最終章-13 お前あとで殺す
アルベールはヴァネル邸の敷地から裏通りへと押し出され、そこに停まっていた馬車に押し込められた。
いかにも安物の飾り気のない馬車だが、造りだけはしっかりしていて、窓は鎧戸で覆い隠されている。そしてご丁寧にも、柄の悪い屈強なゴロツキまで呼んである始末だった。
アルベールは不機嫌そうにジャンのほうを振り返った。
「こんな暑苦しい見張りまでつけることはないだろう。僕が暴れるとでも思ったのか」
そもそも今夜たまたま起きただけの懐中時計の盗難事件で、見張り役つきの護送馬車がすでに裏門に用意されているだなんて、誰が見たっておかしな事態である。
ジャンは後ろめたいのか、視線をスッと逸らした。その代わりとばかりに、ここから途中参加した、三下感丸出しの大男が場を仕切り出した。
「――無駄口を叩くな、いいから早く座れ!」
アルベールはすでに着席していたので、この台詞はむしろ味方であるはずのジャンに向けられたものだろう。大男からすると、雇った人間は別にいるので、ジャンに遠慮するつもりはさらさらないようである。それどころかお上品なボンボンは黙っていろというような、いささか乱暴な考えに囚われているのかもしれなかった。
その暴力的な気配と高圧的な物言いにあてられて、お坊ちゃんのジャンは慌ててアルベールの向かい側に腰を下ろした。大男の隣なので大層居心地が悪そうだ。
馬車が発車したのと、大男が口を開いたのが、ほぼ同時だった。
「お前の父親が残した手記はどこにある? オークションにかけられる予定だった、例のものだ」
これは普通に考えれば、まったくもって不可解な台詞であった。――しかしアルベールは落ち着き払った表情で、じっと大男の粗野な顔を見つめ返した。
「亡父の手記とはなんのことだ。僕はカルネ婦人の懐中時計を盗った容疑で、しょっ引かれているんだろう?」
アルベールがそう言うと、沸点の低いゴロツキがいきなり彼の端正な顔を殴りつけた。全力とまではいかないが、丸太のような腕が振り下ろされたので、アルベールの身体が衝撃で横に飛んだ。馬車の囲いに肩がぶつかって、やっと止まる。
アルベールは優美な眉を顰め、思わず舌打ちをした。それからいやにゆったりした動作で姿勢を正すと、
「……お前、あとで殺す」
それはそれは冷たい目で、ジャンのほうを見つめながら呟いたのだった。殴ったゴロツキではなく、ジャンのほうに言うあたりが、なんというかアルベールらしい。彼からすると、端からゴロツキなど眼中にないのだろう。
髪が少し乱れて、言葉遣いが昔のように乱雑になると、途端に十代の奔放だった頃の気質が色濃くなる。冷たい視線なのに、どこか妙に艶っぽいというか、ジャンはこういう時のアルベールが、なんだかとても苦手なのだった。
――とにかくアルベールがわりと本気で怒っているのを悟ったジャンは、真っ青になり、ゴロツキをいさめた。
「おい、やめろ、僕はこういう荒事が嫌いなんだ」
「自分でこんなやつを雇っておいて、何を言っているんだ」
アルベールが早口に文句を言ってくる。
――いや違うんだ。違うんだが、今それを言い訳するのも、おかしな話で――などと考えているジャンをよそに、ゴロツキが出しゃばる。
「俺は、このお坊ちゃんに雇われているわけじゃねぇ。もっと金払いのいい御方に使われているんだ」
ふぅん、というように、アルベールが瞳を瞬いてジャンを一瞥する。――ジャンのサプライズ的な仕込みかと思っていたら、違ったらしい。
飛び入りの小汚い大男と馬車に詰め込まれて、実はアルベールはかなり苛々していたのだ。このゴロツキの相手をしても、なんの得もなさそうだし。――というのも、この程度の小物だと、どうせ黒幕とは直接繋がっていないと思われるからだ。『金払いのいい御方に使われている』とこいつは言ったが、それすらも使い捨ての仲介者にすぎないだろう。このゴロツキを締め上げても、おそらく何も出てこない。
アルベールは考え込んでいるし、ゴロツキは許可していないのに好き勝手に話し出すしで、中だるみというか、なんだかおかしな空気になりかけているので、ジャンは注意を自分に向けようと声を張った。
「と、とにかく! お前の大事なイヴはこちらで拘束しているんだ。君次第だぞ。素直に吐けば、イヴには何もしない。とぼけるつもりらしいから、噛み砕いて言う――ランクル家の醜聞――あの詐欺事件の黒幕について、君の父親がどこかに真相を書き記しているという噂がある。本当なのか?」
これに対し、アルベールは嘘を言うつもりもなさそうであったが、かといって素直に答える気もないようだった。温度の感じられない瞳で、じっとジャンを眺めている。
ジャンは隣に控えている荒っぽいゴロツキの圧に押されて、額に汗をかきながら身を乗り出した。
「早く、手記のありかを言うんだ! それをある人が欲しがっている! お前にとってはもう、なんの意味もないものだろう――それが今更出てきたところで、お前の父親の罪が、綺麗に消え去ったりはしないのだからな。だがそのメモが公開されたらどうだ? 立派な名士として通っている、ある方の未来が潰れてしまうんだ。いいから隠し場所を言うんだ、アルベール!」
――皮肉にも、ジャンの言葉には、幾らかの真理が含まれていた。ランクレ家の醜聞として広く知られたあの詐欺事件に、実は黒幕が存在したのだと今更公になったとして、それをもって、アルベールの父の評判が回復するだろうか?
いや、そんなことは万に一つもあるはずがない。ランクレ子爵が生前、薄汚い犯罪に手を染めたのは、動かしようもない事実だからだ。
むしろ手先だったと判明することで、より小物感が強調されるだけのような気もした。悪事に手を染める時ですら、彼は半端者だったのだと、かえって人々の笑い者になるだけだろう。
――何を思うのか、アルベールはジャンの説得には耳を貸さず、しばらくのあいだ口をつぐんでいた。するとゴロツキが痺れを切らしたのか、イヴのことを話題に上げて、アルベールを煽り始めた。
今回の急ぎ仕事で、大男はイヴと接触する役割にはつけなかったのだが、かの令嬢を遠目で見て、『震えが走るほどのいい女だ』とずっと思っていたのだ。野郎ばかりの運び役になってしまったことが、残念でならなかった。
「――あの胸のでかい綺麗な姉ちゃんを連れて来て、裸にひん剥いて、尻を叩いて、お前の目の前で辱めてやってもいいんだぜ? 気が強そうな娘だが、一つ二つ殴れば、大人しくなるだろう。お前がそうやって強情を張れば、俺はあとであの娘っ子にしつけをしてやる楽しみができるのさ」
そう語る大男の顔は恍惚として締まりがなく、見るに堪えないものだった。アルベールを脅すつもりというよりは、自らの妄想を楽しんでいる気配があった。
――頭の中でイヴを穢す男を前にして、アルベールの顔から表情が抜け落ちた。
彼のことをよく知らない人間が見たら違いが分からないだろうが、アルベールが過去最高に気分を害しているのが、ジャンには感じ取れた。カンニング事件の時でさえ、こうはならなかったように思う。機嫌の悪い彼の前にいるだけで、抜き身の剣を突きつけられているような心地になり、正直ぞっとした。
「も、もうやめてくれ……本当に」
情けないことに、声が震えてしまった。この馬車の中で、ジャンが一番神経が参っているようだった。言葉少なに制止するのがやっとで、あとはモゴモゴと口籠ってしまう。
アルベールがここでやっと口を開いた。
「――ペンを出せ」
ジャンが内ポケットからペンと手帳を取り出して渡すと、アルベールがそこに流れるような筆跡でメモを取る。
ジャンが内容を確認するために、手元に頭を突っ込んで来たのが不愉快だったのか、彼は口頭でもそれを伝えた。
「手記は『女神像』の中だ。これをお前の雇い主に渡せ」
そして書いた手帳とペンを、ジャンのほうに放り投げるようにして返した。ジャンは書かれたページを素早く破り取り、ポケットから封筒を取り出して、そのメモを中に納めた。
そうしてやるべきことを終えると、もうここにいるのは一瞬たりとて耐えられないとばかりに、ジャンはすぐさま馬車を停めて、その場で下りてしまった。
移動していたので、ここがどこかも分からないし、辻馬車が拾える場所かどうかの計算もしていない。とにかくあの空間から出たい一心だった。
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