万華鏡(Kaleidoscope)

「君、無限に広がる美の世界に興味はないか?」そういうと眉目秀麗びもくしゅうれいな画家である室屋むろや春玄しゅんげんは、懐中から一筒ひとつつ万華鏡まんげきょうを取り出し、使い古された座布団の上に置いた。私がちょっと手に取ってみると、飴菓子あめがしり合わせたような軽い音が筒の中で鳴った。柘榴色ざくろいろをした万華鏡まんげきょうには蒔絵まきえほどこされている。毒々しくも華々しい豪奢ごうしゃな品だ。私は一目いちもくでそれに魅了されてしまった。「ほら、それを僕に向けて覗いてご覧なさい」

 耳朶じだくすぐるような甘いささやきに導かれるままに、私は望遠鏡を覗く要領で春玄しゅんげんの端正な顔立ちを真っ向から見た。その途端とたんわずか五畳にも満たないはずの安下宿が際限なく広がり始めた。どのような絡繰からくりが仕掛けられているのだろう。万華鏡まんげきょうの内に広がる世界が絢爛けんらんいろどりに飾られながら膨張してゆく。天窮てんきゅうを超えて無限に広がる漆黒の宇宙――揺蕩たゆたう天の川を類想させる無数のきらめきに目がくらんだ。

 みすぼらしい部屋に突如として現れた広大な銀河に夢中になった。私は万華鏡まんげきょうを手の中で転がして千変万化せんぺんばんかするにしきの花を楽しんだ。高等学校の莫迦ばからしい席取り合戦の事も、両親から放蕩息子ほうとうむすことして勘当かんどうされた事も雲散霧消うんさんむしょうしてゆくようだった。圧倒的な美を前にした時に訪れる不思議な静寂を感じながら、私は喰い入るように魔道具を目に押し当て続けた。

「君の審美眼しんびがんは素晴らしいよ。だから、ほら――」筒に押し当てていた眼球がとろりと融ける。液状になった脳髄が細い管を通って合わせ鏡の世界に流れ込む。肉体が裏返るようにして万華鏡まんげきょうの内に吸い込まれてゆく。言いようのない多幸感が全身を駆け抜けた。「万華鏡まんげきょうも君を気に入ったようだ」

 

 ※  ※  ※

 

 祖父が急逝きゅうせいしたという訃報ふほうが届いた。かねてから折り合いが悪かった事もあり、故人をいたむつもりはほとんどなかったが、親族の手前もあり、一応は葬儀に参列する必要があった。繁忙期に差し掛かった勤め先を抜け出す口実が意図せず出来できてしまった。はなはだしく肩身の狭い思いをしたことは言うまでもない。

「お前は俺の兄によく似ている」生前の祖父は私の顔をめ付けては屡々しばしばそんな事を言った。余程よほど、兄弟仲が悪かったらしい。祖父が兄(私にとっては大伯父)のことを軽蔑していることは明らかだった。だが、二人の確執かくしつの由来がつまびらかにされることはついになかった。「いつまで地に足を付けずに暮らすつもりだ?」

 私は都内にある広告代理店に勤めている。会社が創立されてから随分ずいぶんと経つが斜陽しゃようとは縁遠い部類に入る企業である。また、自分が築き上げてきたポストも決して不当なものではない。必死に働いた結果として、結婚には至らなかったが、祖父が言うような暮らしはしていないはずだ。事実、私は堅実に生きている。

 恐らく、あの万華鏡まんげきょうが関係しているのだと思う。塵芥じんかいが舞う蔵の中で見つけ出した不思議な玩具がんぐを手にした時から、祖父と私の間に深い溝が刻まれたように思える。柘榴色ざくろいろをした万華鏡まんげきょうの由来をたずねようとした時、祖父は明白に狼狽ろうばいしていた。あれは、私が八つを数えた歳の頃だったか。

 故人をしのぶ時がたけなわになった頃、私は喪服の肩に掛かる砂塵さじんを手で払いながら蔵の内に忍び込んだ。スマートフォンの光を頼りに山と積まれた雑貨の中から、あの万華鏡まんげきょうを見つけ出そうとしたのだ。何故なぜ、今更になってあの玩具がんぐを探そうとしたのかは分からない。もしかしたら、私は亡くなったはずの祖父の気を引こうとして躍起やっきになっていたのかもしれない。

 随分ずいぶんと時間をついやした。だが、ついにあの万華鏡まんげきょうを探し出すことが出来できた。柘榴色ざくろいろの上に蒔絵まきえほどこされた玩具がんぐは相変わらず美しい品であった。八歳の時に叩かれた頬がジンと痛んだ気がした。そこまでして、祖父が秘密にしたかった事とは何だったのだろう――私は万華鏡まんげきょうの中身を確かめるために筒を目に当てた。


  ※  ※  ※

 

 紙片で作られた名刺を初めて見た。それにしても、ひどく読みにくいフォントで書かれている。みずから名乗ってくれなければ、きっと僕は彼の名前を知ることすら出来できなかっただろう。ムロヤ・シュンゲン――それが彼のペンネームらしいが、アナクロニズムなセンスで苦笑してしまった。

「これは君のご先祖から受け継がれてきた品物だ」デスクの上に置かれたカレイド・スコープは毒々しいまでの赤色をしており、悪趣味な金色で何かの花が描かれているが、どこから見ても稚拙ちせつなオモチャにしか思えない。彼は自前の芸術論を披露ひろうしたが、あまりにも幼稚な内容で聞くにえなかった。「君たちの美術はパッチワークに過ぎない」

 そう言って、あの男はカレイド・スコープを置いてオフィスから出て行ってしまった。彼とアートに関して議論するつもりはないし、また余地よちが残されているとも思えなかった。タブレットさえあれば誰しもがアーティストになれる時代だ。彼は芸術を信仰していたようだが、あれは大人が夢中になっていそしむことではないのだ。少なくとも、僕はそう考えている。さて、この古いだけがのオモチャをどうしようか――。


                        (了)


                                                 


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