過去編-4 溺れる者は
「私が思うに、あなたがすべきなのは、従兄(ジャン)と喧嘩をすることよ」
芝生に並んで腰かけ、他愛もない会話を交わすうちに、イヴはすっかり大胆になっていた。十年来の友人に対するようにアドバイスしてみたら、彼は冷たい目でこちらを一瞥し、
「ここを追い出されたら、僕は行くところがない」
と硬い口調で返してきた。イヴの言動はずいぶん生意気であったと思うのだが、アルベールは本気で腹を立てた様子もなかったし、彼女を怒鳴りつけたりもしなかった。
それが分かっていたからこそ、イヴもここまで距離を詰められたのだと思う。彼女はどちらかといえば人懐こい性分ではあったけれど、誰かれ構わずズケズケいくタイプでもなかったからだ。
「ゴロツキとつるんでいたのに?」
彼は怪しげな賭博場に入り浸っていたと聞いている。その事実を思い出させるように指摘してやったら、アルベールは悪びれもせずに、サラリとそれを受け流した。
「あれは気の迷いだ」
もう迷いを脱却したような口ぶりですけど、絶賛まだ迷子中のように思うのですが。
「女遊びをした?」
こんなことを訊くつもりはなかったのだが、彼の大人っぽさにあてられて、つい馬鹿なことを尋ねてしまった。アルベールくらい顔が綺麗なら、一生女性に食べさせてもらうことだって可能だろうと、下世話な考えが浮かぶ。
「したと仮定するなら、彼女たちのほうが僕で遊んだんだろう」
それじゃ答えになっていない。だけど彼らしい答えだった。はぐらかしているというよりも、至極どうでもよさそうな、気にも留めていないような口調なのだ。そして事実、彼にとってはどうでもよいことなのだろう。
イヴは少し考えてから、建設的なことを提案してみた。
「行くあてがないなら、私が面倒見てあげる」
さすがにこの言い草には、アルベールもイラっとしたようだ。イヴ自身も、『なんて傲慢な物言いだろう』とすぐに反省したくらいだったから、言われたほうはたまらなかったに違いない。けれどこれくらい言わないと、彼の本気は引き出せないような気もしていた。
「僕にも選ぶ権利はあるよね」
彼の返答はずいぶんなものだった。――何よ、そりゃあこちらは年下で痩せっぽっちだし、胸もペタンコだし、生意気だし、まるきり眼中にないのは分かるけれど、そんな言い方ってないじゃない。イヴはむっとしてさらに言い募る。
「じゃあ、私をテストしたらどう?」
「そうだな、じゃあ――五番街のロジェという店に行って、一番キツい酒を一瓶飲みきることができたなら、一生君に仕えてあげるよ」
冗談半分な軽い口調だった。それなのにイヴはなぜか、そのミッションを見事クリアできたならば、彼が本当に言うことをきいてくれそうな気がしていた。
――なぜだろう? そんな保証なんてどこにもないのに。
「クリアできたか確認するため、あなたも一緒に行く?」
「いいや。今夜君は誰にも気づかれないよう屋敷を抜け出して、一人で酒場に行くんだ。ただしロジェは客層が良くないから、気をつけて。――人攫いに遭っても、責任は持てないよ? これは度胸試しでもあるんだ」
「ギャングの通過儀礼のようなものね。いいわ」
イヴは悪くない取引だと考え、さっと腰を上げた。途端に少し立ちくらみがして、意識して足に力を入れる。
――考えてみると、彼を探して歩き回ったり、肌寒い屋外でお喋りに夢中になったりしたので、少し体調を崩したのかもしれなかった。けれどこんなふうに時間を忘れて何かに熱中したのは本当に久しぶりで、イヴは我ながら可笑しく感じたのだった。
***
――その夜、アルベールはイヴ・ヴァネルと交わした馬鹿馬鹿しい約束のことなど、すっかり忘れていた。まだ幼い彼女が一人で盛り場に行くわけがないと、高を括っていたのだ。
そもそもの話、この屋敷から大通りに出るためには、川を渡る必要がある。しかし防犯上の観点から、夜間は吊り橋が上げられてしまうので、許可がなければ敷地外に出ることすら叶わない。
あの鼻っ柱の強いお嬢様も橋が上がっていることを確認すれば、気勢が削がれてすごすご部屋に戻って来るはず。賭けを持ちかけた時は、そんなふうに軽く考えていた。
――夜半を過ぎ、晩餐をすっぽかしていたアルベールは、小腹が減ってしまい台所に向かうことにした。果物でもくすねて食べようかと考えていると、廊下の先が妙に騒がしいことに気づいた。
なんだろうと考えていると、長年この屋敷に勤めているメイドのリーヌが、大慌てで駆けて来る。彼女は自分の親くらいの年代のはずだが、いつも落ち着きがない。気取りがなく、裏表がない人間なので、アルベールはリーヌのことがなんとなく好きだった。
「どうかしたの?」
呼び止めると、普段は人を食ったようなとぼけ顔をしているあのリーヌが、目を血走らせてこちらを見る。
「お嬢様が川に落ちたの!」
リーヌの声は上ずって掠れていた。
――なんだって? アルベールは我が耳を疑った。
彼女の声はボリュームが馬鹿になったみたいに、クレッシェンド気味に跳ね上がっていく。
「吊り橋が上がっているのに、あの子、無理に川を渡ろうとしたのよ! 庭師の子が助け出してくれたから、溺れずに済んだけれど、ああ、なんてことかしら」
そんなことを話していると、庭師の子供が廊下の奥から近づいて来た。躊躇いがちな足取りだ。十歳くらいの赤毛の子供で、鼻と頬には素朴にソバカスが散っている。
「――大丈夫か?」
尋ねると、少年は怯えたように顔を上げ、おずおずと頷く。
「どう、落ち着いた? 小屋に戻れる?」
リーヌが前かがみになり少年を気遣った。庭師親子は確か、敷地外れの小屋に住んでいたはずだ。
子供はきゅっと顎を引き、ふたたび小さく頷いてみせる。
「お嬢様を助けたんだもの、偉いわ」
「川が浅かったから……僕が助けなくても、お嬢様一人でも、抜けられたと思う……えっと」
混乱しているのか、子供らしくクシャリと顔を歪ませ、黙り込んでしまう。そのままアルベールの脇を通って去ろうとしたので、思わずその子の手を掴んで引き止めていた。
十歳くらいの子供であっても親の手伝いをしているせいか、その手は皮が固く、荒れていた。そのカサついた冷たい手を取り、アルベールは床に膝をついて、子供の目を真正面から覗き込んだ。
「ありがとう。ゆっくり休んで」
少年は心細そうにこちらを見返し、ただ小さく頷いてみせた。
***
夜分にレディの部屋に入るのはどうかと思ったが、アルベールは扉を開けてそっと室内に足を踏み入れた。
まだことが起こったばかりなのだろう。びしょ濡れのドレスは木製の椅子に引っかけられたまま放置されている。雫が床にポタポタと垂れるさまは、ただ眺めているだけで寒々しい。
ベッドのほうに近寄ると、イヴは赤い顔をして、ぼんやりとこちらを見返してきた。熱がかなり上がっているのが、顔を見ただけで分かった。
「板を川に渡してね、岸の向こうに行こうとして、落ちたの」
子供のように訥々と彼女が語る。アルベールはベッドの端にそっと腰かけ、小さな声で詫びた。
「君を酷い目に遭わせるつもりはなかったんだ。――ごめん」
カンテラの灯りの中、俯くアルベールの顔は少し陰り、苦悩が滲んでいる。昼間よりもずっと静かで、どこか憑きものが落ちたようにも感じられるのに、彼の瞳はなんだか切羽詰まって見えた。
だからイヴは、彼を元気づけるように笑ってみせた。
「いいのよ。私、近頃だいぶ元気になったけれど、調子に乗るとほら、こんな有様なの。いつ死んでもおかしくないのよ。――だけど心残りが一つあるわ。あなたに言われた度胸試し、ドジってトライできなかった」
イヴはこれまでお酒を飲んだことがなかったので、実際に酒場に行けたとしても、条件を達成できたかどうかは怪しいものであるが、それはそれとして。
「もう十分だよ、僕の負けだ。一生君に仕えると誓う」
彼の言葉は穏やかで、どうしようもないくらいに優しかった。――それは寝込んでいるイヴを前にしての、罪悪感だろうか? いずれにせよなんだって構わない、とイヴは思った。
「本当に?」
「ああ。だから早く良くなって」
アルベールは少し躊躇ったあと、イヴのサラサラな髪を撫で、かがみ込んで、彼女の額にそっとキスを落とした。それから元気づけるように、彼女の手を握る。イヴの指はしっとりと濡れていて、熱を孕んで、芯から溶けていきそうなほどに熱かった。
「……余計に熱が上がったわ」
イヴはパチリと瞬きをしてから、はにかんだような笑みを浮かべたのだった。
***
――数日後。
台所のテーブルを挟み、リーヌの対面に腰かけていたアルベールは、差し出されたミルクティーを手に取った。
リーヌはリンゴの皮を器用に剥きながら、独特の皮肉めいた瞳で、チラリと彼を見据えた。こういう表情をしても、なんとも小気味良く映るのだから、不思議な人である。
そういえば彼女には気性のそっくりな娘がいるらしいのだが、その子もこんなふうにリンゴの皮剥きが得意なのだろうか。確かその子も手先がとても器用で、リーヌの髪は娘が結っているのだと、以前聞かされたような気もする。
「あのね。――白状するけど、お嬢様が川に落ちたって話、あれ嘘なのよ」
おもむろにリーヌがそんなことを言い出した。あっけらかんとした口調である。
「……どうして今になって、正直に打ち明けようと思ったんですか?」
そうする意図が分からず、アルベールはただただ困惑してしまう。
「あなたって一度こうと決めたら、発言をひっくり返さなそうだから、言ってもいいかなと思って。だってもうお嬢様の従者になるのを決めたわけでしょう?」
悪びれもせずとは、こういう態度をいうのだろう。ユーモラスな顔つきでペロと舌を出すリーヌを眺め、アルベールのほうは毒気を抜かれてしまった。
「ええ、まぁ」
「だったら真相を話しておくほうが、フェアかなと思ったのよ。――だけどあの子もなかなか根性が座っているわよね。川に落ちたというのは狂言だけど、あなたを騙すために、服の上から水をかぶったのよ? この寒いのに、信じられる? 身体が弱くて、今にも死にそうな健康状態なのにさ。実際、それで死にかけたし」
喋りながらでも、器用に皮を剥くものだ。彼女のナイフ捌きをぼんやり眺めながら、アルベールはイヴのことを考えていた。――リアリティを出すために、実際に水をかぶったのだとすると、ずいぶん無茶をする。あの夜から彼女は体調を崩し、一週間以上も寝込んだ。ここ数日はやっと体調も良くなり、起き上がって歩けるくらいにまで回復しているが、それは結果論でしかない。
アルベールは青灰の瞳を窓の外に向け、しばらくのあいだ考えごとをしていたのだが、やがて日差しの眩しさに瞬きを一つしてから、リーヌに向き直った。
「実は、狂言だというのはあの時すぐに分かったんです。庭師の子供の服が、まったく濡れていなかったから。――川で溺れているお嬢様を助けたというのなら、子供のほうだって、手元や足元くらいは濡れていないとおかしいでしょう? それにイヴ自身、髪はほとんど濡れていなかった。手は湿っていたので、服を着たまま水をかぶったのだろうと思いました」
リーヌはぴたりと皮剥きの手を止めて、アルベールを上目遣いに眺めてきた。
「……どうして嘘だと分かっていたのに、あなたは折れることにしたの?」
「彼女の計算高さが、面白いなと思ったんです。――それに、あの目が」
アルベールの言葉が不意に途切れる。大切な何かを探しあぐねているようで、それでいて答えはもうとっくに出ているというような、そんな顔をしていた。
「目が、何?」
「死を覚悟していた。僕にとってはどうでもいいような賭けだったけれど、彼女は本気なのだと分かった。――だから僕は、彼女を信じることにします」
そう告げると、リーヌは少し呆れたように、それでいて面白そうにニヤリと笑った。アルベールも肩の力が抜けた笑みを返す。
彼はここぞという賭けで、これまで負けたことがなかった。――そんな彼の勘が、イヴにすべてを賭けろと告げていた。
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