ウォークオフ・ゲーム
サヨナラのときでも、こうもゆっくりは歩かない。
エノチカが傍まで寄ったとき、ニーガルタス・アルヘンは虫のように地面を這いつくばっていた。ひ、ひっ、と声を漏らしながら、この状況でも逃げようとしていた。
「待て」
と、エノチカは声をかけた。
「い、いいいぃぃぃっ!」
ニーガルタスは露骨に怯えた声を出した。
「ゆ、ゆるしてくれぇっ。なんでもする、おれにできることならなんでも! だから、粛清官、見逃してくれ! 俺は、もともとたいした犯罪なんかしちゃいねぇんだよ!」
「……そうなのか?」
「あ、ああ。ほんとうだ。連盟関係者だって、俺が殺したんじゃねえんだよぉっ! クソ、俺は運が悪かっただけなんだ!」
エノチカは、相手の姿を見下ろした。
ぼろぼろに汚れ、破れた高級そうなスーツ。割れかけのマスク。
傷があるのは、右脚だけではなかった。粒子弾が暴れた部屋で、ニーガルタスも何発か掠ったようだった。
「お、お、俺はよぉ、ちょっといい暮らしがしたかっただけの、いわば小市民なんだよ。なぁ粛清官、お前らの相手はもっと、偉大都市で大犯罪をやろうだとか、テロを起こしてやろうだとか、そういうやつらだろ⁉ 俺のことなんか追って、なんかいいことがあるかよ」
「……ひとつ、聞きたいことがある」
今にも卒倒しそうな意識をこらえて、エノチカは聞いた。
「お前。六年前まで十六番街にあった、ベースボールスタジアムを覚えているか」
「……は?」
「まあ、スタジアムっても、どうにかこうにか客席と囲いを作っただけの、広い空き地みたいなもんだったけどよ。今は、REXって名前の、つまんねえ商業ビルになっている。オーナーの名は、アナスタシア・フラベルだ。女のわりに大柄で、年のわりにきれいなばあちゃんだった」
うろたえていたニーガルタスは、意図のわからない質問に口を閉ざした。
エノチカのマスクとユニフォームを交互に見比べると、
「……へ、へへ。ああ、思い出した」
と、言った。
「あったなぁ。懐かしいぜ。あの、屋外で球遊びをしていた連中だろ! かわったやつらだったな。オーナーのばあさんも、かわりもんだった」
「そうだ。アタシが気になるのは、お前がどうしてあそこを狙ったのか、だ」
「なんだよ。お前、まさか」
「いいから、答えろ。あの土地は、たしかに最後には企業が買い取った。だが、その売買の価格と比較して、お前がわざわざ目をつけて動くほど利益が出たわけじゃねぇだろ。だったら、どうして狙ったんだ」
エノチカがバットを突きつけると、ニーガルタスは薄気味の悪い笑い声を漏らした。
「ムカついたんだよ。あのババア、せっかく俺が興行のやりかたってもんを教えてやろうとしたのに、こともあろうに、ことわりやがったんだ。イカれちまってるのかと思ったぜ」
「……どういうことだ?」
「ひひ。お、俺はよぉ、はじめは善意で近づいたんだぜ? ほんとうだ。あの施設は安物だったが、やりかたによっちゃ大金が稼げそうだったから、共同経営をしてやろうと思ったんだ。そうだってのに、やれスポーツで賭けはしねぇだの、賭博サーキットとは違うだの、クソみてぇなきれいごとばっかり言いやがったから、予定を変更して、毟ってやったんだ。俺はな、この偉大都市で稼げるのに稼ごうとしないやつが、いちばんきらいなんだよ!」
なにがおかしいのか、ニーガルタスはひとしきり笑い続けた。
それは、みずからの終わりを悟った人間の笑い方のようだった。
だからかれが笑いをやめたときには、一転して、諦念だけがそこにあった。命乞いが無意味であることがわかったのか、さきほどの態度とは打って変わっている。
「……やれよ」と、悔いのない声でニーガルタスは言った。「終わりだ。まったくクソ人生だったが、まあ、最後以外は楽しめたほうか……」
立ち尽くすエノチカのとなりに、粒子弾ができあがっていた。
意外なことだが、それはエノチカが意識的に形成したものではなかった。
怒りがなした、無意識の技のようだった。自分がいかにこの男の全身を蜂の巣にしてやりたいのかを、エノチカはここにきてはじめて、ほんとうの意味で自覚した。
エノチカ、と頭のなかで声がした。
ばあちゃんの声だった。いくつもの教条を残してくれた、唯一の肉親。物心つく前には砂塵障害で両親を亡くしていたエノチカには、祖母こそが親だった。
今のエノチカのすべては、アナスタシアのしつけがあったからこそだ。
やれ人にはもっと丁寧に接しろだの、やられたらやり返せだの、物はきれいに食べろだの、音楽を流すときは許可を取れだの、人に物を頼むときはマスクをはずせだの、なんだの。
うるっせーの、なんのって。
すべてを鮮明に覚えているからこそ、ひとつだけを思うことはできなかった。一条ごとの記憶が織られ、重なり合うようにして脳内のニューロンを駆けて、それは泡影のように、次から次へと浮かんでは消えていった。
だから最後にそれを思い出したのは、べつに、ただの偶然だった。
子どものころ。幼馴染のレッツにおとこおんなだとからかわれて、むかっ腹が立ったからバットでしこたま殴ってやったら、ばあちゃんにどやされた。
エノチカ! 人に向かってバットを振るんじゃないよ!
でもばあちゃん、あいつが……
許してやれ、エノチカ。そんな小さいことは忘れちまえよ。
なんでだよぉ。
それが大事だからだ。
立派な女なら、いろんなこと水に流して、笑って生きるんだよ!
エノチカは、バットを振った。
それは粒子弾を打つではなく、直接、ニーガルタスの背に叩きつけられた。
つんざくような悲鳴をあげて、ニーガルタスが海老反りになった。
「わりぃ、ばあちゃん。やっぱ、ムカつくもんはムカつくわ」
ようやくインジェクターを解除して、エノチカは言った。マスクのなかで泡を吹いて失神するニーガルタスを見下ろして、続ける。
「半身不随で工獄に入る。そのほうが、こういう
空はとっくに暗かった。
試合でいえばナイターだ。
エノチカはポケットからチョコレートを取り出すと、外にもかかわらずマスクをはずして、きれいな箇所をひとくちだけ齧った。
「んだよこれ。ビターかよ」
エノチカはその場に座りこんだ。
バットが地を転がり、すべてのゲームがセットした。
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