3-A お嬢様と宝石
貴族のつき合いって大抵中身がないわ。――イヴ・ヴァネルはお上品に微笑んで見せながらも、内心では退屈しきっていた。
先程ヴァネル邸を訪ねて来た目の前のご令嬢は、イヴからすると特別親しいとは認識していない相手だった。何しろ、名前すら思い出せないくらいなのだ。なんとなく顔に見覚えはあるが、本当にただそれだけの相手で、道ですれ違ったら、笑顔で挨拶くらいは交わすでしょうね、というくらいの関係性。
とにかく令嬢とのあいだに感情の交流は皆無なのだが、それでも彼女とイヴは『お友達』というカテゴリに分類されるらしい。――当の令嬢が『私たち、お友達ですものね』と訪ねて来た際に言っていたので、どうやらそうらしいのである。そして家柄が同格の『お友達』ともなれば、こうして不躾にアポイントメントなしで訪ねて来られようとも、こちらは彼女を屋敷に招き入れ、退屈な話がその口から垂れ流されるのを、ただ黙って聞くという義務が発生するらしい。
――ある意味、拷問だわ。イヴはげんなりしながらも、幾らか(自分の)気晴らしになればと、季節の花が咲き乱れる庭園に令嬢を通し、ガーデンテーブルを囲んで着席することにしたのだった。
ちなみにこのご令嬢、二十代後半の男性を同伴している。最近彼と婚約が調ったのだとか。つまりここへは惚気(のろけ)に来たというわけなのだった。
彼女が語る内容がこれまた退屈で、分厚い歴史書を読んでいるみたいに、何も頭に入ってこない。
『彼ったら私に甘くてー』だとか『彼ったらいつでも一緒にいたがってー』だとか『彼から贈られる沢山のプレゼントは、包みを開けるだけで大変でー』だとか『中身は高級でセンスの良いものばかりでー』だとか『彼ったらいつも私を見ているから、ちょっとした変化に気づくのー』だとか『縁談がなかなかまとまらなくて苦労したこともあったけれど、それってたぶん彼と出会うためだったのー』だとか『イヴ、あなたも気を落とすことないわ、そのうちいい人が現れるはずー』だとか。
彼女の話ときたら、まるで油こってりの冷めきった料理のような、誰をもうんざりさせるものなのだった。そして彼女の婚約者も、なんだか問題ありで……。
「――レディ・イヴ」
彼が好色そうな瞳をイヴに据えて、機嫌を取るように笑みを浮かべる。
「あなたほどの御方が、どうしてフリーでいらっしゃるのでしょうか?」
――うわ、不躾(ぶしつけ)。
別に問われて困るような内容でもないけれど、初対面でこれは、いくらなんでも踏み込みすぎだろう。……まぁ親しい間柄だとしても、どのみち踏み込みすぎではあるけれど。
「あら、失礼よ、ヤン!」
令嬢が目を丸くし、大げさな抑揚をつけて彼をたしなめる。
「彼女だって行き遅――じゃなくて、いいお相手に巡り合えない現状に焦っているのだから、そんなふうにからかったりしたら、お可哀想だわ!」
今、行き遅れって言いかけたわね。イヴの片眉がピクリと動く。それから、いつあなたに『現状に焦っているの』と打ち明けましたかしら?
いまだに結婚していないのは自分自身の意志であるが、それを揶揄されると、無性に苛っとしてしまうのはなぜだろう。イヴは人間というものの業の深さに、思いを馳せることとなった。
――もしかしてこのご令嬢は、伯母が送り込んできた最終兵器なのでは? ふとそんな疑念が頭に浮かんだ。そんなことを勘繰ってしまうほどに、令嬢の攻撃は容赦がなかった。ピンポイントで塩を塗り込んでくる。逃げ腰のイヴをやる気にさせるには、これ以上に効果的な方法はない気がする。
「いや、僕はからかうつもりなどなくてだね。――つまり彼女はとても魅力的であるのに、どうして結婚していないのか、ただものすごく不思議だったんだよ」
大きなお世話です。そしてジロジロ胸を見るんじゃない。フォークで急所を潰すわよ。
「あら、不思議に思っているのは、イヴ本人のはずよ! この私だって、縁談が決まらなかった時は、どうして私が? と常々思っていたのですからね」
ああもう、テーブルを引っくり返してしまいたい。イヴは衝動に身を委ねたくなったが、鋼の自制心で、なんとか暗い欲望にブレーキをかけた。
無意識のうちに右手で反対の腕をさすりながら、考えを巡らせる。馬鹿馬鹿しいけれど、一応説明しておくとするか。
「私は十三歳から十九歳――つまり去年まで、外国で暮らしておりました。身体が弱かったものですから、静養のために」
「大丈夫なのですか?」
「ええ、今はもう。環境を変えたのが功を奏したのか、身体のほうはもうすっかり良くなりました。そんな事情があるので、社交的な面で色々と遅れが出てしまっているのです。――このことは、社交界では有名な話だと思っていましたわ」
ヴァネル伯爵家はかなりの名家であるから、上流階級に身を置きながらこの話を知らないというのは、相当間が抜けていると思う。『服を着ないで外出してしまうくらいの粗忽さ』と言ってもいい。つまりはその程度の、うすらぼけた男だということだ。
「帰国したばかりだから、残念なことに、縁談がまとまっていないのですね。ご病気されていたなら、まず回復させるのが第一で、それでは縁談どころではなかったですよね。――皆が私のように、一を聞いて十を知る能力があればいいのですが、そんなふうに察しの良い人間ばかりではないですからね。不幸にもあなたは、周囲から誤解を受けてしまうのでしょう」
分かり切ったことを、さも推理して導いたというように、得意げに男が言うのにはうんざりさせられた。大体今の長台詞、先のイヴの説明を少し表現を変えて、なぞっただけではないか。
自分では名探偵と思っているのかもしれないが、その程度のこと、下町で暮らしているなんの教育も受けていない、煙突掃除の少年にだって分かりそうなものだ。――いいえ、違うか。その子たちのほうが、よほど機転が利くに違いない。
退屈さを表に出さないように、イヴはかなり頑張ったと思うのだが、彼女の忍耐力もそろそろ限界に近づいていた。うんざりして目の前のカップルから視線を逸らしたところで、芝生を横切ってアルベールが近づいて来るのが見えた。――外套を着こんだままなので、帰るなり、すぐこちらに寄ってくれたらしい。
イヴは瞳を輝かせ、にっこりと心からの笑みを浮かべた。対面の(うすらぼけた)男性が、ジットリとイヴの全身を眺め回していたのだが、当の本人はアルベールしか視界に入っておらず、目の前のカップルが奏でる退屈な世間話など、もはやどうでもよくなっている。
「――ただいま戻りました」
イヴのそばまで歩み寄り、アルベールが優しく瞳を細めて、あるじを見つめる。
「ずいぶん早かったのね。帰りは明日になると思っていたわ」
「明日のほうが良かったですか?」
悪戯っぽくそう問う彼。だけどイヴの答えは決まっている。
「いいえ」
「私もです」
アルベールの綺麗な声が、染みわたるようにその場に響いた。
「――早く戻りたかったのです。あなたのおそばに」
気品があって、他人に振り回されることなどまるでなさそうな彼の、乞うようなこの台詞――これに真っ先に食いついたのは、なぜか無関係なはずの来客だった。
「その方はどなたですの?」
我慢しきれなくなったというように、令嬢が前のめりになって尋ねる。――見目麗しい育ちの良さそうな青年が、イヴにかしづき、すべてが彼女の意のままという謎の状況が、気に入らなかったようである。
アルベールは感情を読み取らせない謎めいた瞳でそちらを見遣り、穏やかに口を開いた。
「お嬢様の従者をしております、ランクレと申します」
「なんだ、あなた使用人なの」
イヴの恋人ではないと分かり、令嬢は少し胸がすいた様子だ。片眉を上げ、値踏みするようにアルベールをジロジロ眺めている。その視線は『いくらハンサムでも、使用人じゃねぇ』と言いたげである。
アルベールは侮蔑的な視線もまるで意に介すことはなく、右手にかけていたブランケットをお嬢様に差し出した。
「お寒いでしょう。これをかけてください」
「あら、ありがとう」
これには少し驚いたので、素直に受け取りつつも、イヴは真顔になってしまった。
「……どうして私が寒がっていることに気づいたの?」
「先ほど二の腕を寒そうにこすってらっしゃったでしょう? それを遠目に確認しましたので、少し遠回りをして、このブランケットを入手してから、こちらに来ました」
「嬉しいわ。とっても暖かい」
ブランケットを膝にかけたイヴが無邪気に笑う。そうすると彼女が纏っていた艶めいた夜の気配が霧散し、アンバランスな魅力が増した。今の彼女は子供がキャンディーをもらったような、はにかんだ笑みを浮かべている。それをアルベールは優しい瞳で見おろすのだった。
――さて、すっかりお邪魔虫と化したご令嬢であるが、こうなったら自らの役目をまっとうしようという覚悟なのか(?)、鼻息を荒くして言い募る。
「あらイヴ、使用人がブランケットを持って来たとしても、当たり前の話でしょう? 主人に尽くすのが使用人なのだから。――ねぇあなた、今、旅から戻ったの?」
問われ、アルベールが答えた。
「ええ。どうしても外せない用件があり、外国に行っておりました」
――えっ、国境を超えたの? 意外にワールドワイドな活躍ぶりだったので、ご令嬢はごくりと唾を呑んだ。
「あ、あらそう。なんの御用で?」
「とある出来事の後始末です」
答えているようで、答えていない。令嬢は眉を顰め、苛立った様子でさらに言い募る。
「私の彼はね、旅に出た際は、必ずお土産を買ってきてくださいますのよ? 花瓶であるとか、置物であるとか、とてもセンスの良いものをね。だけど使用人だと、そういう気遣いはできないでしょうね?」
イヴは小首を傾げて、これを聞いていた。そして令嬢が口を閉ざしてから、アルベールのほうを見上げた
「アルベール、彼女はこうおっしゃっているけれど、どうなの?」
「おや、帰ったばかりの私に、もうおねだりですか?」
彼がくすりと笑う。イヴもくすりと笑った。
「ええ、おねだりよ。お酒かお菓子……どちらかしら?」
「答えは、どちらもです。お嬢様が好きですから」
――『お酒とお菓子』をお嬢様が好きですから。もちろんこういう意味だろう。しかし一方で『私はお嬢様が好きですから、あなたの喜ぶものを用意するのは、当然のこと』――そういった意図も含まれていそう。
そんなことを周りが邪推してしまうくらいに、彼の言葉は甘やかで、思い遣りに満ちていた。
「――それからこれを、お嬢様に」
アルベールが小脇に抱えていた、手のひらより少し大きなサイズの、平らな箱をイヴに差し出す。ベルベットの平らなそれは、どうやらジュエリーケースのようである。
彼が蓋を開いて見せると、中には素晴らしく精緻な細工が施されたネックレスが納まっていた。デザインの優美さもさることながら、緑の宝石の鮮やかで大粒なこと! この国の一流宝石店でも、これほどのものは扱っておるまい。
王室で代々受け継がれるような代物が、昼日中になんてことない風情で現れたので、イヴはおろか対面に腰かけていた令嬢も言葉を失っていた。
皆、脳が停止したかのように、大粒のエメラルドに魅入っている。フリーズ状態から一番初めに復活したのはイヴだった。
「これって、先日の御礼として、西の国から贈られたということかしら?」
今回アルベールが訪ねたのは、西の国である。先日の件では、南の国からも御礼が贈られる予定と聞いているが、そちらのほうはもっと改まった、大々的な式典になるとのことだ。
「さようでございます」
「だったら受け取れないわ。これはあなたのものよ」
イヴのこの台詞を聞き、まるで無関係の令嬢が素っ頓狂な声を上げる。
「はぁ? 彼のものってどういうこと? こんな素晴らしい――ええとだけど――これ、そもそも本物なの? よくできた偽物よね? それならば、使用人の所有物だっていうのも、分かりますけれど」
「まさか。私がお嬢様にまがいものを贈るわけがない」
それは平静な声音であったが、令嬢を眺めるアルベールの視線は、それはそれは冷たいものだった。しかし彼は令嬢には露ほどの興味もなかったので、すぐに視線を切り、彼のお嬢様に向き直る。
「これはあなたのものです」
「どうしてそうなるの?」
「私がそう決めたからです」
アルベールは当然のようにそう答えて、優美に微笑んでみせた。物怖じしないことでは有名なイヴも、これにはたじろいでしまった。――けれど、結局。
「ありがとう、アルベール」
案外あっさりとネックレスを受け入れることにしたイヴである。言葉のすんなりした感じに反して、その頬は初々しく朱に染まっていた。それは宝石に釣られたというよりも、彼に贈られたというそのことを嬉しく感じたためである。
結局、アルベールがイヴのために用意したものならば、お菓子であろうと、葡萄酒であろうと、髪飾りであろうと、高価な宝石であろうと、彼女は大変嬉しく思い、心が暖かくなるのだ。
――ちなみに、長いあいだ居座ってイヴをうんざりさせたご令嬢とその婚約者であるが、アルベールが上手くあしらって、すぐに追い帰してくれた。
やっぱり彼がいると、万事上手くことが運ぶわ……イヴはしみじみとそんなことを考えていた。
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