5

 翌日。涼しげな風が運んで来た潮の香りで、羊は目が覚めた。


 空全体を薄い雲が覆っていたが、おかげで日差しが遮られて、昨日よりは過ごしやすかった。本日は博物館見学だ。目的の建物は民宿から見てちょうど山の反対側、日本海側に面した麓にあった。そういうことなら、と髭ダルマ……沼上丈吾が快く車を貸してくれるという。


「でも、こういうのって自動車保険……」

「何を固いこと言ってるんですか」

 丈吾が豪快に笑い飛ばした。

「ここには警察署なんてありません。馴染みの駐在さんが一人いらっしゃるだけですわ。なんなら、この島じゃ村長が法律みたいなもんですから。多少のことはもみ消しますよ」


 ……それはそれで、問題のような気もするが。だけど法令を遵守して歩いて行こうなんて言い出す者は、一人もいなかった。昨日の今日で、もうみんなクタクタだったのである。

 それで羊たちは翌日朝から車で博物館へと向かった。


 島の外周は約10km〜15kmほどだった。

 助手席のウィンドウを開き、車内に潮風を招き入れる。羊は、太陽の光だけじゃない、自然そのものの眩しさに目を細めた。

海岸沿いに植えられたヤシの木も、

凧のように空をふわふわと浮かぶカモメも、

歩道を普通に歩いている山伏も、

 同じ日本なのに、いつもの日常とは何もかも違う。見える景色の何もかもが新鮮だった。


 島には信号がないので、あっという間に到着した。信号どころか、コンビニも映画館もない。電車が数分刻みで忙しなくやってくることもない。耳障りな喧騒も騒音もなく、ただ選挙カーがわんわんと、蝉みたいに喚いている程度のものだった。


 人口600人ほどの離島は、何だか時間の流れがゆっくりになったような気がして、羊などは何処となく懐かしさを覚えた。彼も田舎出身だった。地元から都会の大学に出て来て、もう三年目になる。ふと地元の友達が懐かしくなって、羊はしばらく流れる雲を見つめていた。


 車から降りると、遠く海の向こうは徐々に薄暗くなって来ていた。予報だと台風が近づいて来ているらしい。そういえば何処となく潮風も、昨日より勢いを増しているような気がする。もしかしたら帰りの船出ないかもしれないね、なんて、麻里と蓮が不安そうに顔を見合わせていた。


 島の民俗博物館は、こぢんまりとした建物だった。

 民家に混じって建っていたから、最初、中々見つけられなかった。それでも中は立派なものだ。薄暗い館内に、良く分からない掛け軸とか、良く分からない屏風とか、良く分からない土器がたくさん展示されていた。要するに良く分からなかった。歴史家が見れば、それなりに価値はあるのだろうけど。


「何て書いてあるんだろう……」

「達筆過ぎて読めないね」


 良く分からない屏風を見つめ、英里奈と蓮が首をかしげた。解説を読んでも、難解過ぎて良く分からない。すると、黒上風音……カミカゼが颯爽とスマホの『崩し文字翻訳アプリ』を起動し、屏風を解読し始めた。


「おぉ〜。科学の力ってすげー」

「何か……ズルくない?」

「何が??」

「いや別に……」


 羊は目を逸らした。巷には『クイズ即答アプリ』とか、『クロスワード解読アプリ』とか出ているのだろうか? 全然知らない外国の言葉なんかも、誰でも手軽に無料で翻訳できる、時代と言えば時代だった。屏風に書かれた読めない俳句も、わずか数秒でご覧の有様だ。これには名探偵も真っ青であろう。


「こう書いてあるわ。


 『心の臓

   猛きその味

     神のみぞ』」


 アプリが翻訳した文章を、風音が凛とした声でスラスラと読み上げた。


「……どう言う意味?」

「心臓を食べたんでしょうね。きっと神様が」

「いや嘘つけよ。どんだけグロテスクな俳句なんだ」

「本当よ。この島に残された伝統的な句なんですって」

「何つーモン伝統にしてんだよ」

「おそらくそれは、人身御供の伝説を詠んだものね」


 生徒たちの会話を聞きつけて、教授がガラスケースの前に近づいて来てほほ笑んだ。


「神への供物……心臓の句よ。とある文献では心臓と頭の部分、一番大事な箇所はガラサ神が。切り落とした手足は村人たちがそれぞれ食したとされているわ。そして胴体は土に埋め、自然の生き物に食べさせたの。

神と、人、そして自然の動物たち。

神聖な食べ物を自分たちだけで独占しない。現代の私たちが忘れがちな、自然との共存の精神が此処では培われていたのね……私たちはもっと、食べ物を大切にしないといけないわね」

「なるほど……」


 まさかバラバラ殺人死体で道徳を説かれるとは思っていなかったが。一同は奥へと進んだ。管内の一番奥、暗室のように闇に包まれた部屋には、祭壇が置かれていた。


「此処に生贄が寝そべり、生きたまま心臓を抉られたのよ」

「ヒェ……!」


 全員が息を飲む。羊は恐る恐るガラスケースに近づいた。これが、かつてガラササマに心臓を捧げた時の祭壇……。昨日天主堂で見た、そして鳥居の上に立っていた仮面を思い出し、羊は小さく身震いをした。


 石で出来た祭壇は、思っていたより小さめだった。


「嗚呼。それはね、神に捧げられる供物は大抵、若い娘だったのよ」

「娘……」

「神話でもよくあるでしょう。生贄になるのは、大体若い女子ばっかりよ」

「どうしてですか?」


 教授は肩をすくめた。


「それが神事における巫女の役割……といえばそれまでなんだけど。日本の神様って、何処か人間染みてるのよねぇ。お酒が好きだったり、お餅が好きだったり。だから神様連中、若い女の子好きなのよ」

「何か……変態っぽい」

 麻里が顔をしかめた。


「後は諸説あるけど……人身御供というのは、通過儀礼の一種だったんじゃないかって」

「通過儀礼?」

「そう。大人になるための儀式。たとえばアボリジニの青年は、通過儀礼の時、ペニスの裏側を長く切られるの」

「い!?」

「そしてペニスを『明るく美しく』するために岩の上で叩かれ、にされる」

「いぃ!?」

「最後に開いた傷口に赤い花を差し込むと儀式終了よ。ちなみにこの儀式は現在も行われていて、たまに現地では病院送りになったり警察沙汰になったりするわ」

「うわぁ……」


 聞くだけで痛そうな話である。羊は顔をしかめた。沖田などは今にも泣き出しそうな顔で、トイレを我慢する子供のように腰を屈めている。日本に生まれて良かった。羊は心からそう思った。由高教授が優しく微笑んだ。


「日本で有名な通過儀礼といえば『成人式』があるけど……これはもう形骸化してるでしょ。本来の意味で通過儀礼とは、厳しい試練や痛みを伴う儀式を通じて、

『あなた達はこれから大人になります』

とか

『私たちの村の仲間になります』

と伝えているワケ。神のために生きたまま人間を殺害する……残酷だけど、その儀式に参加したものには『通過儀礼』と同じように、ある種の共犯意識が芽生えたんじゃないか、って」

「共犯意識……」

「いわば殺人行為を、一緒に見守ってるんだから。体験の共有。罪悪感の共有。それによって、共同体の結束を高める効果があった」


 ブラジルのサテレ・マウエ族は大人になるために凶暴な弾丸蟻(刺されると弾丸で撃たれたような痛みが走る)のたっぷり入った手袋をする。バヌアツのメラネシア人は通過儀礼としてバンジージャンプを行う。安全ネットなどないので、当然失敗したら死ぬわけだ。

 他にも、ハマル族の『牛の背渡り』、セピック族の『クロコダイル・マン』……。


 危険な儀式を見事通過したものには賞賛が与えられる。若者たちはそうして、大人として、ムラの一員として認められていく。

 流血。激痛。犠牲……そこからの再生。そうしたものが、通過儀礼には不可欠で、人身御供という所業も、同じような側面があるのではないか。


「若さとの決別、子供時代との別れ……だから生贄に選ばれるのは、うら若い女性が大半だったんじゃないかしら」


 これが教授の持論だった。勿論、『神と言うのは災害や疫病の比喩であり、それを鎮めるために生贄を捧げたのだ』と言うのが広く知られている通説である。しかし物事の効能や副作用と言うのは、必ずしも一面的とは限らない。


 羊は黙って祭壇を見つめ直した。話を聞いた後だと、心なしか、黒いシミが血の痕に見えてくる。


 流血。激痛。犠牲……そして再生。

恐怖体験の共有。

世界各地に見られる、時に死を招きかねない危険な通過儀礼。


 白羽の矢が立った家の子は生贄として神に捧げられる……人身御供にも、ある意味チキンレースのような、度胸試しのような側面もあるのだろうか。


  『心の臓

   猛きその味

     神のみぞ』


 帰りには博物館近くの露店に寄って、全員でソフトクリームを食べた。民宿に戻る頃には、全員この俳句のことなどすっかり忘れてしまっていた。この時は、まさかこんな歌になぞらえた殺人事件が起きるなど、夢にも思っていなかったのだ。

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