2
7日目。最後の朝は慌ただしく過ぎて行った。
フィールドワークの予定は既に大幅に狂いっぱなしである。引率の先生を亡くしたので、羊たちは本土まで警察用の船舶で送ってもらうことになった。ただし、この台風の後始末でほとんどの船が今出動中で、港に現れたのはパトカーを数台収納できるような、まるでクルーズ船のような巨大な船だった。なるほど長崎、港町だけあって船が充実している。
帰り際、管理人の沼上丈吾さんが土下座せんばかりの勢いで平謝りしてきたが、もちろん羊たちは誰も責めるつもりは何もなかった。むしろ迷惑をかけたのはこちらの方だとも言える。
お見送りには、医師の丈治さんやその息子の麗央、さらにその子に寄り添うように白ずくめの少女・レオナも出てきてくれた。まるでこれから壮大な冒険の旅立ちが始まるかの如く、半ば大袈裟に大勢にいつまでも手を振られ、後ろ髪が引かれなかったというとやはり嘘になる。奇怪な事件に巻き込まれてしまったが……旅行自体は、食事も美味しく、水も空気も澄んでいて、大変満足の行くものだった。
「つくづく、殺人事件さえなかったらなぁ」
島民たちに見送られながら、沖田が悔しそうに呟いた。
午前中には出発した。船に乗る前、羊は立ち止まり、ふと六門島を振り返った。夏休みを利用して訪れた南国島。かつて人身御供が行われた島。手付かずの野生が息づく島。殺人事件があった島。魚料理が美味い島。宗教に翻弄されてきた島……。
風に騒めく木々、朽ちた鳥居、その向こうに広がる青々とした海と空……あれほど凄惨な事件がまるで何事もなかったかのように、大自然は全てを飲み込んで超然としていた。
名残惜しかったが、いつまでもこうしてはいられない。ゆっくりと足を大地から離し、揺れる船の中へと一歩づつ進んで行く。
勢の警察官が忙しなく動き回る船内は、そこはかとなく緊張感を感じてしまい、羊たちは借りてきた猫みたいになった。あの厳つい制服姿を見るだけで、何も悪いことをしていないはずなのに妙に縮こまってしまう。
一応男女別にそれぞれ部屋が割り振られて、目的地の相浦港まで約一時間と言ったところだが、それまでゆったりと過ごすことが出来た。羊は沖田と同じ部屋だった。『二段ベッド下に寝るか? 上に寝るか? じゃんけん』の結果、羊が上で、沖田が下になった。ベッド上の収納スペースに荷物を押し込んでいると、甲高い汽笛が鳴り、やがてゆっくりと船が前進し始めた。
それで、船の揺れが急に激しくなった。羊は思わずバッグを収納スペースから落としてしまった。
「オイオイ、何やってんだよ……」
「ご、ごめんごめん!」
床一面に荷物をぶち撒けてしまい、下から沖田の悪態が聞こえてきた。羊は慌てて階段を降りようとして、
「あれ……何だ、これ?」
沖田が羊の衣服の中から、何かを拾い上げた。それは、
「それ……」
「仮面?」
羊は息を飲んだ。それは仮面だった。
何処かで見たことのある、ツノの生えた面。
島の天主堂に飾られていたはずの、由高教授のバッグから発見されたはずの、あのガラサ神の仮面だった。
「なっ何で……?」
仮面はまだ赤黒いシミが鮮明に残っており、さらに由高教授の備品と思われる、ネックレスや指輪、
「どうしてこれがこんなところに?」
「知らない……僕、でも」
羊は危うく階段から転げ落ちそうになった。羊も沖田も、呆然とお互いの顔を見つめた。やがて、どちらともなく悲鳴を上げ、それは船中に響き渡った。1秒と待たずに警察官が大勢飛んできて、部屋は瞬く間に人で溢れ返った。
「とにかく君達は大広間にいなさい」
説明を受けた木村刑事が、厳しい顔つきでそう告げた。騒ぎはしばらく収まりそうもなかった。半ば強引に背中を押され、学生たちは全員三階の会議室に連れて行かれた。10畳くらいの、大広間のようだったが、窓はなく、部屋の真ん中に固定された机がポツンと一つ置かれていた。
会議室に移動しても、羊は先ほどの恐怖が頭から離れなかった。一体いつ? どうやって? 犯人は、由高教授は自殺したはずじゃなかったのだろうか?
「どうなってるんだよ……!?」
「どうして? もう事件は終わったんでしょう?」
女子チームも合流し、6人で不安げに顔を見合わせた。椅子もあったが、何となく座る気になれない。沖田などはさっきから神経質に部屋をぐるぐると歩き回り、麻里から何度も窘められていた。
「だってよ……あの仮面! 殺人犯が……真犯人がこの船に乗ってるかもしれないんだぜ!?」
「怖いこと言わないで!」
「ねえ、大丈夫よね?」
「大丈夫よ……だって、警察の船の中よ? これだけ大勢の警察官が乗ってるのに、まさかもう事件なんて起きないでしょ」
「いや……分かんねえぞ。ある意味で此処は逃げ場がない、約一時間の密室ってワケだ。俺たちは捕食者と一緒に閉じ込められた餌同然だよ」
自分から言っといて、沖田が青い顔をして身震いした。心なしか船の揺れが激しくなってくる。風音が横目で羊に目配せした。
「ねえ、どう思う……?」
「どうって?」
「どうして羊くんの鞄の中にあんなものが入ってたのかしら?」
「うーん……僕らを怖がらせるため、だと思うけど……」
だがある意味で警戒させてしまったとも言える。もし自分が犯人なら、危険を冒してまで犯行を予告なんてしない。相手が安心して油断仕切ってるところをヤッた方が確実だからだ。こんな警察が大勢屯している海のど真ん中で、わざわざ仮面を見せて怖がらせる意味も分からなかった。
羊は、夢の内容こそ口にしなかったが、何となくプリントアウトされた遺書をもう一度取り出して読み返して見た。
「……その遺書がどうかした?」
「黒上さんは、この遺書読んでどう思った?」
「どう、って……」
風音は少し目を伏せた。
「私は……私は合点がいったわ。ずっと、【どうして犯人は心臓を抉り出したんだろう?】って不思議だったのよ。だけど先生は……お子さんがあんな目に遭って……だからだったんだわ。全部復讐のためだったのね」
「うん……」
……しかし、本当にそうだろうか?
羊は眉を潜めた。愛する家族を無残に殺され、仇敵を同じ目に遭わせてやろう……確かに動機としては分からなくもない。しかし、実際に実行するにはあまりにハードルが高すぎる気がする。ただ単に殺すだけでなく、心臓を抉り出すなんて、常軌を逸している。
むしろ羊はかつての風音の言葉……【犯人は心臓を抉りたかったんじゃなく、抉らざるを得なかったんじゃないかしら?】……の方が気にかかっていた。そこまでしなければならなかった理由……この遺書はそれを隠すために、真犯人が捏造したものだとしたら?
「羊くん……キャッ!?」
不意に船が大きく横に揺れ、風音が倒れ込むように羊の胸に飛び込んできた。
「大丈夫?」
「羊くん……私、怖いわ」
「あ……」
風音がそのまま、羊の肩にコトンと頭を乗せた。
「あ……そうか」
「え?」
「そっか、そうだったんだ……」
「どうしたの?」
「分かったんだ、この遺書の違和感が……!」
羊が突然立ち上がり、部屋にいた全員が驚いて彼を見つめた。
「ど、どうしたんだよ? 急に大声出して……」
「あ、ごめん……」
「違和感って? この遺書がどうかしたの?」
風音が怪訝な顔をした。羊は右手に遺書を握りしめ、改めて全員を見渡し、
「うん……そもそもこの遺書は、前提がおかしかったんだ」
「前提?」
「普通、いくら事件の関係者とはいえ、おいそれと他人に遺書なんて見せないだろ?」
警察は発見された遺書を直ぐにプリントアウトして羊たち全員に配った。
わざわざ遺書を見せる。それ自体が違和感の正体だったのだ。
「それ自体に意味があったんだよ」
羊は熱っぽく語り出した。貴重な証拠品であるはずの文面を、あえて公開して一般人に読ませたのは、
「遺書を読ませて、僕らの反応を窺ってたんだ」
「何だよそれ……変なこと言うなよ」
「何で? 警察の人たちが、私たちを怖がらせようとしたってこと??」
「というより、警察はあの時から僕らの中に真犯人がいると疑っていたんじゃないかな」
羊の言葉に、5人の顔に一斉に緊張が走った。当の羊もまた、ゴクリと唾を飲み込む。
「だからあえて遺書を見せて、その様子を監視してたんだ。誰かが怖がったり、誰かが泣いたり……誰かが、ボロを出すところを」
「ちょっと待ってよ!?」
「そんな……そんなことって」
「あり得ない! いくら何でも」
悲鳴に近い叫び声が部屋の中に谺した。
「まさか」
「私たちの中に……殺人犯がいるですって!?」
その時。
今日一番の、その場に立っていられないほどの大きな揺れが来て、全員がその場に膝をついた。さらにブツン!! と音がして、部屋の中は突如暗闇に包まれた。
「何!? 停電!?」
「いやぁああっ!?」
「落ち着いて! 冷静に!」
それぞれの声が闇の中で交錯する。風音がスマホを取り出して、皆もそれぞれ続いた。眩しいくらいの
「何があったんだ……?」
沖田が声を上ずらせた。さっきまで部屋中を震わせていたエンジン音がしない。どうやら船は、大海原の真ん中で停止してしまったようだった。誰かがゴクリと喉を鳴らす音が聞こえてきた。
停電中の緊急措置だろうか、扉はオートロックが解除され、そのまま閉まらなくなってしまった。中に閉じ込められないためだろう。だが逆に言えば、これで籠城もできなくなってしまった。
開いた扉から恐る恐る首を突き出し、細長い廊下の右左を確認する。廊下もまた電気が全て止まっており、非常灯の緑が、等間隔に点々と闇の中に浮かんで見えた。人影はない。
「どうする……?」
「どうするって……警察の人が来るのを待ちましょうよ!」
「でも……」
不意に微妙な沈黙が6人の間に流れた。先ほどの仮面と、それから羊の推理のせいだろう。
この中に殺人鬼がいるかもしれない。
その一言が全員を疑心暗鬼に陥らせていた。この場に
「良い? こう言う時こそ、パニックになっちゃダメよ。落ち着いて……冷静に」
風音が自分に言い聞かせるように、低い声で囁いた。その時、右側の廊下の先で、突然何かが輝いた。全員の目が一斉にそちらに走る。
「あ……」
それは、懐中電灯の明かりだった。誰かが、警察官が階段を上がって来たのだろう。
「誰……?」
「誰なの!?」
麻里が今にも泣き出しそうな声で叫んだ。返事はない。どうも様子がおかしかった。
「君たち……」
突如、相手から鋭い声が飛んできた。羊たちは飛び上がった。声の主は、若い警察官だった。誰かから逃げて来たのだろうか? 床に倒れ、恐怖に顔を引きつらせている。警察官が必死に叫んだ。
「君たち、今すぐ逃げろ!!」
「ひ……!?」
それが引き金となって……気がつくと羊たちは一斉に部屋を飛び出し、廊下を反対側に走り出していた。
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