4-B 『年上の男』


「お嬢様、今日のお茶会は、お年を召した方が多く参加するんですよね?」


 髪結いのマリーが鏡越にイヴの瞳を覗き込み、尋ねる。


「でしたら、少し保守的なスタイルになさいますか?」


 そう問いかけるマリーの声は少しハスキーで癖があり、耳に残る。彼女の声が好きだから、イヴは耳を傾けているだけで、口元に笑みが浮かんでしまうのだった。


「そうね、お任せするわ」


「お年寄りって、先鋭的なものが嫌いですものね。――ただ考えようによっては、型さえ守っていれば多少のことは大目に見てくれますから、チョロイといえばチョロイですけれど」


 ――ずいぶんな毒を吐くわね。イヴは少し顎を引き、考えを巡らせてから、笑み交じりにマリーの黒い瞳を覗き返す。


「あらマリー、歳を取ったからといって、皆が保守的になるとは限らなくてよ?」


「そうですか? 私はこれまで、お年寄りに驚かされた経験ってありませんけれど」


「私は大分年上の男性にとても驚かされたことがあるわ。――といっても相手は三十ほど上の男性だから、まだお年寄りというには若い年齢だったけれど」


「お嬢様が今二十ですから、三十上っていうと……その方は五十くらい?」櫛を動かしながらマリーが小首を傾げる。「その男性って、ご親戚か何かですか?」


「いいえ」イヴは頭を揺らさないよう注意しながら、それを否定した。「その方は私の縁談相手だったわ」


 イヴは髪型ができ上がるまでのあいだに、その男性との縁談がどんな結末に至ったかを、話して聞かせることにしたのだった。




***




「僕たちには年齢上の問題がある――初顔合わせの際、お相手の男性が私に向かってそう言ったの。当時彼は五十二歳だったと思う。見た目が若いというわけでもなく、年相応だったわね。恰幅のよい、大柄な方だった。髭が濃くてね。そして、そう――大きなお腹のおかげか、声量があったわ。よく響く素敵な声をしていた」


 記憶を辿りながらイヴが見合い相手の特徴を語ると、何事に対しても率直に物申す主義の髪結い娘が、おかしな点に突っ込みを入れた。


「お嬢様は若くて、お綺麗で、資産家で、相手はよりどりみどりのはずなのに、今回はずいぶんな悪条件じゃございませんこと? どうしてそんな三十も上の男性との縁談が持ち上がったんです?」


「伯母さま経由よ、もちろん。――私が思うに、あの頃は立て続けに縁談が壊れていたから、伯母さまは業を煮やしたのではないかしら。きっとわざと『外れ』を押しつけて、『これ以外ならもう、なんでもいい』と思わせるのが狙いだったのよ」


 五十過ぎの男性が悪いわけではないが、瑕疵のない伯爵令嬢のお相手としては、やはり条件は良くないといえるだろう。それにお相手の男性は、性格が良いだとか、機知に富んでいるだとか、そういった人間的な魅力を持ち合わせていなかったのだ。ただ財産と美声くらいしか取りえのない方だった。


「そのお話が舞い込んで来た時、アルベールさんはお怒りになりませんでした?」


 イヴは考え込んでしまった。右手を頬に当て、軽く眉を顰める。


「うーん、よく覚えていないわ。確か彼は当初、『無』の状態だったと思う」


「無、ですか?」


 マリーが目を丸くする。


「ええ、そう。一周して何かを越えたというか、思考を放棄してしまったみたい。あまりにもありえない相手だったから、かえってどこから突っ込んでいいものやら、って気分だったのかもしれないわね。――ただ、彼が受動的だったのはお見合いが始まるまでで、実際に対面してからは、色々思う所も出てきたみたいだけれど」


「……な、なるほど?」


 マリーはアルベールの当時の心境をなんとか理解しようと頑張ってみたのだが、彼の複雑怪奇なそれを推し量ることは、自分には到底不可能であることを悟った。


 イヴは当時の見合い相手とのやり取りを思い出しながら、ポツリポツリと続きを語る。


「会ってすぐにその方がおっしゃったの――『レディ・イヴ、あなたは二人のあいだにある年齢という問題について、どうお考えですか?』と。それに対し、私は答えた――『感性が合えば、大抵の問題は乗り越えられそうです』と」


「問題は解決できそうでしたか?」


「それがねぇ」イヴは困惑したようにゆったりと瞬きした。「とにかくお相手の男性は、終始過剰なまでに年齢のことを気にしていたのよ」


「それはお嬢様が若く美しい女性だから、自分みたいなおじさんが相手では、と申し訳なく思ったのでは?」


 イヴは含みのある笑みを浮かべ、艶めいた視線を鏡越しに送る。


「だけどね、彼はこんな調子だったのよ。――『相手の外見、特に年齢的な特徴が自分の許容範囲からかけ離れている場合、結婚を考えるのは難しいでしょう?』――そんな台詞と共に、なんだか憐れみを込めた視線で、こちらを眺めたの」


「なんとまぁ」マリーは目を丸くする。「言い方に棘があるというか、神経を逆撫でされたのは私だけでしょうか? ――きっとその男性、同年代の落ち着いた女性が好みだったんですね」


 マリーは一旦言葉を切り、ふぅと小さく息を吐いた。


「男性は幾つになっても若い女性を好む傾向にあるので、逆というのは珍しいといえば珍しいかもしれませんね。女性に歳相応の落ち着きを求めるというその価値観、私個人としては嫌いじゃないかも。――それでお嬢様はなんと答えたのです?」


「本心を述べたわ」とイヴ。「年齢的な特徴で人を線引きするというお言葉には、どうにも賛同いたしかねます。人は放っておいても年を取っていきます、大切なのは中身ではないですか?」


「それに対し、お相手はなんと?」


「お嬢さん、人生は儚い」イヴは声音を器用に変え、彼の物言いを可能な限り再現してみせた。「僕は今現在を大切にしたいのです。十年後、十歳年を重ねるとか、そんな先のことを、今は到底考えられません。それにね、男性は視覚から入る情報を重要視する生きものなのですよ。女性は口をつぐんでさえいてくれれば、男は相手の中身など気にしませんから――彼はそう言って、大きな声で笑い飛ばした。ええ、そうよ――彼は私の存在を軽んじて、つまらない小娘みたいに笑い飛ばしたの」


 イヴは激することもなく、当時のことを回想する。彼女にとってもあれは取るに足らぬ出来事であったし、その場で多少不快に感じたとて、目くじらを立てるほどのことでもなかった。


 ――けれどどうやら、アルベールは違ったようである。


「その男性はせっかちですわね」マリーも呆れた様子だ。「十年ものんびり待てば、お嬢様の外見も好みに近づくでしょうに。今が大事だから、待つことはできないだなんて。まぁとにかく、失礼な男には違いありませんわね」


「お見合いは当家の庭園で行われたのだけれど、結果的にはそれでよかったのだわ。あの男のためにわざわざお洒落をして外出していたら、きっと私は腹が立ったはずだもの。紅茶をサーヴしていたアルベールが段々と気分を害していくのが、私には分かった。アルベールはずいぶん我慢をしていたようだわ。彼の瞳は、冬の湖面のように冴え冴えとしていた」


「アルベールさんはさぞかし見事な手腕で、その男をつまみ出したのでしょうね?」


 マリーの関心は『どうやってアルベールがその男を叩きのめしたか』に移ったようである。そう察したイヴはくすりと笑みを漏らした。


「いいえ? 実はね――そのあと私たちは四人でテーブルを囲み、実に有意義な時間を過ごすことになったのよ」




***




「最悪なスタートから、そのあと一体何があったっていうんです? しかも四人って?」


 展開についていけず目を回すマリーに、イヴが顛末を説明してやる。


「話しも噛み合わずに気まずくなってきた頃、一人の客人がやって来たの。彼女はとある男爵家の令嬢で、年齢は十四歳、黒髪が印象的な美しい娘だった。彼女は私の見合い相手に用があると主張した」


「ええ? 見合い現場に乱入ですか? しかも男爵令嬢が、格上の伯爵家に乗り込んで来た? なんとも常識外れな行いですねぇ。その子、姪御さんだったり――はしないか」


 なんとなく真相を察したのか、マリーが苦いものを呑み込んだような顔つきになった。


「もちろん姪御さんではなかった」イヴは頷いてみせた。「二人はつき合っていて、結婚を考えているのだと語った。それでやっと分かったの――彼は若い女の子しか愛せない人で、二十歳の私では、歳を取り過ぎているのだと」


「ですけど、十四の女の子だって、すぐに大人になってしまいますよ」


 それはそうなのだが、常識のない相手に常識を説いてみても、無駄以外の何ものでもないのである。


「――その子に特別な何かを感じたのかしら」


 イヴは瞳を伏せ、どこか妖艶な雰囲気をその身に纏わせながら語る。


「少女はやがて大人になる――だからその男性は彼女に会うまで、好みの年齢層の女の子とつき合っては別れ、つき合っては別れ、を繰り返してきた。けれどとうとう彼は運命の相手に出会ったのね。とにかく『今が』最高だから、先のことなどどうでもいいと思い切れるくらいには、その少女に惚れ込んでいるようだった」


「ですけど、そのお相手の子のほうは? 結婚の話が出ているということは、つまりは両想いなわけですよね? ということは、その娘は性癖的におじさんが好きなんですか?」


「彼女はアルベールを見るなり、色目を使い出したわ」


「うへぇ。普通に若い美形が好きなんじゃないですか。てことは五十のおじさんと結婚したいって、完全にお金目当てで、おっさんを騙しにかかってますよね。きっとその子、結婚したら若い男に金を注ぎ込みますよ」


「火を見るよりも明らかってやつね。その時のアルベールの対処は素早かったわ。誰もが見惚れるような完璧な笑顔を浮かべて、こう言ったの――『ここからは無礼講で行きましょう。お二人の力になりたいので、相席してもよろしいですか』と。彼がこんなふうに行き当たりばったりでグイグイいくのは珍しいことだったけれど、相手も相手でとても無礼だったから、私は喜んで彼を迎え入れたわ」


「アルベールさん、その男女をくっつけにかかったわけですね」


「ええもう、それは見事な手腕だった」イヴは嘆息を漏らす。「この国では十四から結婚できるから、年齢的な問題はない。――ただ、よくよく話を聞いてみると、二人の結婚の障害となっているのは、少女の母親だということが分かった。母親は娘に別の人をあてがいたいと考えていたみたい。けれど娘は贅沢ができると踏んで、うんと年上の彼と結婚したがっていた」


「十四にして立派な女狐だわ」


「――お忘れかしら? その男性は『女の中身なんてどうでもいい』って御方なのよ? だから二人は割れ鍋に綴(と)じ蓋、まさにお似合いのカップルだったの。アルベールもそう考えたようで、障害を乗り越える方法を懇切丁寧にレクチャーしてやった。二人は目から鱗の裏技を知ることができて、喜んで帰って行ったわ」


「ではすぐにゴールインして、終わりですわね。今頃お二人は甘々な蜜月を過ごしているのかしら? その男性は天にものぼる心地でいるのでしょうね」


 いずれ少女が年を取ってしまうとしても、少なくとも一年くらいは、男性の嗜好から外れないでしょう。そう考えながらマリーが問うと、イヴはどこか物憂げな様子で答えるのだった。


「そうね、彼は今、心安らかにしていると思う。――数か月前、中央公園の隣にある四番地に、居を移したと噂で聞いたもの」


 それは環境の良さそうな場所で……とマリーは惰性で頷きかけ、その意味に気づいて凍りついてしまった。え……中央公園の隣四番地って、そこは墓地ではなかったかしら?


 イヴが話を続ける。


「その少女は結婚してすぐに年上の夫を亡くし、未亡人となった。そして彼女はすぐに別の男を屋敷に引っ張り込んだらしいわ」


「それってどう考えても怪しいですよ。夫の死に疑わしい点はなかったのですか?」


 マリーは完全に殺人を疑っていた。


「よほど上手くやってのけたのでしょうね。彼女はいまだに裁きを受けていないのだから」


「神はいずこに」


 マリーはげんなりしたように天を仰いでいる。


「これはアルベールに聞いたのだけれどね」イヴはひっそりと言葉を紡いだ。「少女が引っ張り込んだその二十代の男性は、『早く籍を入れよう』と、しつこく彼女に迫っているんですって」


「新しい男とすっかりラブラブなわけだ」


「それはどうかしら」イヴはアンニュイに視線を彷徨わせる。「少女に愛を囁く一方で、男は彼女には内緒で、よそに恋人を作っているようよ。けれど少女はすっかり盲目になっているから、まさか自分が二股をかけられているだなんて、夢にも思っていないの」


「なんとまぁ、爛(ただ)れた関係ですねぇ」


「ほら、歴史は繰り返すっていうじゃない?」


 イヴは肩を竦めてみせる。


「いずれその少女の身にも何かの間違いが起きて、中央公園の隣四番地に、居を移すことになるかもしれないわ」


「そうなればある意味、亡くなった男性の悲願が叶うわけですね」


 マリーが哲学的な見解を口にする。


「男性は少女の成長を止めたかったわけだもの。もう少し待てばきっと、年若い妻が若い姿を保ったままで、同じところにやって来る。――そうして彼の望みどおり、女は喋る口すら失い、永遠に沈黙を守ることになる」


「――彼に褒めるべき点があるとすれば、善人を一人も巻き込まずに、人生に幕を引いたことかしら」


 イヴは湿っぽい話をそこで打ち切り、思い出したようにマリーに告げた。


「ああそうだ、あのエメラルドの首飾りを出してくれる?」


 普段突拍子もない行動を取りがちなお嬢様であるのだが、この気まぐれにはさすがのマリーも目を丸くしてしまった。


「お嬢様? 国宝級のあの宝石を、年寄りしか来ないただの茶会に着けていくおつもりですか?」


「言い忘れていたけれど、年寄しか来ないわけではないの。実は西の国の王子が同席するのよ」


「えー?」はしたない大声でマリーが叫ぶ。「本当に?」


「タイミングが上手く合ったものだから、出席することになったのですって。あれは西の国から贈られたものだから、せっかくだから着けていこうかと思って」


「お嬢様ぁ、そういうことは髪型を作る前に教えていただきたかった!」


「あら、あなたの仕事はいつだって完璧よ。それにクラシカルなスタイルでちょうどよかったの。宝石が浮かないから」


 イヴがそう答えた時、ノックの音がしてドアがさっと開いた。そちらに視線を向けたマリーは、


「あ……っと」


 いつもの調子でつい無礼講でいきそうになって、慌てて佇まいを正す。マリーは態度を改め、椅子に腰かけたイヴの耳元にかがみ、こう囁くのだった。


「ご主人様がいらっしゃいました」


「――可愛いイヴ、迎えに来たよ」


 名前を呼ばれたイヴは瞳を細め、にっこりと屈託ない笑みを浮かべて、椅子から腰を上げた。


 そうして訪ねて来たヴァネル伯爵の手にその手を重ねて、歩き始めたのだった。




***


 年上の男(終)



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