マジで気のせいかよ
すれ違う女が砂塵粒子を撒いた瞬間に、エノチカは一瞬、死を覚悟した。
だが、引き起こされた結果はクリティカルなものではなかった。ふたりはなにか弾力性のある物質に弾き飛ばされただけであり、問題なく受け身を取った。
いちおうキャナリアの様子を確認すると、かのじょも立ち上がっている。
「なぁ。このエムブレム、身分がバレて先に攻撃されるだけなんじゃねぇの。つけないほうがましな気がするぜ」
「……徽章のせいではありませんわ。あたくしたちの、ただの恥ずべき油断ですわよ」
そのとおりだとエノチカは思った。ふたり揃って、なんとも情けない。
「今の女、ニーガルタス側の勢力だよな。エイテ傭兵団の所属か?」
「おそらくは。少数のかわりに、全員が砂塵能力者という話でしたもの。捜査資料にも載っていた、例の姉弟でしょうね」
目の前には、廊下をそっくり覆う緑色の物体があった。危険だから直接触れようとは思わないが、みるからにぶよぶよして、やわらかそうだ。ずいぶんとかわったものを生み出す能力者らしい。
やわらかいことが破壊しやすいことを意味するわけではないが、だからといって、こんなものは障壁にはならない、とエノチカは思った。
「キャナリア、さがっていろ。アタシがぶっ壊してやる。とっととあいつら捕まえて、情報を吐かせんぞ」
エノチカはインジェクターを起動しようとした。それを、キャナリアが止めた。
「お待ちなさい」
「あ? なんでだよ」
「提案がありますわ。端的に聞きますけど、あなた、次に行くべき場所の検討はついていますの?」
相談などしている状況ではないと思ったが、そんなことはキャナリアもわかっているはずだ。そのうえであえて言っているのだから、聞く価値がある提案だとエノチカは考える。
「どういうことだよ」
「もし、このホテルにアーノルド・シュエインやターゲットがいるならば、ここはふたりで問題ありませんわ」
時間がないためか、キャナリアはごく早口で言った。
「でも、もしもすでにかれが連れ去られているとしたら? そうなれば、完全に時間との勝負になりますわ。今まさに連盟に追われていると知れば、かれらはなにを措いても隠れようとするでしょう。そうなれば、この粛清案件は暗礁に乗り上げることになってもおかしくないですわ」
エノチカには、相手の言わんとしていることがわかった。
かりにここにいるエイテ傭兵団を捕らえたとしても、すぐに情報を引き出せるかはわからない。刑期と引き換えにした情報提供を迫っても、死んでも中央連盟に利することは吐かないという犯罪者も多いと聞く。
最悪なのは、かれらと戦うことで、ニーガルタスに危機を察知されることだ。
だからこそ、キャナリアは現時点で推測できる、ニーガルタスのSSにおける潜伏場所をたずねてきたわけだ。こうしたケースで、ニーガルタスが使いそうなところを。
「……いちおう、ここじゃないかってのは、ひとつある」
エノチカは、その場所を告げた。
「けっこうですわ。でしたら、あなたは今すぐにそこに向かってくださる? 案内によると、非常階段はうしろだそうですわよ」
エノチカのすぐとなりには、たしかにその案内が貼ってあった。
「五―十の間隔で連絡を取り合うようにしましょう。ちゃんとベルズが通じれば、はずれていてもケアはできますわ。よろしくて?」
「……やっぱ、ふたりでやったほうがよくねーか?」
「エノチカさん、どうして粛清官がふたりひと組なのかご存じかしら?」
呆れたようにキャナリアが言った。
「そのほうが遥かに時間を短縮できるからですわ。あなたとともに行動しても、あたくしがインジェクターを起動する以上、かかる時間にはさしてかわりはありませんの。――さあ、はやくお行きなさいな」
これ以上の話し合いは無駄のようだった。
互いに、健闘を祈るような言葉は口にしなかった。なぜなら、粛清官が負けることなどあってはならないからだ。
そして自分たちは、そういう存在になろうとしているからだ。
駆けながら、エノチカはふと思う。
たしかにキャナリアの言っていたことには一理ある。
それでも、あいつはまず自分にニーガルタスと接触する権利をくれたのではないか? かたき討ちだと、そう教えたから。
それから、すぐにその考えを消した。
あの自分第一の女だ、きっと気のせいだろう。
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