4-A お嬢様と賭け事


 負けられない戦いというものがある。


 リビングルームのソファに腰を下ろし、瞑想するように目を閉じていたイヴは、頭の中で計画をまとめ上げてから、パチリとその目を開いた。普段は退廃的でアンニュイな雰囲気の瞳が、いまや覚悟を決めたように鋭さを増している。


「――こうなったらもう、国一番の靴を買うしかない」


 イヴが静かにそんな宣言をしたので、傍らで彼女にブランケットを渡そうとしていたアルベールの動きが止まる。


「お嬢様? まるで敵討ちに出るような思い詰めた様子だから、一体何をお悩みなのかと思ったら、靴を新調する算段ですか?」


 微かに小首を傾げるようにした彼の、茶色の髪が陽に透けてキラキラと輝くさまを、イヴは無言で眺める。そして彼女は眉間に皴を寄せ、ブツブツと呟きを漏らすのだった。


「ええ、そうよ……(あなたにはどうでもいいことでしょうけれど)……私は今、とある令嬢に喧嘩を売られているの。そのご令嬢は、ダンスがとっても得意なのよ」


 イヴの口調はツンケンしていて、いつになく他人行儀である。小声で呟いた先の台詞『あなたにはどうでもいいことでしょうけれど』の部分は、心の声がうっかり漏れたのか、はたまた意図的に嫌味を口にしたのか、アルベールは判断に迷った。


「そのご令嬢は、もしかして」


 数日前、ある茶会で、赤髪のいかにも勝気そうな顔をした令嬢が、イヴに近寄り何か囁きかけたのを、アルベールは遠目で確認している。その時、イヴが呆気に取られて棒立ちになったので、あとで『何かありましたか?』と確認してみたのだが、イヴに『なんでもないわ』とはぐらかされたことがあった。


 イヴは基本的に気質がおおらかであるので、他人に対して理不尽に腹を立てることは滅多にない。にも関わらず、赤毛の令嬢に何か言われてから、イヴの機嫌が悪くなったので、アルベールも気にしていたのだ。あのご令嬢の素性は分かっているので、ここで名前を出して、きっちり確認しておこうかと考えたのだが。


「ああ、待って! それ以上言っては駄目よ、アルベール」


 イヴがそれを遮る。これにアルベールは怪訝そうに眉根を寄せたものの、あえて逆らうことなく話を元に戻した。


「ダンスが得意なご令嬢をやり込めることと、お嬢様が新しい靴を作ることが、どう関係してくるのでしょうか?」


「水が高い所から低い所に流れるがごとく、至極当然の成り行きじゃないの」


 イヴは一家言を語るていで、厳かに告げる。


「決闘に臨む際に、ボロボロの木剣と、美しく鍛え上げられた鋼の剣があったなら、あなたはどちらを手に取るの? って話よ。――私はね、ダンスの腕にはそこそこ自信があるのだけれど、短期間でこれ以上上達するのは、到底不可能だということを悟ったの。悔しいけれど、敵は私の上をいく。だから装備品を充実させて、実力以上の力を発揮したいと私は考えているの」


 イヴは恥ずかしげもなく、他力本願な駄目人間の理屈を披露した。正々堂々のガチンコ勝負では勝てるわけがないから、道具の力を借りて、どっこいどっこいのいい勝負まで持っていこうというのだ。なんとも姑息な考えである。


 これには、あるじに忠実なアルベールであっても、さすがに小首を傾げてしまう。――ダンスというものは踊りを楽しむものであったはずだが、いつから女性同士の決戦の場になったのだろう?


 しかし一方で、彼はちゃんとわきまえていた。――お嬢様がこういった盲目状態に陥った時に、横から野暮な突っ込みを入れるのは、大変危険であると。そこで彼は彼女の暴走を見守ることにした。


「――承知いたしました。それではミスター・マルカンをお呼びします」


 ミスター・マルカンは御年六十の靴職人で、仕事ぶりは確かである。彼の実直さ、温厚さも、仕事を頼む際は好ましく映る。


 しかしこれにイヴが異論を唱えた。


「いいえ、今回はあなたには仕切らせないわ」


「お嬢様?」


「私はこの世界で一番の靴を入手してみせる。もっとも軽やかに舞える、羽が生えたような靴をね。つまりはこういうことなの――私、こと、イヴ・ヴァネルは、今王都で一番人気がある靴職人――フランツ・ストラドリングに、仕事を依頼しようと考えているの!」


 イヴがそう高らかにそう宣言した瞬間から、アルベールはとてつもない面倒事に巻き込まれることになった。




***




 フランツ・ストラドリングは王都にその名を轟かせる一流の靴職人であるが、実際に会ってみると、まだ年若い青年であった。年齢は二十代後半くらいだろうか。飴色の柔らかそうな髪を後ろで一つに束ね、女性的といってもいいような、腺病質な面差しをしている。


 そんな彼がイヴを値踏みするように眺めて、こんなことを言ったのだった。


「――レディ、あなたがどんなに切羽詰まっているかは、理解できました。しかし当工房は、五年先までびっしり予約が埋まっています。あなたを特別扱いするわけにはいきません。たとえ山のように金貨を積まれたとしても、それが変わることはない」


 ストラドリングの靴工房を訪ねて来たイヴは、ゆったりと瞬きし、優雅な笑みを浮かべてこう切り返した。


「あら、ストラドリングさん。わたくし、お金で頬をはたくような、はしたない真似をするつもりはございませんわ」


「でしたら、どうなさるおつもりです?」


 ストラドリングは瞳をすがめ、愉快そうに口角を上げる。


「あなたからの依頼を割り込ませた場合、私は睡眠時間の大半を削られることになります。だってね、今お受けしている仕事の納期は破れないのですから」


「それはそうでしょうね」


 イヴは瞳を彷徨わせて考え込む。――正直にいえば、情熱のみでここに乗り込んで来たので、相手の都合については何も考えていなかった。


「私の想いは、先程お伝えしたとおりです。私はただあなたに靴を作ってもらいたい、その情熱しか持ち合わせていません。そんな訳ですから、あなたの心を動かす方法を、何も思いつきませんわ」


 もちろん相応の報酬は弾むつもりであるが、ズルをして横入をするために、大金を積むつもりはなかった。――どのみち、こちらがそのつもりであったとしても、ストラドリング自身が『それは受けつけない』と言っている。おそらくそういうやり口で、無理を通そうとする客が多いのだろう。


 ――ところでここにはイヴのほかに、従者のアルベールと、侍女のリーヌが同行していた。リーヌはイヴよりもずっと年上で、イヴの母親と同年代の女性である。口を閉じているとなんとなく取っつきにくい雰囲気なのだが、口を開くと、途端にガサツな印象に変わる。


 リーヌの瞳は物言いたげにストラドリングに据えられていた。内心では『まったく気難しそうなお坊ちゃんだこと』などと考えていた。


 一方のアルベールは凪いだような瞳をして、静観の構えを取っていた。――今回は先方の主張が100%正しいので、特に口を出すこともない。どうしても退けない交渉事ならば彼はとことんやるが、本件に関しては、そこまでしてストラドリングに靴を作ってもらう必要性を彼は感じていなかった。


 ヴァネル家とつき合いの長いミスター・マルカンならば、上質な靴を提供してくれるはずだ。だから今目の前にいる、この気取った靴職人におもねる必要などない。――お嬢様だって、こうもきっぱり断られれば、さすがに諦めるだろう。彼は楽観的にそう考えていた。


「――では、賭けをしますか?」


 靴職人がたくらむような笑みを浮かべたのを見て取り、アルベールは微かに眉根を寄せていた。一見すると優男のストラドリングが、獲物をいたぶるような気配を放っている。これによりアルベールの警戒心が一気に高まった。


 ところがイヴは呑気なもので、楽しげに微笑んで先を促すのだった。


「あら、こちらに都合の良い展開になったみたい。――お生憎様、私、賭けごとでは負け知らずですのよ」


「あなたのように鼻っ柱の強い女性が、私は嫌いではないですよ」


 ストラドリングは一線を踏み越えつつあった。ビジネスの空気感から少しばかりはみ出しかけている。


 アルベールのほうからなんともいえぬ刺々しい空気が漂ってくるので、侍女のリーヌは『おおっと』と呟きを漏らし、警戒するように細い顎を引いた。――こいつは雲行きが怪しくなってきたぞ、と考えながら。


 そんな中、ストラドリングが楽しげに告げた。


「二軒先に人気の大衆酒場があります。そこにはピエールというゴロツキが毎晩居座っているのですが、彼に飲み比べで勝つことができたら、仕事を受けてさしあげましょう。あなたがこの勝負を受けるというのなら、ピエールには私が話を通しておきますが」


「ストラドリングさん、あなたきっと、後悔することになるわよ」


「その言葉、そっくりそのままお返しします」


「私に最高の靴を作るために、準備をしておいてくださいね」


 イヴは酒豪なので、飲み比べ対決は望むところだった。対戦相手がどんな大男であろうとも、正直、負ける気がしない。それにこの勝負、負けた時のリスクが提示されていないので、イヴにとっては旨みしかなかった。


 ――ところが、である。この勝負に水を差したのは、イヴの一番の味方であるはずのアルベールだった。


「お嬢様、いけません」


「あら、どうして?」


 イヴは器用に片眉を上げてみせた。もらったも同然のこの勝負、ここで捨ててしまうのは馬鹿げている。


「大衆酒場で飲み比べなど、とんでもない話です。大切なお嬢様にそんなことをさせられません」


 アルベールの意見を聞き、侍女のリーヌはここぞとばかりに頷いてみせた。


「そうですわ、お嬢様。ここは私が代理で、飲み比べ勝負に挑みましょう」


 リーヌもまたかなりの呑兵衛である。酒が飲めるぞと、舌でペロリと唇を湿すリーヌ。そんな彼女を見て、ストラドリングがピシャリと撥ねつけた。


「酒に強い使用人が出しゃばるのは、認めませんよ。飲み比べ勝負に参加できるのは、レディ・イヴのみとさせてください」


 イヴは見た目こそホステス感が強いが、(胸以外は)華奢であったので、身体の構造的にアルコールの分解能力に限界があるのではないか――ストラドリングはそんなふうに考えたわけである。彼は明らかにイヴを侮っていた。


 一方、この火遊びのような浮ついた空気を嫌った男がいた。アルベールは気分を害していた。


「拒否します。お嬢様が飲み比べをすることは、認められません。というより大衆酒場に出入りすること自体がいけません。――勝負をするなら、私が」


 馬鹿な、とストラドリングがこの提案を一蹴しようとする前に、イヴがさっと立ち上がり、これに激しく抗議した。


「冗談でしょう、アルベール! あなたはそこらにいる子供よりも、お酒は弱いじゃないの!」


 ――そんなに酒が弱いくせに、この男は飲み比べ勝負を買って出たのか? ストラドリングは呆気に取られた。


「強い弱いの問題ではありません」とアルベール。「とにかく、私が」


「アルベール、邪魔しないで」


 二人が火花を散らすのを前にして、ストラドリングはこの喧嘩を遮る。


「分かりました。では、アルベール殿の参戦を認めましょう。その代わりレディは参加権を失いました。――彼が勝負したほうが、私の睡眠時間は確保できそうですからね」


 自信満々なイヴの様子からして、彼女はかなり酒に強いらしい。万が一にも底なしの蟒蛇(うわばみ)であるピエールに勝てるはずもなかったが、勝率を上げておくに越したことはないだろう。


「そんな、酷いわ!」


 イヴが眉尻を下げて抗議するのを眺めながら、美しい女性を虐めるのが大好きなストラドリングは、こっそりとほくそ笑んでいた。




***




 ――そんな訳で数刻後。肉体労働者が多く集まる安酒場にイヴたちはいた。


 酒場は猥雑でやかましく、荒っぽい空気が流れている。労働後の大柄な男たちが集っているので、汗臭くて泥臭くて、熱気がものすごい。頑丈なグラスが木のテーブルを叩く雑多な音が響き、揚げものの香りが漂い、そこらを猥談がポンポンと飛び交う。


 そんな空気の中、円卓に左肘をつき、口元を押さえているアルベールの姿があった。ほとんどグロッキー状態に見える。襟元を緩め、髪も少し乱れていた。


 彼はすぐに酔いが回ってしまう体質である。一点、不幸中の幸いであるのは、アルコールに弱いといっても、即中毒症状に陥るタイプの完全な下戸ではなかったことだろうか。それだと酒類を口に含んだ瞬間、すぐに医者の世話になっていただろうから。


 ショットグラスを数杯あおっただけでこの有様であったので、周囲からは『可愛い子ちゃん!』とからかうような野次が上がっている。アルベールは安酒場には似つかわしくない端正な優男であったので、男同士であったとしても、彼を眺める視線には、どこか猥雑とした色が混ざっているようだった。


「ああまったく、言わんこっちゃない」


 スカーフを頭に巻き、顎下でくくった侍女のリーヌが、低い声で呟きを漏らす。


 アルベールの対面にいるゴロツキのピエールは、腕組みをしながら、へたった若造をニヤニヤと眺めおろしている。そのうちに退屈になったのか、ピエールはアルベールから視線外し、


「――おい、そこのお色気ねーちゃん!」


 後ろで見学していたイヴに声をかけてきた。彼女がここに来ることをアルベールはよしとしなかったのだが、イヴはここぞという場面で使う『必殺技』を繰り出し、なんとか同行の権利だけは勝ち取ることができた。――ちなみにイヴの『必殺技』は、『秘中の秘』であり、アルベールしかその全貌を知らないという。


「これじゃあ、呆気なくてつまらねぇや。あんたが途中参戦してもいいぜ。俺もべっぴんさんとサシで飲みてぇしな」


 イヴはこれに瞳をキラリと輝かせた。


「では、お言葉に甘えて」


 気取った仕草でテーブルのほうに歩み寄ったところで、卓上にほとんど突っ伏しかけていたアルベールが、そっとすくい上げるように彼女の白い手を握った。


「――いけません」


 彼の声はほとんど掠れている。


「あなた、水でも飲んで、あちらの椅子の上で寝ていなさいな。あとは私が引き受けますから」


 イヴは呆れたように彼にそう言い、空いているほうの手で、背後の椅子を指さしてみせた。


「いいえ、これは私の勝負です。お嬢様は引っ込んでいてください」


 彼は酔いが回って、余裕がなくなっているのだろう。いつもはしないような、嗜虐的な流し目でイヴを射抜くように見据え、そんなことを言う。これにイヴは一瞬眉を顰めかけたのだが、一拍置いて、悪戯な笑みを浮かべた。


「本気なの?」


「ええ、本気です。必ず勝ちます」


 元々アルベールはこの飲み比べに負けても構わないと思っていた。けれどここでイヴと交代させられるなら、話は別である。――譲れない。これは彼の矜持だった。


 しかし勝機のない戦いに挑もうとしているのは、いつもの彼らしくない。元々この勝負に乗り気ではなかったこともあり、酒場の人間を買収するといった裏工作もしていない。


 ――イヴはかたくなな態度の彼を眺めおろしてから、小首を傾げ、身に纏っていた外套をさっと脱いでしまった。軽装になったことで、豊満な胸や細い腰のラインがこの場でさらされたので、周囲からどよめきが起こった。


 かがみ込んだイヴが、彼の耳元にそっと囁きを落とす。


「――ねぇアルベール。あなたが眠りそうになったら、私、服を一枚ずつ脱いでいくことにするわ」


 少々投げやりでダルそうだったアルベールの肩がピクリと揺れた。伏せていた瞳を瞬き、彼は根性で体勢を整えた。そのさまを見たイヴは、にっこりと笑みを浮かべる。


「どう? やる気出た?」


「目が覚めました」


 そこからは圧巻の一言。――この大衆酒場が始まって以来の、壮絶な飲み比べ合戦が幕を開けたのである。


 表情をなくしたアルベールは、ほとんど顔色を変えることなく、一定のペースを保って酒を煽っていく。初めこそ、それを楽しく眺めていたイヴであるが、段々と心配になってきた。


 イヴとしては、アルベールに対してちょっとした意地悪を仕かけたつもりだった。――お酒に弱いくせに出しゃばるからよ、と分からせてやりたくて。それがまさか、こんなことになるなんて。どうせすぐにギブアップするだろうと思っていたのに。


 彼だって、イヴが服を脱ぐだなんて、本気で信じてはいないはずなのに。もういいからやめてという気分になり、ちょこちょこアルベールに近寄っては、そうお願いしてみるのだけれど、彼は頑としてこれを聞き入れようとしない。


「問題ありません」


 ただこう返すばかりで。――受け答えが単調というのが、なんだか心配だった。そもそもの話、普段はお酒一杯で酔ってしまう彼が、こうも意識をシャンと保っていられるものだろうか? イヴは怖くて仕方がない。


 ――ところでこういった酒場では、酒に強い者がとにかく尊敬されるという、脳筋そのものな旧時代のルールがいまだに残っている。ピエールはこの酒場の絶対王者であり、伝説的な存在だった。


 そんなレジェンドと今宵熾烈なバトルを繰り広げているのは、筋肉ゴリラのピエールとは正反対の優美な青年。彼はこの酒場には似つかわしくない上品な容貌をしている。そんな彼がほとんど表情を変えることなく、アルコール度数五十を超える強烈な酒を、次々とショットで煽っていく。


 ピエールは初めこそ余裕な態度であったが、飲み続けるうちに段々と腕の動きが鈍くなり、宵も深まった頃には、とうとう頭が前後に揺れ始めた。


 周囲は二人の小卓を囲んで、やんややんやと大騒ぎをしていたのに、王者がぐらつき始めた頃から、次第に口数を減らしていった。


 そのうちに、唐突に勝負が着いた。――連戦連勝の帝王ピエールがついに陥落し、テーブルに突っ伏してしまったのだ。


 静まり返っていた場が一転、どよめきが広がり、それはすぐに喝采へと変わった。


「――勝負はついた」


 アルベールはそう告げて、椅子から立ち上がった。乱れた髪が額にかかり、それにより作られた影が、彼の佇まいにすごみを与えている。彼の瞳には感情らしきものが欠如していて、宝石のように綺麗な瞳が、温度もなくただ敗者を眺めおろしていた。


 ――ピエールは最後の力を振り絞り、のろのろと指を動かしたあと、やっとの様子で顔を上げる。


「……ま、待て、まだだ」


「あんたの負けだ」


 苛立っているのか、アルベールは珍しくつっけんどんにそう言うと、テーブルに手をつき言葉を続けた。


「ストラドリングに伝えておけ。――睡眠時間を削ってでも、予定を空けろと」


 ストラドリング本人は、かなり前に帰宅している。アルベールが数杯でフラフラになっているのを見て、勝ちを確信したのだろう。


 イヴはこの顛末をただ黙って眺めていた。圧倒され、言葉を発することもできなかった。――だからアルベールが彼女のほうを振り返った時は、ビクリと肩を揺らしてしまった。


「お嬢様、帰りますよ」


「ええ、はい」


 イヴはこくりと従順に頷いてみせ、ダウンしてしまったピエールの頭頂部を一瞥してから踵を返す。


 ふと視線を巡らせると、侍女のリーヌがほっかむりを取って、近くのテーブルで見知らぬおじさんと酒を酌み交わしているのに気づいた。そこで彼女の腕をさっと取り、連れ帰ることも忘れなかった。


 ――外に出ると、店内のあの熱気が嘘のように、ヒヤリと冷たい空気が忍び寄ってくる。待たせてあった馬車に乗り込むと、御者がすぐに発車させた。


「ねぇ、あれって、気合でなんとかなるものなの?」


 なんとなくイヴは小声で尋ねた。――もしかすると、これまでアルベールが酒に弱いと思っていたのは、自分の勘違いだったのかしら? 頭が混乱していた。


 アルベールはタイを整えてから、疲れた様子で椅子の背に寄りかかり、答える。


「いえ。あれはペテンです」


「そうなの? だけどあなた、仕込みはできなかったはずでしょう?」


「確かに初めは、真面目に飲んでいました。だから今、ちゃんと酔っています」


「初めは? じゃあ、後半はほとんど飲んでいない?」


「テーブルの下で中身を別のグラスに移したり、すり替えたり。とはいえ怪しまれないよう、本当に飲んだりもしましたから、かなりギリギリでした。頭がクラクラしていますよ」


「そう? あなたはとてもしっかりして見えるわ」


「だとしたら、褒めてください」アルベールが淡い笑みを浮かべる。「この会話も綱渡りです」


 とてもそうは思えない。確かにいつもより砕けた態度だし、退廃的な空気は纏っているものの、ギリギリ端正な態度は保てている。


「イカサマをしているなんて、まるで気づかなかったわ。それも大勢が見ていたのに」


 イヴは信じがたい気持ちだった。彼はイカサマが得意だという予備知識がイヴにはちゃんとあったのに、それでもまるで仕かけに気づけなかった。


「ミスディレクションという、基本的なテクニックです。皆の注意がほかに逸れている時に仕かけるので、知識がないと気づきづらいですが、別段、高度なことをしているわけじゃない。私はこういう小細工をするのが、そこそこ得意ですから」


 対戦相手のピエールが何か言った時などに、こっそり仕込みをしていたということ? なんとも大胆だ。彼はまったく油断ならないと思う。


 そして不思議なことに、彼は息をするような自然さで、そういう悪さができるのに、必要がない時は決してそれをしないのだ。


 ――『服を脱ぐわよ』とアルベールをけしかけたのは、イヴとしては軽い冗談のつもりだったのに、彼は意外と真剣に受け止めたのだろうか。あんなの、ただのお遊びなのに。


「……私はあなたを振り回している?」


 感情の渦に呑まれるように、ついそんな言葉が口を突いて出ていた。アルベールは茫洋と彷徨わせていた瞳を気まぐれのように戻し、対面にいるイヴに据える。


 イヴの隣には侍女のリーヌもいるのだが、彼女は心得たもので、さっと視線を逸らして気配を消している。


 イヴは彼の青灰の瞳が物憂げに瞬くのを、ただじっと眺めていた。


「あなたはいつだって、私を煽るのがお上手です」


 本気になったのはイヴのせいだと彼は言う。自分は被害者なのだと言わんばかりに。


 そんなの嘘だわ、とイヴは考えていた。――だって彼の言葉一つ、視線一つで、イヴの心の中は嵐だ。


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