最終章-18 彼は私に嘘をつかない


 ――同時刻、早朝。


 うな垂れるジャンが、ヴァネル邸のサロンにて、どんよりした空気を撒き散らしていた。イヴはその向かい側のソファに腰かけ、姿勢を正して考えを巡らせている。


 ちなみにベイツ卿は家宅捜索を終えてしまったので、今は一番街にある高級ホテルに滞在しているそうだ。さすがにヴァネル家をここまでコケにしておいて、そのままここに留まれるほど、恥知らずではなかったらしい。


 あの怒りんぼう虫が出て行ってくれて、イヴとしては肩の重しが取れたような心地だった。


 ジャンがナメクジのようにウジウジしているので、鬱陶しく感じて、風通しを良くするために、サロンの大窓は開け放してあった。この部屋は薔薇園にほど近いので、昨日彫刻家が納品していった、美しい淑女の像がここからよく見える。


 考えてみれば、あの像は、この屋敷に運ばれたおかげで難を逃れたのね。イヴは感慨深い気持ちになった。――納品があと一日遅かったら、あの薄汚れたアトリエで石塊と化していたはずである。


 イヴは呑気に彫像のことを考えていたのだが、ジャンのほうはこの沈黙に耐えられなくなったようで、『もういっそ殺してくれ』と呟きを漏らしてから、懺悔を始めた。


「犯人を捕まえる唯一のチャンスを、僕はふいにした。とんでもない大馬鹿者だ」


 ジャンは今朝方まで公園で気絶していたから、犯人には『手記』を探す時間がたっぷりとあったわけだ。ジャンは目が覚めてすぐに彫刻家のアトリエを訪ねた。場所についてはあらかじめアルベールから聞かされていたのだ。


 彫刻家本人はまだ出勤していないようで、不在であったが、廊下に面した窓から中を覗き込んでみて、あらゆる彫像が破壊されている光景を見ることとなった。


「――どうして昨夜、取引現場に一人で行ったりしたの?」


 イヴは至極もっともな疑問を口にした。自分も一人で鉄砲玉のように飛び出して、アルベールに会いに行ったくせに、他人のこととなると辛辣である。特にジャンに対しては、評価が厳しめになる彼女だった。


 ジャンはジャンで、機会さえあれば、すぐに言い訳を始める。


「あの人は一人で来るはずだと思ったんだ。昨夜の僕との取引は、手下には任せられない重要なものだった。大昔の詐欺事件について記した手記が、もしも本当に存在するのなら、犯人は絶対に他人に見られたくないはずだ。――それにきっと、身内に対する情のようなものもあると思っていた。僕は相手に誠実さを期待してしまったんだ。きっと対面すれば、良心の呵責から、何かを語ってくれるんじゃないかと。実はあの人も長いあいだ苦しんでいて、近しい関係の誰かに話を聞いて欲しいと、心の底では願っているんじゃないか。そんなふうに安易に考えてしまった。――僕は甘かったよ」


 彼は苦しそうに、途切れ途切れに語り、最後は口元を引き結んでしまった。


 イヴは温度を感じさせない凪いだ瞳で彼を見つめ、そして静かに告げた。


「あなたは決定的なチャンスを逃したわ」


 彼女の率直な物言いに、ジャンは自嘲気味に笑みを漏らす。


「そうさ」


 そう呟いたあと、自らの愚かしさがあまりに滑稽に感じられ、可笑しくなってきた。――どうしようもないな。もう、どうしようもない。


 ジャンは眉尻を下げ、泣き笑いのような顔で言う。


「今回の件では、犯人を現行犯で捕らえる必要があった。黒幕が『ランクレ子爵の手記』を手に入れようと接触してきたら、我々はその瞬間を押さえなければならなかったんだ。――ならず者たちを雇って、違法な方法で『手記』を手に入れようとした、その事実が状況証拠となるから」


 ――黒幕は『女神像』を壊した瞬間、中身が空であることを悟った。けれどそれでも安心できなかったのか、目についた像を、念のためすべて破壊していったようだ。手荒な真似をするものだが、万が一ということを考えたのかもしれない。


 そもそも『女神像』の中には『手記』など入っていなかった。――それはそうだ。詐欺事件について告白した文書があるのなら、もうとっくの昔に世に出ていておかしくない。そんなものはなかったから、大昔にランクレ子爵が主犯という形で、事件は幕を閉じたのだ。


 黒幕はこれで、自らを脅かす証拠などどこにもないのだと気づいてしまった。ずる賢い犯人だから、もう二度と尻尾を掴ませないだろう。ジャンは髪を掻きむしってうな垂れた。


 ――彼が公爵家の女主人である伯母のことを怪しいと思い始めたのは、つい最近のことだった。イヴにも以前告げたが、伯母上のここ最近の行動は、まったくもって不合理であり、どうかしているとしか思えなかった。伯母上はよほどお金に困っていたのだろうか。


 そういえばランクレ家の醜聞が起こった際、彼女はかなりの資金を、詐欺被害者への補填に投入したと聞いている。表向きはヴァネル伯爵が大部分を肩代わりしたことになっているが、実際のところは、公爵夫人も半分以上は身銭を切っているという話だった。これは親戚筋しか知らぬ事実だろう。


 彼女は補償の際に、自分の名前を出すのを嫌がったそうなのだが、それはきっと後ろめたい何かがあったからで、それでも金を出したのは、被害者をなだめて事件を早期決着させたいと願ったからではないのか。


 それに伯母が黒幕だったなら、自分が巻き上げた金を被害者に戻すだけの話だから、融通も比較的容易だったはずだ。すでに使い込んでしまった分もあったので、結局、弟のヴァネル伯爵にも援助してもらうことにしたようだが。


 つらつらと考えごとをしていたジャンは、今度は自らの行く末を想像し、さらに肩を落としてしまった。


「僕の将来はお先真っ暗だ。もう希望の欠片もない」


 ひたすら落ち込むジャンに対し、イヴは意外にも、


「そうかしら」


 と声をかけたのだった。ジャンと違い彼女のほうは、まるで負け犬の目をしていない。


 彼女の堂々とした態度を見て、ジャンは唖然としてしまった。自分だけが蚊帳の外にいるような、奇妙な違和感を覚える。


 イヴは毅然とした態度を崩さずに、ジャンに告げた。


「アルベールは私に『今日、決着を着ける』と言ったの。彼が私に嘘をつくはずがない。彼がそう言ったのだから、今日中に決着が着くはずよ」


 子供みたいな言い草だなと、ジャンは顔を顰めてしまう。


「なんなんだい、その変な理屈は」


「彼は『できない』ことを『できる』とは言わない人だわ。だから私には分かっているのよ。彼は今、公爵家の馬車に乗り込んでいるはず」


 きっぱりと断言するイヴは、これに全財産かけたって構わないというような、迷いのない瞳をしていた。


 ジャンは彼女と血が繋がった従兄妹同士であるはずなのに、互いのあいだに存在する、埋めようのない大きな溝を自覚した。ジャンはイヴのことをまるで理解できないし、イヴもまた、こちらの気持ちを理解することはできないだろう。


 ――そのことを少しだけ寂しく思った。


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