ペルーギーワッフル
舞寺文樹
ペルーギーワッフル
ジリリリリとけたたましく目覚まし時計が踊る。こいつはいつも慌てて飛び起きる僕を見て、ゲラゲラと笑う。僕はそいつの頭を一つ叩いて、ゆっくり立ち上がった。
午前5時。今日も良い目覚めだ。僕は近くにかかっていた黄色のボアコートを羽織ってリビングに降りた。頭から煙を吐くポットの下にマグカップを置く。インスタントのコーヒーの粉をティースプーン一杯半をマグカップに入れて、ポットの頭を撫でる。ポットが唸って、お湯が出てくる。たちまちリビングに安くてエレガントなコーヒーの香りが飽和した。
ふわふわと頭の中で彷徨う夢のかけらたちを繋ぎ合わせて、長編の夢を現像した。夢なんだからなんでもありだ。僕があの子と映画を見たり、夜景が綺麗なところでキスをしたり、ヒーローになってあの子を救ったりもできる。でも夢だから、詳しくは思い出せない。あの子が僕の夢にお邪魔してたことくらいしかわからなくて、でも確かなのは、それは夢だということ。実際、あの子は僕のことなんか気にもせずに、世の中の移ろいの一部分になって広い世界に身を潜めているのだから恐ろしい。
マフラーを首にグルグルと巻き、ニット帽と手袋を装着して、サドルにまたがる。口から白い息がずっと出るもんだから、前が見えない。白い息は涙の代わりですかと、寒いのにカーカーと喚くカラスが僕に言う。
あの子は今何してるのだろうか、まだ寝てるのだろうか。それとも、素敵なボーイフレンドとお出かけか。
あの子が誰かの彼女なのか、そうで無いのかはわからない。けれど僕のことを全く気にかけていないことだけは事実だ。
ああ、朝から何を考えているのだ。首に巻いたマフラーが、あの子に囚われて一人で勝手に振り回されている象徴にしか思えない。僕の首にまとわりつくそれは首輪で、リードの持ち手はあの子にある。あの子は全く僕の方を見ることもなく、ただ引きずるのだ。ズルズルと、どこまでもどこまでも。県道の脇の細い歩道を君はズルズルと僕を引きずるのだ。
「おはようございます」
僕はそう言って少し頭を下げる。クリスマスとか、なんも興味なさそうな中年のおじさんが二人立っている。
「おはよー。今日も頑張りましょうね」
そう僕に言うと、不気味に笑った。
僕の教室は四階だ。エレベーターは無い。重い足を一つ二つと上に上げて、2階3階と登った。
教室には一番乗りだった。別にやる気に満ち満ちていて、早くきたと言うよりは、機械的な運動に過ぎない。椅子に座って、公民の問題集を出す。受験科目は政治経済だから、そのページを探る。だいたい、哲学科を倫理で受験できない大学受験の風潮に異を唱えたいが、まあ仕方がない。
「おはよー」
「おはよー」
この塾に通う唯一の友人が入室してきた。こいつは理系なので、受験の話はあまり合わない。ただ、難しい問題の、何が難しいのかを熱弁し合うくらいだ。
「見て、昼ごはん。ケーキ持ってきた」
「え、まじ。羨ましいわ。僕はいつも通り、おにぎり二つ」
僕も途中でケーキを買えばよかったと、後悔をしている。考えてみれば今年のクリスマスは、なにもクリスマスじみたことをしていない。まあ、受験期に楽しむ余裕もないと思うが。
最初は違和感しかなかった映像授業も、今ではすっかり慣れてしまっている。最初は画面の向こうのおっさんに、英語やら国語やら政治経済やらを教わるのに気持ち悪さを感じていたが、今ではもうすっかり、はいはいと講義を聞いている。なんだか不気味だ。
しかし、まあ集中はできない。友人もそんな感じなので、塾の外に出た。
「去年のクリスマス、何してた?」
友人にそう問うてみた。友人は、うーんと目をつぶって必死に考える。そういえば僕も何をしていただろうかと、うーんと考える。
「あ、普通に部活だわ」
「あ、僕も」
しばし沈黙が流れる。
「部活終わった後は?」
今度はそう問うてみた。すると友人はうーんとまた目をつぶって考える。そしてまた僕も何していたかと、考える。
「普通に家帰って、家族とケーキ食ったかな」
「僕もだわ」
犬の散歩するおばちゃんと、カップルが一対一の駅前の公園。どこかのバンドのボーカルが、恋愛してても、二対一で自分のこと考えてる。なんて言っていたけれど、もしそれが本当なら滑稽だ。ベンチに座って握る手も、かわいいリボンに装飾された箱を渡すあの瞬間も、全部自分が二倍。君の二倍。ああ。面白い。
けれどお互い二倍なら、結局一対一なのか。だから、あの人たちは、「カップル」として釣り合ってるのか。なんだかよくわからないことばかり考えていたら、肩を二つトントンと叩かれた。
「おまえ、信号赤だから」
「あ、ごめん」
カーカーとカラスが僕を見て笑う。僕の赤くなった顔は、信号機の赤い人といい勝負だった。
「あら、いらっしゃい。今日もお勉強?」
「まぁそうですね」
「あらーえらいじゃない」
「いえいえ、そんな」
そんなこと言いながら僕たちはおばさんの顔を見ることなく、ショーウィンドウに夢中だった。
「じゃあ僕は苺大福と柚子みかん大福で」
「俺はー、苺大福とミルクコーヒー大福にしようかな」
おばさんがカタカタとレジを打つ手を止めた。
「あ、これ、別々?」
僕たちは、少し間を置いてから、別々でと答えた。
「はーい、じゃあ、二七〇円と三〇〇円ねー」
財布をジャラジャラとかき回して小銭をトレーの上にばら撒いた。
「はーい、ありがとー。お勉強、頑張ってるから、これおまけね」
「あ、ありがとうございます」
おばさんの笑顔。とっても素敵だ。
「クリスマスに大福は洒落てるな」
「だな」
さっきの公園のベンチに座わって、包装紙を開ける。大福が三つポツポツと並ぶ。モチモチとした柔らかいのが互いに押し退けあって、美しい曲線を描く。いわゆる曲線美というやつだ。
「俺、おまけから食べようかな」
「なら、僕も」
おまけは、杏大福だった。甘酸っぱい杏がその曲線美のイメージと良く合う。おまけされなければ、この杏大福は僕と出会うことはなかった。僕と君との出会いは運命だ。なんだかますます甘酸っぱい気持ちになってきた。
二対二の公園に、僕たちだけは一対一だった。だから小さくて逆に浮いた。ああ、約分してしまいたい。
「後二つはまた後で食べようかな」
「そうだな、まだこの後も長いし」
塾の階段を登る。本日二回目だ。狭くて暗い階段。見通しの悪い階段。今は登るけど、結局最後は下らなければ行けない階段。まるで僕だ。
杏大福が功を奏したのか、かなりの集中力だった。午後九時。自習室の開放時間は残り一時間。友人は必死に物理の力学の計算している。僕も最後、古典をやってお終いにしようと、カバンから古典の問題集と、文法書、講義書を取り出した。
自発、尊敬、受身、可能。れ、れ、る、るる、るれ、れよ。られ、られ、らる、らるる、らるれ、られよ。
使役、尊敬。せ、せ、す、する、すれ、せよ。させ、させ、さす、さする、さすれ、させよ。
高一の時にバカみたいに唱えまくったコイツらのありがたさを、今になって知る。
さっきの、二対二のやつらは僕にとってましまほしだ。考えてみれば、クリスマスに女の子と過ごしたことなんて一度もない。これがまだ小学生ならわかるが、もう十八だ。流石に惨めになってくる。
僕に彼女がいましかばもう少し受験勉強もがんばりまし。ってこともないのだろうか。
かくれんぼしてるこの世界で、あの子を見つけても、簡単にはひょっこりと出てきてはくれない。ああ、残り一時間にして、撃沈である。
「僕、先帰るわ」
「お、女か?」
「んなわけ」
マフラーを首にグルグルと巻いて、手袋とニット帽を装着する。自転車にまたがったが、なんだかしっくりこないので、下車した。
イヤホンを耳につけて、自転車を押して歩く。冷たい北風が僕を追い越していく。プレイリストに、クリスマスの曲をたくさんかき集めたが、再生ボタンは押せない。世間の言う「クリスマス」と僕の「クリスマス」があまりにもかけ離れ過ぎていて、世間の「クリスマス」ベースでこしらえてある、いわゆる「クリスマスソング」は僕の身の丈には合わないと思ったからだ。
好きなバンドのミックスを流す。ギターとベースとドラムと、それからボーカルの綺麗な歌声に乗せて、この世界のアンチテーゼを歌う。
それなら何がテーゼなのか。二対二の奴らか、それとも、僕たちか。はたまた、クリスマスなんかそっちのけで、教え子の進学実績だけを気にする中年塾講師か。まさか、杏大福をおまけしてくれたあのおばさんってことはないだろう。
そんなつまらないことを考えているうちに、その曲はクリスマスの星空に消えていった。
お返しですと言わんばかりに、ピアノが鳴る。ロックバンドがたまにリリースする、バラードは妙に泣ける。これもその類だ。
このバンドは、世の中の不条理さとか、生物の生死とかを比喩盛りだくさんに、豪快なリズムに乗せて世の中に訴えるバンドだ。しかし、この曲は違う。題名から、歌詞から何まで、真っ直ぐのラブソング。夜中に夢に出てきたあの子と、夢から抜け駆けする曲。
そんな曲を、クリスマスの夜に一人で聴く。なんて幸せなんだ。あの二対二の奴らが今これを聴いたとしても、ロマンチックだなんてアバウトな言葉で片付けてしまうかもしれない。けれど僕は違う。今からあの子と初デート。待ちに待った初デートなのさ。
「どこ行きたい?」
「甘いのが食べたい」
「甘いの?」
「うん、甘いの」
僕は君の手をとって、星の下を歩く。
「なら、ワッフル食べよっか」
「ワッフル?ペルーギー?」
「ううん、ベルギー」
「あー、それだー!」
ああ愛おしい。ペルーギーだなんて、そんなところも愛おしい。お店の明かりがだんだんと近づいてきて、僕とあの子の心臓の音もだんだんと速くなってきて、そしてそれから……
ピアノの音がまたクリスマスの夜空に吸い込まれていく。作業着のおっさんが燻らせた煙が僕の鼻を通って、肺を殴る。そして、あの子は僕の心を殴る。
「いらっしゃいませー」
店員さんはサンタクロースの帽子をかぶって僕を出迎えた。サンタクロースなら、ただで全てよこせなんて、ユーモアのないことを思ってしまった僕を殴りたくなる。
僕はおにぎりの脇の温かいブラックコーヒーと、ペルーギーワッフルを買った。間違えた、ベルギーワッフルを買った。
駐車場の端っこで、ワッフルを食べる、かすかに香るマルボロが、最悪のクリスマスを引き立たせる。ベルギーワッフルより絶対にペルーギーワッフルの方が美味しいと思った。
イヤホンをカバンにしまって自転車にまたがった。さっきの抜け駆けの曲を口ずさみながら、自転車を漕ぐ。誰も僕を車で轢かない。いっそのこと轢いてくれていいのに。
後ろから追い抜く車は、僕をわざわざ避けてゆく。ここに自分がいる感じがしてたまらなかった。もっともっとその感覚が味わいたくて、少しだけ車道側に寄って自転車を漕いだ。すると、ピーと車が鳴いた。ここに自分がいてはいけないと言われている気がして、自分の心も泣いた。
お風呂に入る。柚子風呂だ。クリスマスに柚子風呂。なんともミスマッチな気もするが、クリスマスに、大福ってのもミスマッチだろう……
「あ、大福」
とっさに大福を思い出す。慌ててカバンの中を確認する。あの美しい曲線美を描いていた、その輪郭はもう認識できず、ペシャンコになっていた。
仕方なしに、ペシャンコになった大福を包み紙から剥がして、食べた。味は同じだ。
電気を消して、布団に入る。でもどおしても、クリスマスの夜にあの子とペルーギーワッフルが食べたくて仕方がない。
スマホをスクロールする。ずっとずっと下の方までスクロールする。
「LINE追加したよー。今日から同じクラスよろしく!」
「よろしくー」
僕とあの子の時間はこの時から何も動いていない。意を決して、受話器のボタンをおす。携帯から変なリズムが繰り返し流れる。それに合わせて、心臓が大きく鳴る。震える手にしっかりと力を入れて、スマホを握る。
けれどあの子は電話に出ない。零時二分のクリスマス。
ペルーギーワッフル 舞寺文樹 @maidera
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