5-B 『年下の男』


 お嬢様に新しい編み込みの形を提案してから、髪結いのマリーはいつもの雑談に移った。


「お嬢様は多くのお見合いを経験なさいましたね。毎度不実な男ばかりだから、こうなったらもう、無垢な赤ちゃんとお見合いしたらどうでしょう?」


 イヴは思わず苦笑を漏らし、小さく首を横に振ってみせた。


「さすがに相手が赤ちゃんではね。――ああ、でも、九歳の男の子とお見合いしたことはあったわ」


「えっ、九歳? 十九歳ではなく?」


 マリーの驚きはイヴもよく理解できる。だってイヴ自身もその話が持ち込まれた時、伯母さまは頭がどうにかしてしまったのだろうかと訝しんだのだから。


「おそらくあれは、伯母さまの脅しだったのね。――いい加減どこかで妥協しないと、罰としてこういう相手を送り込みますからね、という」


「ヤクザなやり口ですねぇ」


 マリーは一周回って感心した様子である。


「その男の子と対面した時に、彼は私の目を見てこう言ったの――『僕たちには年齢上の問題がありそうです』と」


 イヴは当時を思い出しながら、九歳児童との縁談の顛末を、語って聞かせることにしたのだった。




***




「聡明そうな男の子だったわ」


 イヴがそう述懐すると、


「いとけない少年がお相手では、今度ばかりは困った事態にならなかったでしょう?」


 マリーが櫛を持った手元から目を離し、チラリと悪戯めかした視線でイヴを見遣った。


「そうねぇ」


 イヴは微かに眉を顰め、しばらくのあいだ黙り込んでいた。やがてはぁと疲れたような溜息を吐き、含みのある返答をする。


「確かにその縁談では、死人は出なかったわね」


 ――あまりに縁談で人が亡くなるもので、お嬢様の判断基準はすっかりおかしくなってしまったらしい。死人の有無で悲惨度を測るようになったら、人としてもう終わりのような気がする。


 とはいえまぁ、相手の年齢層が下がったことで、今回の話は幾らか安心して聞けそうである。


「少年との縁談かぁ。なんだか微笑ましいですね。シロツメクサの花冠をその子が作って、お嬢様の頭の上に乗せて『どうか僕のお嫁さんになってください』と言ったりして? そんなハートフルなエピソードが聞けるといいけれど」


 能天気なマリーとは対照的に、イヴは遠い目をして何事か考え込んでいる。しばらくしてから小さく首を横に振り、話を再開した。


「その子の屋敷はかなり遠方にあったの。日帰りは難しいということで、私はアルベールと侍女のリーヌを連れて、そちらのお屋敷を訪ねることにした」


「アルベールさんはどんなご様子でした?」


 いつもそうだが、マリーはアルベールの様子が気になって仕方ないらしい。編み込みの難しい部分に取りかかっていた彼女であるが、チラチラと顔を上げ、好奇心を隠せずにいる。


「彼はなんだか思い悩んでいる様子だったわ。道中もぼんやりしがちだったから、私は彼にどうしたのかと尋ねてみた」


「あら、珍しい。どんな相手でもやり込めてきた彼らしくないわ」


「そうなの」


 いつもアルベールがなんとかしてくれるので、彼に頼り切っていたイヴは、なんだか不安を覚えたものだった。


「彼はこう答えた――『相手のお屋敷に着いたら、一切気を抜かないでください』と。この警告を聞いて、私はとても驚いたわ」


「何を警戒していたのでしょう?」


「それがよく分からなくて」イヴの瞳が微かに揺れる。「縁談が持ち上がると、アルベールはお相手の家柄や評判を徹底的に調べ上げるのだけれど、今回は特に悪い噂は出てこなかったそうなの。けれど出発の直前になって、気になる噂を聞きつけたらしくて」


「どうしてすぐに情報を入手できなかったのでしょうか? アルベールさんがそんなふうに後手後手に回るのは珍しいことですね」


「その噂というのが、ちょっと特殊だったものだから」


「どんな噂です?」


「年頃の娘さんがお屋敷に滞在すると、翌日には人が変わったようになってしまうのですって。とてもデリケートな内容だから、娘さんの親御さんも内密にしたがったみたい」


「人が変わったようになるって、どういうことでしょうか」


 マリーの困惑がさらに深まる。そしてそれはイヴも同じだった。当時の戸惑いが思い出されて、眉根が寄ってしまう。


「ある令嬢は精神を病んで長期療養に入ったというし、別の令嬢は出奔し行方知れずになっているとか」


「まさか、ご当主に無体な真似をされたとか?」


 脂ぎった中年男が若い娘を手籠めに……なんてことを想像して、マリーのすっと通った鼻梁が歪む。嫌悪感を丸出しにするマリーを、イヴは困ったように眺めた。


「ところがね、そちらのお屋敷のご当主はすでに亡くなっていて、四十過ぎの個性的な雰囲気の後妻と、前妻とのあいだにできた九歳の男の子の二人だけしかいない」


「使用人は?」


「昔から仕えている穏やかな人ばかりよ。皆老齢で、教育はきちんと行き届いているし、おかしなことは起こりそうになかった」


「なんとまぁ」


 脳をフル回転させて考えを巡らせていたマリーは、しばらくしてある結論に達した。


「分かった! 犯人は後妻さんだわ! 若い令嬢にトラウマを植えつけるほどの、悪逆非道な行いをしたんじゃありません? ――たとえばその若さを保つため、処女の生き血を飲んでいたとか?」


「まるでホラー小説ね」


 イヴは苦笑を漏らした。


「でもそうね、確かにその女性はどこかおかしな感じがしたわ。キャンディーの包み紙みたいな、派手な色調のドレスを身に纏っていらしてね。その姿はまさに狂気そのものだった。それになんだかとっても騒がしい性分の方で、人の話を聞くよりも、自分の言いたいことをすべてまくし立てないと気が済まないという様子だった。顔立ち自体は整っている女性でしたけれど、なんというかネジが飛んだような佇まいだったわね」


「お坊ちゃんのほうは、理知的だとおっしゃっていましたよね?」


「継母とは血のつながりがなかったから、当たり前の話だけれど、親子はまるで似ていなかった。――彼のほうは金色の髪に藍色の瞳をした、それはそれは綺麗な少年だったわ。目が合うとその子は、瞳を微かに細め、照れたように微笑んでくれた」


「天使ですね。そのぶっ飛んだご婦人と違いすぎる」


「私はその子の将来が心配になってしまったの。風変りな継母と一緒にいることで、賢い彼の未来が閉ざされたりしないだろうか、と。――とにかく、かなり変わった女性で、彼女は晩餐の最中に、おかしな頼みごとをしてきたのよ」


「一体、どんな?」


「私が連れて行った侍女のリーヌを、一晩貸してくれないかしら、と言うの」


「どういうことですか?」マリーが思い切り顔を顰めている。「招いた客の侍女を借りたいだなんて、そんなおかしな話をこれまで聞いたことがありません。それも数時間ではなく、一晩中?」


「この屋敷には夫の霊が出るんです――彼女はどこか思い詰めた様子で、そう語り始めた。なんでもね、夜な夜な夫が枕元に現れて、語らっていくのですって。死者とつながりを持つことが恐ろしくて仕方ないのだと、彼女は本気で怯えていたわ」


「そんなまさか」


 一瞬ポカンとしたマリーであったが、話が繋がったとばかりに、その瞳をハッと見開いた。


「じゃあ、宿泊した女性がおかしくなったのは、幽霊のせい? 神経の細い女性だったら、恐怖体験のあとに病んでしまうのも納得だわ」


「私も似たようなことを考えた。継母の様子がおかしかったのも、そういった心労が重なったせいかもしれないと」


「お嬢様は幽霊を信じているのですか?」


「どちらともいえないわね」イヴは小首を傾げてみせる。「ただ、継母の怯えは演技ではなく本物だと思った。――話を聞いてみれば、その方、旦那様を亡くして心細くて仕方なかったらしいの。それで自分と年齢の近いリーヌを見て、話し相手をして欲しくなったのですって。最初は常識外れに感じられて、あまり良い印象は抱かなかったのだけれど、少し話してみると、なんていうか――寂しそうな女性だと思ったの。それでリーヌ本人が『別に構いませんよ』と言うので、私もそのお願いを受け入れることにした。もしかするとリーヌのほうは、ただ幽霊見たさで引き受けたのかもしれなかったけれど」


「それで、どうなりました?」


 ――確かその縁談では、人は死んでないという話だったわね。マリーはごくりと唾を呑み込む。


「アルベールは珍しくピリピリしていて、『何かあったら、大声で私を呼んでください』と言うのだけど、彼にあてがわれた部屋は階が違ったから、叫んでも無意味じゃないかしら、と思ったの。けれど彼があまりに心配するもので『そうするわ』と約束して、私は部屋に入った。長旅の疲れもあって、ベッドに横になると、すぐに意識が落ちて――そして夜も更けた頃、ゴソゴソと足元のほうで何かがうごめく気配がした。ベッドがきしむ音がして」


 ひぃ、とマリーが首を竦め、恐ろしそうに身体を震わせる。怪談話がよほど苦手なようである。


「足の甲に冷たい手が触れ、絡みつくような動きで握り込んできたので、意識が急激に引き戻された。ふと気づけば上がけは剥がされていて、寝間着のドレスは膝上までたくし上げられていてね。ふくらはぎを撫でる手は、スルスルと上がってくる。私は一気に跳ね起きた」


 当時のことを思い出したのか、イヴの顔色が悪い。いつの間にか早口になっていて、恐怖や怒りがその声音に滲んでいた。


 マリーのほうは全身総毛立たせ、今や息をするのもやっとの様子であった。


「足元を見おろすと、ギラギラと光る、獣のような二つの瞳があった。シーツに沈むように低い位置にあったそれは、こちらを射るように見上げてきたわ。そしてその小さな影がさらに迫って来た。私の剥き出しの太ももに、舌が絡みついてきて、強く吸い上げてくる。肌の表面に走った痛みとそのおぞましさに、私はありったけの声で叫んでいた」


「――小さな影?」


 マリーが茫然と呟きを漏らす。――それじゃあ、まさか?


「すると突然扉が開き、アルベールが飛び込んで来た。彼は私のあらわになった素足と、足のあいだに蹲る人影に気づき、激高して帯剣していた剣柄に手をかけた。――彼の怒りは凄まじかった。守られているはずの私も、身体が硬直しかけたくらい。だけどアルベールを人殺しにするわけにはいかなかったから、私は慌ててベッドから飛び降りて、彼に縋りついたの」


「ええと、その、一応確認ですが、お嬢様を襲ったのは、あの」


 マリーが言い淀むので、イヴは説明が足りていなかったことに気づいた。当時の混乱が思い出され、気が急いてしまっていたようだ。


「犯人は九歳の男の子よ。あの子の狡猾で欲望に満ちたあの瞳が、今でも忘れられない」


 あの子ははっきりとした意思を持って、イヴの身体をまさぐっていた。イヴが飛び起きた際に『酔っていたはずなのに』と小さく呟きを漏らしたのが、こちらの耳にも確かに聞こえた。――気まずい晩餐を紛らわすために、イヴは大量のワインを飲んでおり、旅の疲れもあってぼんやりしていたので、何も知らない人間から見ると、したたかに酔っていたように見えたのだろう。だからあの少年は、イヴが目を覚ますはずはないと考えていたのだ。


 アルベールが『このクソガキ殺してやる』と乱暴に吐き捨てるのを聞き、イヴは背筋がぞくりと震えた。彼がここまで抑制を失うのを見たのは初めてのことで、昔から彼をよく知るイヴでさえ、空気に呑まれて身体が固まってしまったほどだった。


「剣に手をかけている彼の右手に飛びついて、体重をかけて柄ごと押さえつけようとするのだけれど、彼は殺気立った空気のまま私を見据えて、『退いてください』と凍えるような声音で言い放った。私は彼が本気なのだと悟った。『殺しては駄目よ、九歳の子を手にかけるだなんて、大変なことになる』そう懇願してみたけれど、彼は『邪魔しないでください』と止まりそうにない。――だから、私」


 前のめりに語っていたイヴが、ふと我に返ったように動きを止めた。そして瞬きを一つ。彼女は謎めいた瞳でマリーを見遣った。


「――じゃあ仕方ないから、私がやるわ、と彼に言ったの」


「ちょっと、お嬢様?」


 マリーの問いかけは悲鳴のように響いた。イヴは眉尻を下げて『落ち着いて、大丈夫だから』と頷いてみせ、話に戻った。


「彼の手を払うようにして、私が剣の柄を握り込むと、アルベールが動揺したのが伝わってきた。あの時の私の目はほとんど据わっていたと思うわ。だって本気だったもの。それで強引に剣を引き出そうとすれば、彼は怒りをやっと収めてくれて、いつもの落ち着いた彼に戻った。――そうして背後を振り返ってみれば、少年はあまりの恐ろしさに腰を抜かしていた。お漏らしをしたらしくて、ベッドは濡れていたわね」


「おやまぁ」


 マリーは呆れ果てて言葉もない様子。


「あとで分かったことだけれど、あの子はとても早熟で、夜な夜な継母に性的な悪戯をしていたようなの。晩餐の際に彼女が口にする酒に、こっそり眠り薬を混ぜた上でね。――継母が言っていた『夫との語らい』というのは、世間話とかではなくて、つまりその、夫婦間で行う」


 イヴは言い淀んでしまった。年齢的に(おそらく)終いまでいたしていたわけではなさそうだが、かなり際どい行為まではしていたようだ。


 ――少年の好みは、継母くらいの四十近い女性だった。けれどもっと歳若い令嬢が泊まった際にも、同様の悪戯を繰り返していたらしい。


 つまりあの子が最初に告げた『互いのあいだにある年齢の問題』とは、『九歳の自分からすると、二十歳のイヴは年を取り過ぎている』という意味ではなく、『イヴではまだ若すぎる』という意味だったのだ。


「けれどアルベールさん、どうやってそんなに早く駆けつけることができたんです? 寝泊まりしている階が違うのに」


「ああ、それはね」イヴが肩を竦めてみせる。「彼は私のことが心配で、扉のすぐ外で、寝ずの番をしていたのですって。まさかあのいたいけな少年がそんな欲望を抱えているなんて、さすがのアルベールも予想はしていなかったようだけれど、屋敷に着いてからずっと嫌な感じがしていたそうなの。――それはどこかネジが外れたような奥方の態度だったり、幽霊が出るという戯言のせいだったりしたのかもしれない。彼は扉前に張りついていたのだけれど、あの子はバルコニーのほうから忍び込んだものだから、アルベールは私の悲鳴が上がるまで、中で何が起きているのか分からなかったのよ」


「そのあと、その子はどうなりました?」


「こちらに戻ってから、アルベールがなんらかのけじめをつけたようだけれど、詳しくは知らされていないわ。――相応の処分を下した、としか彼は語らなかった」


 死んではいないのは確かだ。とはいえアルベールは、あの子を子供として扱わなかった。女性に悪戯する男は社会の脅威だと、静かに憤っていたのだから。


「相応の処分、ですか。――普段穏やかな人が怒ると怖いって言いますからね。何をしたのかは、聞かぬほうがよさそうです」


 マリーがしんみりした様子で、そんなふうにしめくくった。




***


 年下の男(終)


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