれた者で構成される、いわば一軍のチームだ。一般クラスでそこに配属されるには相当な努力が必要となるし、今のあたしではギリギリか入れないくらいのレベル。それに高校生であたしくらいのダンスしかできないのであれば、限界が見え隠れしないでもない。



ちなみに、ティーンズの中で選抜確定なのは鏡見春亜ただ一人。まだ春亜と一緒にダンスをしていたい。これから先もずっと……。だから余計に……選抜という誘惑には弱い。



「ところで、春亜とは付き合っているのか?」

「……それ今の話に関係あります?」

「いや。今日一緒にいたところを見たから」



春亜と今の話となにが関係あるの?

ダンスに恋愛は関係のないことだし、相手が春亜だとしても選抜の推薦になにか関係があるのだろうか?

春亜とあたしが付き合っていたとして、それが選抜の推薦と関係はないと思う。



ふと顔を上げると歩道を歩く女と目が合った。さっきの子だ。さっき、じっとこっちを見ていた子。近くで見たら、女のわたしでも心臓を射抜かれてしまうようなキレイで可愛い子だった。背筋の伸び具合やウェストの細さ、それにどこか凛とした空気感。目の周りだけしか露出していなくても佇まいや所作しょさで美少女だと分かってしまう。深くキャップを被っているから顔の全体像は見えなかったけれど、女の目を見る限りなぜかあたしを見て驚いているようだった。



「蒼空ちゃん!?」



確かに蒼空ちゃんと窓越しに聞こえた気がするけど、あたしの知り合いにこんな美少女はいない。



「知り合いか?」

「いえ」



車が発進してからサイドミラーを覗いてみると、女は見えなくなるまで呆然としたような顔でずっとこちらを見ていた。




あいつ。なんなのよ。なんであたしの名前を知っているのよ。





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