死んでてもおかしくなかったな




「姉貴、腹減った」


 ソファのうえに寝転がりながら、カリヨンはそう言った。


「がまんしな」

「まじで無理だ。もう俺、この死体をかじりそう」


 はぁ、と姉のネーデルはため息をついた。


「ほんとうにいやんなるね、あんたみたいなバカを弟に持つと。なんだってこんなときくらいがまんできないんだい?」

「だってよぉ、きょう、昼も携帯食くらいしか食えなかったじゃん。インジェクターを使うと腹が減ってしょうがねぇんだよ。姉貴だってそうだろ?」


 空腹じたいは否定できなかった。それでも、弱音を吐くかどうかはべつの話だ。

 今、ふたりの姉弟は待機を命じられていた。ついさきほどまでは、自分にできる範囲で痕跡を消す努力をしていたネーデルだが、一定の技術や道具がない以上、ここまでが限界だというところに至っていた。

 しばらくすれば、親分のベレンスキーが呼んだその道のプロがやってくる。ホテル側に不審に思われないよう、かれらにも変装の必要があるなどのめんどうな部分はあったが、とにかくいくつかの問題をクリアすれば、それで今回の仕事は終わったも同然だった。


「なぁー、ホテルって、電話で言えば飯を持ってきてくれるんだろ? それを頼もうぜ。俺、バイソン肉が食いたい。脂がたくさんのってるやつ」


 だというのに、このバカ弟はこんなことを言う始末だ。


「ダメに決まってんでしょうが」

「なんでだよ。部屋のなかをみられなきゃいーんだろ? 俺、ちゃんと扉のまえで受け取るからさ」

「万が一ってことがあるだろ。どうしてなんかの拍子でみられる可能性を考えられないんだ? ただでさえ騒音があったせいで怪しまれているってのに」

「ううぅぅぅう」


 頭をぼりぼりと掻くと、カリヨンはソファのうえで暴れ出した。


「もうなんでもいいから食いてえよぉ。普段ならとっくに晩飯の時間なのに。うぐぐぅぅう」

「こら、変な声を出すな! でかい音も立てるな!」

「でもよ、姉貴だって知っているだろ。俺、こうなると自分でも制御できないんだよ。まじで、どうにかなっちまいそうだ。どうしてみんな、これを無視できるんだ」


 まずいな、とネーデルは思った。

 自分で言っているあたりが癪に障るが、それでもカリヨンの発言は正しい。弟は、昔からありとあらゆる衝動をがまんできない性格だった。子どものころ、近所のむかつくガキを絞殺してからというもの、ほとんど衝動のままに生き続けている。

 ネーデルは策を講じることにする。

 カリヨンを食事に行かせるのはどうだ? いや、まず怪しまれるだろう。万が一ホテルのなかで気に入らない人間でも発見されたら最悪だ。

 だとすれば、自分が行ったほうがまだマシだ。自分以外のだれが来ても絶対に入れるなという簡単な命令だったら、さすがの弟でも聞けるだろう。


「わかったよ」とネーデルは言った。「食えるならなんでもいいって言ったね? それなら、あたしがどうにかしてきてやる」

「やったぁ、さっすが姉貴だ! 最後には優しいんだから」

「おとなしく待っているんだよ、いいね!」


 弟に言いつけを守るように厳しく言うと、ネーデルは自分のものではないマスクをかぶり、スーツ姿のままで部屋の外に出た。

 すぐに戻ってこなくてはならない。たしか、下のフロアにレストランがあったはずだ。そこでごく簡単なものでも作らせて包んでもらおう。


 そう考えて、ネーデルが廊下を歩き始めたときだった。

 ネーデルは、向こうから歩いてくるふたりの人物の、その違和感に気がついた。

 あまり普通には感じない感覚だ。遅れて、自分の勘が正しかったことを知る。

 やけに派手なドレスを着る白い鳥のマスクの女も、そのとなりにいる、かわったジャージのような服を着る女も、そのどちらも、例のエムブレムをつけていた。

 ――粛清官だ。

 そう認識したとたん、ネーデルの時間が止まった。


 自分でもよくやったと思えることに、見た目には狼狽があらわれなかった。マスクをしていてよかった。そうでなければ、顔にはゆがみがあらわれていたことだろう。

 周囲がスローモーションになり、思考だけが加速していた。

 どうまちがっても、粛清官がここにいるのは偶然じゃない。確実に、自分たちを追ってここにきている。つまり、自分たちの犯行は筒抜けだったわけだ。


 相手の目的が顧客であろうと、自分たちのボスであるベレンスキーであろうと関係はない。このまま連中は、アーノルドの客室に向かい、そして無理やり室内をたしかめるだろう。

 そのとき、カリヨンは単身でふたりの粛清官を相手にすることになる。

 ネーデルの選択肢は、現実的に考えてひとつしかなかった。

 このまま自分だけでもベレンスキーのところに向かうことだ。おそらく、状況的に自分は呼び止められるだろう。相手はたしかに粛清官だが、能力を駆使すれば、いっとき逃げることは不可能ではないはずだ。

 なんとか窮地を脱したら、一刻もはやくベレンスキーに事情を伝え、計画を中断し、都市に戻って潜伏する。仕事と生活を第一とするなら、それしかなかった。

 なにより、ネーデルはかねてよりプロとしての仕事にこだわりをもっていた。


 だから、そうするべきだという結論に至った。

 粛清官たちと、すれ違う。

「……ん」と、ユニフォームを着たほうの女が言った。「ちょっと待て。あんた、ひとつ聞いていいか――」


 互いに振り返る。

 そのとき、すでにネーデルは首元に手をまわしていた。

 芝色の砂塵粒子が流れた。あらかじめまとまった密度を形成する時間はなかったから、かわりに黒晶器官が痛むほどに稼働させて、無理やり力を顕現させる。


「――ッ‼」


 相手がおどろくと同時、ネーデルはすばやくジェルを発生させた。強い弾力を持つ粘膜のクッションが、その発生時の勢いを使ってふたりの粛清官を弾き飛ばす。

 あらかじめ歩幅を調整していたネーデルは、T字のかたちをした廊下で能力を使うことで、敵をべつの道に追いやることに成功していた。

 続けざまに、ネーデルは道そのものを覆いつくす巨大なジェルを形成した。

 もっとも、相手はただものではない。自分の作るジェルの、そのやわらかな防御力には自信があるが、それでもすぐさま突破してくるだろうという確信があった。

 次にネーデルが取るべき行動は、迅速にこの場から退くことだった。向かうべきはエレベーターか、あるいは窓か。

 だが、実際にネーデルが取ったのは、べつの行動だった。


「カリヨンッッッッ」


 あらんかぎりの大声で、ネーデルは弟の名を呼んだ。

 もと来た道を戻る途中で、扉が開いた。マスクを着用したカリヨンがひょいと顔を出す。


「なんだよ姉貴、でけぇ声出して。財布でも忘れたか?」

「バカ、敵だ! それもただの相手じゃない――粛清官が来たんだッ!」

「はぁ……?」


 弟と合流すると、ネーデルは振り向いた。まだ、ジェルは無事なようだ。

 脱出の方法はいくつかある。

 それを試すべく、弟を連れてフロアの移動をはじめた。

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