最終章-19 少しお付き合い頂きますよ、伯母上


 襟の厚い外套をきっちり羽織り、いかにも遠出しますといった風情で、馬車に乗り込もうとする公爵夫人の姿があった。彼女が足に使うのはもちろん、慣れ親しんだ自家の立派な馬車である。


 ――扉が開かれると、馬車の中には、意外な人物が待ち構えていた。自然体で座席に腰を下ろしているようでいて、どこにも隙がない。だというのに相変わらず不思議なほど優美な姿である。


「――少しおつき合いいただきますよ、伯母上」


 甥っ子のアルベールが穏やかな口調でそう告げると、公爵夫人はピクリと顔を強張らせた。踏み込みかけていた足がピタリと止まり、一瞬および腰になったようだが、公爵夫人ともなるとさすがに肝も据わっている。素早く体勢を立て直し、複雑に顔を顰めながら、辛口に問い返すのだった。


「あなたは罪人として、拘束されているはずでは?」


 その声はいつものようにドスが利いていて、聞きようによっては不機嫌そうな声音だった。


「逃亡中です」


 アルベールは後ろ暗いことなど何もないというふうに、ゆったりと答えた。まるで『これからオペラを観に行くところです』とでも語っているような調子である。


「おやまぁ、やってくれたわね」


 伯母はフンと鼻を鳴らし、口の端を歪めると、覚悟を決めた様子で馬車に乗り込んだ。


 公爵夫人に続いて馬車に乗り込もうとしていたベイツ夫人は、このありえない事態に困惑を隠せない様子であった。車中の二人を覗き込みながら、


「――あの、私、遠慮しましょうか?」


 と気後れしたように声をかけている。


 今、夫は目の前にいる青年アルベール・ランクレの件で、追加調査に追われる身だ。アルベールという従者は、昨夜つまらない懐中時計を一つ盗んだかどで、公衆の面前で拘束された話題の人物である。


 アルベールはほかの重要な犯罪にも関与していた可能性があるとして、夫はその証拠を集めている最中らしい。――昨夜はその証拠集めの一段階目で、ヴァネル邸の家宅捜索という思い切った手を打ったわけだが、残念ながらそれは空振りに終わっている。犯罪の証拠は何も出てこなかったのだ。


 家宅捜索をしようと進言し、強引にそれを押し進めたのは、ヴァネル伯爵の親戚筋にあたるジャンであったから、夫があとで責任を取らされることはないと思うのだけれど、どうせあそこまでやったのなら、何か出てこなくては格好がつかなかったというのが、正直なところである。


 ――おかげで今日、夫はとんでもなく機嫌が悪い。


 普段夫がストレス発散に使っているジャンが、なんと昨夜から行方知れずになっていることも、それに拍車をかけていた。夫は心配するどころか、『あの恥知らずな若造を、国に帰ったら絞首台に送ってやる!』と顔を真っ赤にして怒り狂っていた。


 夫が色々大変な時だというのに、妻の自分がこんなふうに出歩いていてよいのかという気もしなくもない。けれどこうして出歩く気になったのは、お世話になっている公爵夫人から『気晴らしに遠出しない?』と誘われて、断り切れなかったという事情があった。


 公爵夫人のほうだって、弟のヴァネル伯爵邸が家宅捜索され、悩みは尽きないはずである。しかしそんな時こそ気晴らしが必要だというのが、彼女の考えらしかった。


 ――遠慮しましょうか? というベイツ夫人の問いかけに対し、


「いいえ。人目につきますから、まずは馬車に乗ってください」


 とアルベールが彼女を促す。


 ベイツ夫人は気が進まなかったものの、車中にいる公爵夫人からも乗るように促されてしまえば、『私は結構です』とは言えなくなってしまった。


 馬車に乗り込み、夫人の隣席に腰を下ろす。ベイツ夫人が着席したところで、馬車が走り出した。


「――今回、伯母上には、かなり振り回されました」


 アルベールが小さく溜息を吐き、公爵夫人を静かに見つめた。彼の美しい青灰の瞳には珍しく疲れが滲んでいたが、そこに怒りの色はなく、むしろ終わりを迎えつつある現状に、感じ入っている様子があった。


「『女神像』――あれに始まり、あれに終わる、ですね」


「勝利の女神かしらね」


 公爵夫人のほうは、年の功なのか落ち着き払っていて余裕があった。その口角は片方だけが奇妙なほどに上がっていた。彼女が時折見せる、皮肉げな笑みである。


 アルベールが手のひらを上向きにして差し出し、


「例のエメラルドの首飾りを、お戻しいただけますか?」


 と丁重に頼んだ。


「私にくれないかしら」


「お金に困っておられるので?」


「まぁそうね、困っているというほどのこともないけれど、ランクレ家の詐欺事件の穴埋めで、出費がかさんだわ。弟が大部分を出したように伝わっているけれど、実際のところはね、私もかなりの額を出したのよ。――色々マズい事情もあって、公表はしていないけれど」


 噂とはあてにならないものだ。伯母が語った内情は、近しい者はなんとなく察している事実だが、世間には広く知られていない。重要な真相は秘められていることが多く、大抵のものは表に出てこない。


「ご主人には内緒で、お金を出したのですか?」


 アルベールが尋ねると、伯母はこれ以上隠しごとをする気はないのか、素直に答えた。


「当然よ。夫はそういうところ、厳しいの」


「ご主人も気づいていらっしゃると思いますが」


 伯母はふたたびフンと鼻で笑った。


「かもね。彼はすべて知っていて、それでいて気づいていないフリをしているのかも。だけどそれなら私は、なかったことにできるから」


 そう語りつつも、伯母はバッグからベルベットの箱を引っ張り出し、せっかちな手つきで蓋を開いて、中にエメラルドの首飾りが納まっているのを、甥っ子に確認させた。それから後ろ髪を引かれる様子で、首飾りをうっとりと見おろしてから、はぁと溜息を吐き、とても残念そうにアルベールに返したのだった。


 これらのやり取りをじっと眺めていたベイツ夫人は、戸惑いの色を隠せなかった。


「――ねぇ、どういうことなの? それってアルヴァ殿下が盗まれたと騒いでいるものじゃないの? 夫はそれを取り戻すために、ずっと必死だったわ。気がおかしくなるほど追い詰められていた」


 アルベールはまるで気に留めた様子もなく、あっさりと答える。


「あれは狂言です。王子殿下の」


「どういうこと?」


「もう回りくどい話はやめましょう。――あなたが犯人ですね」


 そう言ってアルベールは、ベイツ夫人を真っ直ぐに見つめた。その瞬間、空気が凍りついた。


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