過去編-6 あなたが好きなの
「――イヴ、おいで」
声に不思議な引力を感じた。振り返るとそこには、騎士服を身に纏ったアルベールが佇んでいた。手を差し伸べるようにして、真っ直ぐにイヴを見つめている。
何も考えられなかった。見えない手で心臓を鷲掴みにされたみたいに、すべてが彼に絡め取られて、駆け足で彼の懐に飛び込んでいた。
「アルベール!」
瞳を輝かせて彼を見上げると、アルベールは静けさの中に愛情を込めて受け止めてくれる。
――なんとなくだけれど、彼の纏う雰囲気が変わったような感じがした。
一年前、当時十八歳だったアルベールは、大人になりかけている途上であり、どこかにまだ少年らしさが残っていた。けれど今目の前にいる彼は、以前よりも深みが増したというか、大人っぽくなった。――骨格自体はさほど変化していないように思われるのに、どうしてだろう?
不思議には感じたけれど、それよりも会えた喜びのほうが勝った。イヴは笑みを浮かべて彼に縋る。
「どうして? 帰って来るのは明日だと思っていたわ」
「乗り継ぎが上手くいって、さっき戻れたんだ。屋敷に向かう途中で、通りを歩く君を見かけた。すぐに馬車を降りて追いかけたんだけど、途中で見失って」
なるほど。イヴはここへ来る時は気が急いて早足になっていたし、この人混みの中だ。むしろ見失ったあとで、よく見つけ出したなと思う。
アルベールは口元に笑みを浮かべてイヴの髪を撫でたあと、露店前まで彼女をエスコートした。
「――これが欲しいの?」
傍らのイヴを見おろして尋ねてくる。――ちなみに先程の男性は、アルベールが登場してイヴが彼に飛びついたのを見た瞬間、やれやれと肩を竦めて去って行った。
問われたイヴは頬を赤らめ、こくりと頷く。
「では、一組ください」
カップルにしか売らないというやり取りを聞いていたのか、彼はお店の決めたルールどおりにペアで品物を購入した。詫びがてら代金を多めに払って品物を手に入れたアルベールは、それを彼女に渡してやり、人混みから連れ出す。
アルベールはすらりと背が高く、相変わらずハンサムで、おまけに騎士服を着ているものだから、通りすがりの若い女性が、惚けたようにぼうっと彼を眺めていた。夢見心地なのはイヴも例外ではなく、こうして隣に彼がいるのがなんだか信じられない。
広場の端まで来ると、人があまりいなくて静かだった。二人は向かい合い、しばしのあいだ再会を喜んだ。
「アルベール、いつも素敵な手紙をありがとう。もらうたび、何度も読み返しているの」
熱が出てつらかった時も、彼からもらった手紙を眺めると、『大丈夫、乗り越えられる』と勇気づけられた。彼の几帳面で優しい筆跡が好きだったし、さりげない気遣いが心に染みた。言葉の選び方にはいつも感心させられたし、ただただ笑顔になれた。まるで彼が近くにいて、お喋りしているのを聞いているような気持ちになれた。
「届いたばかりの絵葉書も、嬉しくて持って来ちゃったのよ」
バッグから葉書を取り出してみせ、恥ずかしそうに早口に告げるイヴは、頬が赤く染まっていて、とても可愛らしい。アルベールは優しく瞳を細めて、そんな彼女を見つめていた。
「――大人っぽくなりましたね。一年前はまだ、女の子という感じでしたが」
不意に彼の口調が変わった。慈しむような声音はそのままだが、丁寧になったぶん、なんだか心の距離が開く。
「自分では気づかないわ。毎日見ている顔だから」
イヴは彼に言われたことを不思議に思った。自分では変わったという自覚がなかったし、むしろイヴは彼に対して、まったく同じことを考えていたからだ。
「しっかり自覚すべきですよ。こんなふうに侍女をつけずに出歩くのは、感心できません」
このお説教には心底驚いた。口調は穏やかであるが、彼の纏う厳かな空気から、本気でこの行為をよく思っていないのが伝わってきたからだ。
「アルベール、あなたいつから私の父親になったの? あなた、前は、私に悪いことを教える役割だったわ」
際どい物言いだが、イヴは無自覚だった。彼女のほうには、彼を挑発するつもりは微塵もない。――だって、元々アルベールは品行方正なタイプではなかったし、お転婆なイヴを大人が叱ったとしても、彼だけはいつもかばってくれていたのに。
「あなたが心配だからです」アルベールが少し困ったようにイヴを見おろす。「次からはこっそり抜け出さないで、必ず私を伴うようにしてください」
「伴うって、だってあなた」
そばにいないじゃない、と言い返そうとして、その意味に気づき目を見張る。
「――え、屋敷に戻るの? 騎士団は?」
「やっと一区切りつきました。一人前とはまだいえませんが、お嬢様の従者として務め上げられる水準には達しましたので、これからはずっとおそばに」
突然の展開についていけない。――そもそも彼は出会った日のことを、まだ覚えていたの? 馬鹿げた賭けをした結果、彼は『一生君に仕える』と誓ってくれたけれど、あれを本気で言ったと誰が信じるだろう? 冗談とまではいわないけれど、病気の子供を元気づけるための、悪気のないリップサービスくらいに考えていた。
イヴのほうは彼にそんなことをさせるつもりはなくて、あの時あんなに必死だったのは、今思えば子供のヒステリーに近かったのだと思う。――どうしてあなたは自分の価値に気づかないの? 素敵な人なのに、自分で自分を駄目にしている――そんなふうに腹が立って仕方がなかった。思い詰めたイヴは暴走し、それを彼にぶつけた。
何度も死にかけた経験があったから、現実感も希薄だったのだと思う。だから本気で彼にぶつかることができたし、平気ですべてを賭けることができた。
そのあとに、アルベールが自分の進むべき道を決めて、騎士団に入ると言ってくれて嬉しかった。……どうしてあんなに嬉しかったのだろう? 自分のことでもないのに。
――初めは共感したのだと思う。彼には危なっかしいところがあり、それがイヴを惹きつけた。大人びて露悪的で、謎めいている彼を見ていると、どこまでも落ちて行きそうで、なんだかこちらまで不安になった。不安になったのはたぶん、自分の中にも、彼と同じものが眠っているような気がしたから。
そのまま落ちて行きそうなのに、彼はギリギリのところに留まっていた。あのバランス感覚は天性のものだろうか? 何をしていても、消しようのない清潔感がある。
そして彼には良いところが沢山あった。――皮肉屋なのに意外に真っ直ぐなところだとか、落ち着いた声音で面白いことを言うところだとか、綺麗な鼻梁や顎のラインだとか、挙げていけばキリがない。とにかくすべてが好ましく感じられて、それである時ふと気づいた。
――ああ、そうか。彼が好きなんだ。好きだから、彼の良いところをすぐに探し出せる。
大好きな彼には自由に生きて欲しいと思った。能力をすべて発揮できるような、彼に相応しい場所で咲いて欲しい。――だからこんなはずではなかった。彼をそばに置きたいわけじゃない。
イヴは困り果て、じっと彼の瞳を見返すのだけれど、そこに揺るぎない意志の強さを感じ取ってしまい、頭の芯が痺れた。存在も、能力も、すべてが圧倒的だった。イヴよりもアルベールのほうがずっと優れている。
そんな彼がイヴの従者になると決めてしまった。どうしたらいいのだろうか? 分からない。けれど一つはっきりしているのは、イヴがどんな答えを出そうが、きっと彼は自分が決めたとおりにするし、それを止める力が今のイヴにはないことだった。
言葉も出ないイヴを見おろし、アルベールがくすりと笑みを漏らす。
「――知りませんでした。お嬢様がこういったおまじないを信じるタイプだとは」
からかうようなその台詞に、目を丸くしてしまう。話題が従者の件から逸れたことで、イヴのフリーズがやっと解けた。
「私だって誰かに憧れることもあるわ」
「そうなのですか。意外です」
ええと、それって、アルベールの中でどんなイメージなの? もしかして色気が足りないと思われている? 反発心が芽生えるのと同時に、『彼に自分のことを理解して欲しい』という、不思議な高揚感も覚えていた。
彼が買ってくれた恋のおまじないが今確かに手の中にあって、『勇気を出してみたら?』と背中を押されたような気がした。
彼の複雑な出自を考えれば、様々な葛藤があったことだろうし、この四年、彼が積み重ねてきた努力は、想像を絶するものだろう。彼は多くを語らなかったけれど、血反吐を吐くような研鑽を重ねなければ、こんなふうに素敵な青年にはなっていないはずだ。そんな彼が、従者として仕えると言ってくれた。
だから素直に気持ちを伝えたいと思った。
「――あなたよ。私はあなたが好きなの」
頬が熱い。
この告白はアルベールにとって予想外だったのか、彼の青灰の瞳に驚きの色が浮かんだ。やがて佇まいを直した彼は、真面目な顔でこちらを見おろして、静かに告げた。
「私はあなたのものです。あなたに命じられれば、命も断ちます。――ですが、お気持ちには応えられません」
イヴは茫然として彼を見上げた。『女性として見ることはできない』と言われたのなら納得できる。けれど彼は『あなたのものです』と真摯に告げてくれたのに、この気持ちを受け入れてはくれない。
「……どうして?」
「私は恋をしない。隣には並べないけれど、あなたに私の一生を捧げます」
なんて残酷な人なのだろう。いっそ冷たく捨ててくれればいいのに。胸が引き裂かれるように痛む。
――けれど彼を見つめ返せば、誠実で、あたたかな、イヴの愛した人がそこにいる。彼の瞳はただ真摯に、イヴだけを映していた。
だから意識して背筋を伸ばし、微笑んでみせる。――上手く笑えているかしら?
「分かったわ。今後、あなたを困らせるようなことはしないと誓う。――私のこの気持ちは引き出しの奥深くにしまって、決して開けないようにするわ」
イヴは彼を愛しているからこそ、彼に縋らなかった。
***
それからの二年、イヴはアルベールと侍女のリーヌを伴い、あちこちを旅して回った。
身体は健康を取り戻していたし、淑女として正しい生き方をまっとうする気なら、すぐにでも母国に帰るべきであった。しかし父母の元に戻ってしまえば、否応なく、窮屈な貴族社会に組み込まれてしまう。
アルベールに断られた時に、イヴ自身は幸せな結婚を諦めていたので、それは別に構わなかった。いずれ政略結婚はしなければならない身だ。けれどその前に、できることはすべてやっておくつもりだった。
イヴは貴族の娘だ。領民に対し責任を持たねばならないし、こうして生き長らえることができたのだから、なんらかの形で社会の役に立ちたいという気持ちもあった。隣国で見聞を広めることは、将来の役に立つだろう。
そしてイヴには別の責任もあった。アルベールに――愛した彼に、もっと外の世界を見せなければ、という責任が。一時のことかもしれないが、彼がイヴをあるじと認めてくれた。ならば自分が狭い世界に閉じこもっていては、彼の可能性を潰してしまうことになる。
せめて数年、できれば自分が二十歳になるまで、自由な時間が欲しい。もう少しこの国にいたい。もっと深く学びたい。
婚姻をおろそかにするこの生き方は、良家の子女としては望ましいことではないだろう。自国に戻ったあとで、後ろ指をさされることになるかもしれないということを、イヴは正しく理解していた。
けれど彼女はとっくに覚悟を決めていた。だって仕方ないじゃない。――イヴは自分らしくあることを、どうしてもやめられないのだ。
***
過去編(終)
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