第23話 ドMのド変態紳士
夜会の最中も、ウィリアムは夫の義務を正しく果たした。クリスティはほったらかしにもされず、大切に扱われたため、『冷遇されている妻』という恥ずかしい姿をさらさずに済んだ。
――カウンセリングが効いたのね、とクリスティは思った。彼は現状の持ち点八を死守するつもりなのだ。
この夜は多くの時間を二人で過ごしたが、それでも一人きりになる場面もあった。
クリスティが化粧室から戻る途中、廊下の柱廊からふらりと一人の女性が出てきた。烏の羽を思わせるような黒髪に、神経質そうな面差し。左右の大きさが違う、特徴的な雌雄眼。
「……嫌な女」
すれ違いざま、彼女がボソリと呟きを漏らした。そして刃物を研ぐような、不気味な音。背中に嫌な感触もあった。
足を止めて振り返ると、彼女のほうも振り返り、睨み据えて来る。
――見間違いようもない、会うのは二度目だ。一度目はクリスティが彼女の鼻にパンチを叩き込んだ、あの時。前回は王宮でメイド服を身に纏っていた彼女だが、今夜はドレスを身に纏っている。それにしてもずいぶん安っぽいドレスだった。
「あなた――」
話しかけようとしたら、彼女は背を向け、小走りに去ってしまった。……やれやれ、まったく。
クリスティは首を回し、背筋を伸ばしたり、反り返ったりして、背中を確認しようとしたのだが、あまり上手くいかなかった。しかしそれでも一部は目視することができたので、素晴らしいドレスが刃物で切り裂かれているであろうことは、なんとなく分かったのだ。
「これ、気に入っていたのにぃ」
クリスティはむくれ、腰に手を当てた。――もう、やんなっちゃうわ!
コルセットのおかげで地肌は傷付いていない。あちらも挨拶代わりというか、怪我をさせないように気を遣ったのだろう。親切心からそうした訳ではなく、今は人目を引きたくなかっただけかも。――つまり、次があるということだ。
クリスティは壁に寄りかかり、使用人が通りかかるのを待って、夫のウィリアムを呼んでもらった。彼はすぐにやって来た。
「どうした?」
「私、もう帰るわ」
クリスティがそう告げると、ウィリアムは医者が患者の様子を眺めるように、静かにこちらの顔を覗き込んで来た。
「何かあった?」
「疲れちゃったの」
「じゃあ僕も――」
「あなたはもう少しゆっくりしていったら?」
――という具合に、ここまでドジは踏んでいないはずなのだけれど、不思議だわ。
ウィリアムはクリスティの手を引き、壁から離した。クリスティより背の高い彼は、懐に彼女を引き寄せるだけで、ドレスの後ろがどうなっているか、上から覗き込めてしまう。
「――誰にやられた?」
聞いたこともないような低い声。驚いたことに、ウィリアムは静かに激怒していた。声音が抑えられているぶんだけ、彼の怒りが深いことが伝わって来た。
ふと気付けばクリスティは彼に抱きしめられていて、肩や、切られた背中のあたりをさすられていた。彼がクリスティに触れる手付きは慎重で、赤子をあやすかのような動きだった。
「ドジったわ。転んだの」
「嘘をつくな」
「本当よ」
ウィリアムは苛立った様子で眉を顰め、上着を脱ぐと、彼女の肩にかけた。――そうして右手を彼女の膝裏に手を回し、クリスティをお姫様抱っこしてしまったのだ。
「わぁお! あなた、どうしちゃったの、ウィリアム」
クリスティは目を丸くし、足をプラプラと揺らした。今夜の彼は本当にどうかしている。
ウィリアムは顰めツラのままだ。……この顔、久しぶりに見たわ、とクリスティは思った。
「君って女は、まったくもって手に負えない! 僕の思いどおりになったことがない」
「そうだった?」
「自覚がないのか? じゃじゃ馬」
「浮気男」
「馬鹿女」
「クズ男」
「我儘女」
「浮気男」
「……それさっき言ったぞ」
「二回言っちゃだめってルール、あった?」
「あった」
「誰が決めた?」
「僕」
「モラハラ男」
「寝相最悪女」
「そんなことないわ」
「朝方、いつも僕に抱き着いてくる」
「そんなことしてないもん」
「意地っ張り女」
悪口を言い合っているうちに、クリスティは馬車の中に運び込まれていた。
「だけどあなた、意地っ張りな女は嫌いじゃないでしょう?」
そう言ってやると、対面の席に腰かけたウィリアムが、ぐうの音も出ないという顔付きになった。
「……まぁそうかもね」
「つまりあなたって、ドMのド変態なのよ」
「失敬な」
「リピート・アフタ・ミー! ――私はドMのド変態紳士でぇす!」
「言うわけないだろ!」
「リピート・アフタ・ミー! ――クリスティさん、どうかわたくしめの背中を、ヒールで思い切り踏んでくださぁい!」
「黙れ!」
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