【完結済】私に仕える男
山田露子☆2/13モコくま漫画配信開始!
1-A お嬢様と嘘
縁談をまとめたがっている伯母のあしらい方というものを、イヴ・ヴァネルほど熟知している娘はいないだろう。
この日意気揚々とヴァネル伯爵邸を訪ねたイヴの伯母は、家人より置き手紙を渡され、姪の不在を知ることとなった。
『 伯母さま
今回もお会いすることができず、とても残念です。一年前に隣国から帰国しましてから、わたくしはずっと伯母さまにお会いしたいと思っているのですが、どういう訳かすれ違いが続いていますね。
先日、わたくしは医者から不摂生を咎められましたため、しばらく療養の旅に出ることにしました。
――ああ、だけど、ご心配なさらないでくださいね? 体調はすこぶる良いのです。問題は体型のほうですの。
この手紙を書いている今この時も、顎のお肉が邪魔をして、上手く下を向けないような有様なのです。階段を上る時など特に大変で、数段上るだけで息が切れるので、移動するのも命がけ。こんなふうになってしまったのは、お菓子を食べ過ぎたせいかしら?
そうそう――階段を下りる時などは、従者によく笑われますのよ。彼はこう言うのです――お嬢様は足を使って下りるよりも、いっそ転がって落ちたほうがよさそうですね、と。
わたくしの従者は時々面白い気づきを与えてくれます。ですからわたくしはいつだって彼に感心しきりなのです。
では伯母さま、愛を込めて――イヴ・ヴァネル より 』
***
イヴの伯母は紙面から顔を上げ、思い切り顔を顰めた。特徴的な鷲鼻のつけ根に細かい皴が寄っている。
「あの子ったら、また太ったの? ――顎の肉が邪魔をして下を向けないって、一体どんな状態なのよ! 病気でむくんでいるのなら仕方ないけれど、そうじゃないんでしょう? お菓子の食べ過ぎですって? ならば食べた分、歩けばいい。周囲が甘やかしすぎよ」
彼女は対面に腰かけているヴァネル夫人(イヴの母)にジロリと睨みをきかせたあとで、突然すべてが馬鹿らしくなったらしく、一気に脱力し、くるりと目を回した。
「まったくもう! 姪が卒中で亡くなる前に、なんとか縁談をまとめ上げたいものだわね!」
***
さて、『療養の旅に出る』といって伯母との面会をキャンセルしたイヴ・ヴァネル嬢は、今どこにいるのだろう? 遠方の温泉地? いいや、どうやらそうではなさそう。
実は彼女、家から数ブロックと離れていない近場にいた。そこで何をしているかというと、イヴは友人と会っていたのだ。
「――ミレーユ、あなたもなの?」
ティーカップをソーサーに行儀よく戻しながら、イヴはオリーブ色の瞳を友人のミレーユに据えた。――正直、裏切られたような気分だった。口調にも恨みがましさが滲み出ている。
「あなたもって、何が?」
意味が分からないというように、パチリとつぶらな瞳を瞬き、ミレーユが尋ね返してくる。
「とぼけないでよ! 私たち『しばらくは独身で頑張ろうね』仲間だったじゃないの! それなのに勝手に結婚するつもり? ひどい裏切りだわ」
イヴはテーブルの上に前のめりになり、つい友人をなじってしまう。淑女としてあまりに残念な恨み節であるが、本人はとにかく必死だ。
イヴとミレーユは年齢が二十歳で同じ、そして家格も同等、気質もよく似ていた。そのため二人はとても仲が良かった。――少なくとも、先程ミレーユが『私、結婚するの』と言い出すまでは。
「あのねぇ」
ミレーユがむっとした様子で顔を顰める。
「友達が婚約した時は、笑顔で『おめでとう!』と言うのが礼儀なの。あなたさっきから、ひどい態度よ」
「ひどい態度にもなるわ」
「なんでよ?」
「だってあなた、結婚に興味ないって言っていたじゃない! ついこの前まで」
「それ、いつの話? 言っておくけれど、三日前は、私にとっては半世紀前と同じですからね」
そんなのおかしいわ、とイヴは思う。三日前は、誰にとっても三日前のはずだ。
憮然とするイヴをちらりと見遣り、ミレーユははぁと溜息を吐く。
「そうね、確かに私は以前、『結婚に興味はない』と言ったかも。だけど『結婚するつもりはない』とは言っていないからね」
「興味はないけれど、するつもりだというの?」
「――ねぇ、イヴ」
ミレーユがここで不毛なやり取りにストップをかけた。すっと瞳を細めて、対面に腰かけているイヴを見つめる。
「問題をすり替えるのは、もうやめにしない? あなたがそうやって私に腹を立てるのは、現実逃避しているだけだと思うわ」
「どういうこと?」
「自分が結婚に関して問題を抱えているから、私の婚約話を聞いて、焦っているのでしょう」
「問題なんか抱えていないわ」
「そう?」
「そうよ。私の前には求婚者が列をなしているんですから」
「はい、嘘は結構です」ミレーユがピシャリとやり込める。「大体あなたね、同年代の男性からなんて言われているか、知っているの?」
そう正面から尋ねられ、イヴは警戒するように顎を引いた。むずがる子供のような顔で、じっとミレーユを睨む。
「さぁ? ええと、そうね……病弱女、とか?」
子供の頃、イヴは身体が弱く、臥せりがちだった。療養のため、つい最近まで長期外国に行っていたというのは、社交界では知られた話だ。
しかしミレーユは無慈悲にも首を横に振ってみせる。
「いいえ、違う。あなたはこう言われているのよ――『愛人顔』。それも『愛人の中の愛人』『トップ・オブ・ザ・愛人』顔だとね」
これを聞かされたイヴは打ちひしがれた。
濃い金色の髪に、しっとりと影のある菱形の瞳。大人びた美しい鼻梁、細く長い首。そして標準よりも大きな胸に、くびれたウエスト、なめらかな腰のライン――イヴはただそこにいるだけで、無駄に色気を振りまいてしまうという、セックスアピールが強烈な存在なのである。
そしてイヴはちゃんと知っていた。実は男たちが陰で自分のことを『ホステス顔』と呼んでいる事実を。初めは『ホステス』の意味が分からなくて、『パーティを上手く仕切れる女性の称号かしら?』と呑気に喜んでいた。しかし違った。侍女のリーヌに訊いたところ、ホステスというのは、下町の安酒場で殿方をもてなす仕事をしている女性のことを指すらしい。
――なんてこと! とイヴはこれに衝撃を受けた。自覚なく、夜の蝶にされていただなんて!
毎夜九時に寝るという、幼児並みに規則正しい生活を送っているというのに、おかしいじゃないの! そんなに姿形から、夜の匂いが駄々洩れしているというの? それってどうやったら引っ込むの?
たぶんミレーユは、本当は『ホステス顔』と言いたいところを、友人に対する最低限の気遣いでもって、『愛人顔』と表現するにとどめたのだ。情けをかけられた悲しい女、それがイヴなのである。
――というかそもそもの話、『ホステス顔』より『愛人顔』のほうが、表現的にマシなのか? という問題もある。むしろ職業として誇りをもって客を楽しませているホステスのほうが、他人の男を盗るよりも上等なのではないか?
「愛人顔だからって、なんなの? 私はまるで気にしていませんけど?」
普段は落ち着いているイヴの声音が、動揺で少し裏返っている。
「いや、そこは気にしましょうよ。貞淑さで売っていかなきゃならない貴族令嬢が、愛人顔って致命的だからね」
ミレーユに呆れ返った調子で注意され、イヴはすっかり拗ねてしまった。何よ、愛人顔じゃなくて、もっとマシな表現があるでしょう? 大人びた顔って言いなさいよ。
「私が愛人顔だから結婚できないって、あなたは言いたいの? 違うもん。結婚できないわけじゃないから。しようと思えば、すぐにでもできるから」
「はいはい、分かった分かった。――じゃあ次に会う時は、空想上の存在じゃなくて、リアルな婚約者を連れて来てね。正直私、婚約したばかりで、やることが山ほどあるのよ。あなたの恨みごとを聞いていられるほど暇じゃないから」
そんなふうにぞんざいにあしらわれたもので、ムッとしたイヴは椅子から腰を上げていた。
「いいこと、あなた――あとでギャフンと言う破目になるからね! 首を洗って待っていなさいよ。今にあなたの目玉が飛び出るような素敵なダーリンを連れて、自慢しに来るから」
ふん、と鼻息荒く去って行くイヴの後ろ姿を眺め、ミレーユはやれやれと肩を竦めた。
***
イヴと面会することができなかった彼女の伯母は、ヴァネル邸を辞去する前に、姪の部屋を確認しておくことにした。――やはりよくよく考えてみると、彼女が帰国して一年もたつというのに、一度も会えていないというのはおかしい。
室内は明るい雰囲気だった。モスグリーンの爽やかな壁紙は目に優しく、上品な家具類もセンスが良い。
正面の壁にはイヴの肖像画が飾られていた。額縁の中にはふくよかを通り越し、満月のようにまぁるい顔の令嬢が描かれている。彼女は上機嫌に微笑みながら、絵に対面した者を見返してくるのだった。
軽く眉を顰めてから視線を切り、室内をざっと見て回る。テーブルの上に高級なチョコレート菓子店の箱が置いてあった。箱を括る赤いリボンの下に、メッセージカードが挟んである。それを抜き取り、中をあらためた。
『親愛なるイヴへ。これは先日のお礼よ。――ミレーユ・バチストより』
「ふぅん。――あの子、バチスト伯爵家のご令嬢と親しくしているのね」
姪の交友関係を把握したところで、イヴの部屋を出る。屋敷を出て馬車に乗り込んだ彼女は、
「――バチスト伯爵邸へ向かって頂戴!」
よく通る声で御者にそう指示を出したのだった。
***
友人のミレーユ・バチストと喧嘩別れしたイヴは、半時ほどたった今も、なぜかバチスト伯爵邸に留まっていた。それもなんとも奇妙な場所に。
イヴ・ヴァネルは明るい曲調の歌をハミングしながら、タライの中で軽快に飛び跳ねている。タライの中には水と石鹸液と洗濯物が入っていて、その中で足踏みすることで、汚れものを洗い清めているのだ。
――踊り子と羊飼いの青年が恋に落ちるこの歌は、洗濯女たちが作業の際に口ずさむ定番の曲である。イヴの少し掠れた低めの声は情感豊かで、適当にメロディを刻んでいても、味があってなかなか上手だった。
ドレスの裾をたくし上げ、歌に合わせてステップを踏むようにして、時折景気良く素足で水を跳ね上げる。すらりとした足が、小鹿が野山を駆けるかのように、元気良く跳ね回っているさまは生命力に満ちていた。
彼女の濃い金色の髪が、陽光を反射してキラキラと輝いている。
「――お嬢様」
イヴの従者をしているアルベール・ランクレがすぐそばまでやって来て、落ち着いた声音で呼びかけた。
イヴが子供のようにタライの中で飛び跳ねて遊んでいるあいだ、彼は木陰で優雅に読書をしていたのだが、何か用があって近づいて来たようだ。
テイルコートを一分の隙もなく着こなした彼は、とても綺麗な面差しをしている。物腰は優美で穏やか。どこか憂いを帯びた青灰の瞳には、なんともいえない詩的な美しさがあった。
イヴの従兄(いとこ)にあたるアルベールは今二十三歳で、訳あって彼女の従者をしている。
「そろそろ水から上がりませんと、お身体が冷えますよ」
案ずるようにアルベールが手を差し伸べてくるのだが、イヴは歌がいいところに差しかかっていたので、やめようとない。それどころかさっとアルベールの手を取ると、頭の上に持ち上げて、そこを軸にくるりと回ってみせた。
水に濡れたスカートの裾がふわりと広がる。
彼と手を繋いだまま数回ターンを繰り返し、イヴはこらえ切れなくなった様子で弾けるように笑い始めた。
「――ねぇ、上手いものでしょう? 一度教わっただけで、歌もステップも完璧に覚えたわ」
歌って、踊って、イヴはすっかり上機嫌だ。――ところで伯爵令嬢のイヴが、他人の家で洗濯をしているのは、どういう訳なのだろう?
――三十分ほど前、ミレーユと喧嘩したのちに、バチスト伯爵邸をあとにしようとしていたイヴは、どこかから陽気な歌声が響いてくることに気づいた。誘われるように敷地を横切って進んで行くと、裏庭で仕事をしている洗濯女たちに出くわした。イヴはしばらくのあいだは大人しく、その仕事ぶりを見学していた。
――ところが、である。彼女の辞書には忍耐の二文字がない。
お転婆な彼女は洗濯女が楽しそうに踊るのを見るうち、やがて身体がうずいてどうにも我慢ができなくなり、少しずつ近寄って行った。この接近遭遇に初めは戸惑いを隠せなかった使用人たちであるが、イヴがあまりに楽しそうに歌に聴き入り、絶妙なタイミングで合いの手を入れてくるもので、次第に受け入れる空気に変わっていった。
「――私、長いこと外国にいたの。だから細かいことは気にしないのよ」
彼女が悪戯っぽく弁明すると、ああなるほどという空気が広がる。
イヴは洗濯女たちの動きを見て、すぐに踊りと歌をマスターした。やがて彼女も裸足になると、『タライを貸して』とお願いし。――イヴが裸足になったあたりで、さすがに呆気に取られた洗濯女であるが、『ねぇ、お願いよ。しばらくそれを貸して』と頼み込まれてしまうと、断れなくなったようだ。苦笑いを浮かべたあとで『じゃあ、私はしばらく別の仕事をしています』と言い残して、どこかへ消えて行った。それでイヴは、思う存分洗濯というものを体験することができたのだった。
そんな得意満面なお嬢様を見遣り、アルベールは眩しそうに瞳を細めている。
「とても素敵な歌声でした。聴き入ってしまいましたよ」
「嘘、嘘! あなたは向こうで本を読んでいたじゃないの!」
「ちゃんと聴いていました」
アルベールが淡い笑みを零す。――長いつき合いではあるけれど、イヴは彼が声を立てて笑う場面を、ほとんど見たことがない。近頃は特に、ただ穏やかに微笑むことが多くなっていた。
けれどこちらを見つめる彼の瞳が、いつだって陽だまりのようにあたたかいのを、彼女はよく知っている。
「けれどお嬢様、そんなふうに使用人の仕事を奪ってはいけません」
「それもそうね」
彼はいつだって正しいわ。イヴはそう思った。
彼女をタライから出そうと足を進めかけたアルベールは、その時不意に笑みを消し、改まった調子で彼女に告げた。
「――大変申し訳ございません。先にお詫びしておきます」
……え、何? 彼がこんなふうに訳の分からないことを言うのは珍しいから、イヴは思わず小首を傾げてしまった。
「どういうことかしら?」
「出かける前に、伯母上に手紙を残されましたよね? 健康上の理由で療養に出るから、お会いできませんと」
済んだ話を今更持ち出してくるなんて、彼らしくないわ。何が言いたいのかよく分からなかったが、イヴは頷きながら答えた。
「ええ、だって、ああでも言っておかないと、下らない縁談を押しつけられてしまうでしょう? 一年前に外国から戻ってから、なんだかんだと伯母さまと会うのを避けてきたけれど、振り返ってみると結構な綱渡りだったわよねぇ。上手く逃げおおせたものだと思わない?」
「――下らない縁談、ですか。けれど実際に会ってみなければ、お相手がどんな方か分からないのでは?」
「あのね、政略結婚よ。どうせ退屈で、しょうもないものに違いないわ」
「お嬢様は結婚される気がないのですか?」
アルベールまでそんなことを言うなんて! イヴは思わず眉をひそめてしまう。
「あらだって、まだ早いわよ」
「お嬢様は二十歳ですから、まだ早いとは言えないかと」
二十歳の貴族令嬢で婚約者もいないというのは、早いどころか、遅い部類に入るだろう。十代の大半を外国で過ごしたというのが言い訳になるとしても、帰国してからすでに一年がたっている。
「世間の常識は関係ないわ。私的に、まだ早いの」
「そう思われるのでしたら、伯母上に素直な気持ちをお伝えしてみては?」
「無理よ! 聞いてくださるわけがない。大体ね、アルベール――あなたは私の三つ上なのに、結婚していないじゃない」
「お嬢様が結婚されていないのに、私がするわけには参りません」
アルベールは彼自身の都合で結婚する気がないくせに、こんな時だけイヴの結婚を引き合いに出すのだから、意地悪だと思う。
「あなたが結婚しないなら、私もしないわ」
イヴが駄々をこね出したところで、建物の陰から貫禄のある女性の声が響いてきた。
「――そんな子供みたいな理屈が通ると思っているのかしら、イヴ? ところであなた、私の顔を覚えている? 姪が帰国してから一年という長きにわたり、対面をお預けにされてきた、あなたの伯母さまですよ」
イヴはそろそろと声のしたほうに振り向き、恐ろしい光景を目の当たりにして、びくりと肩を震わせた。骨格のしっかりした厳めしい顔つきの中年女性が、世にも恐ろしい形相でこちらを睨み据えているではないか。
この事態に思わず『ああ』と絶望的なうめき声を漏らしていた。イヴはドレスのスカート部分を震える手で握りしめ、八つ当たり気味に従者を睨みつけた。
「アルベール、ひどいわ! こんな時に上手く私を逃がすのが、あなたの仕事じゃないの」
「気配に気づくのが遅れました」
それはまぁ、いかに優秀なアルベールとて、伯母がここに来るのは予想外の事態ではあっただろう。そして気配を読み取れなかったのは、彼の目の前で騒がしく歌い踊っていたイヴにも責任はあるかもしれない。
――けれどそれにしても、もうちょっと早く、この口が迂闊なことを語ってしまう前に、キツめに警告して欲しかった。頭を殴ってくれてもいいから、やめさせて欲しかった!
腰に手を当てた伯母が、姪を糾弾し始めた。
「イヴ! まずあなた、下も向けないほど贅肉がついているようには見えないけれど!」
イヴの腰はどう見ても、折れそうなほどに細い。ちなみに胸だけは局地的に贅肉がたっぷりとついていたのだが、それはそれで話が違う。
――帰国後イヴはライト目な夜会ばかりを選んで出席していたので、彼女が好きに出歩いていることを、伯母は今日この時までまるで知らずにいた。まさか姪っ子がちまたで『トップ・オブ・ザ・愛人顔』だの『NO.1売れっ子ホステス顔』だのと揶揄されているだなんて、耳に入っていれば卒中を起こしていたかもしれない。
これはおそらく公爵夫人たる厳(いか)めしい彼女に、面と向かって『あなたの姪御さん、ちまたで愛人顔って言われているみたいですね』と教えてあげる命知らずが存在しなかったせいだろう。
「ええとこれは、一心不乱に洗濯にいそしんでいたら、痩せたみたいですわ」
動揺のせいか、イヴのジョークもキレがない。
「――それからあなた、一生結婚する気がないの?」
伯母の目つきはほとんど罪人を見るそれだ。イヴの背筋が自然と伸びた。……けれどまぁ、どのみちタライに入ったままでは、今更どんなに取り繕ろうが、まるで意味はなかったのだが。
「いやですわ、伯母さま。そんなわけないじゃないですか。結婚する気はもちろんありますとも。ただちょっと、まだ心の準備ができていない、ってだけで。――ええ、もちろんそうです。結婚自体を否定するはずがありません。だって結婚は貴族の義務ですわ」
「ああ、よかった、物分かりの良い姪で」皮肉たっぷりな返しがくる。「ではすぐに、あなたにぴったりの相手を紹介してあげますからね。リストはびっしり埋まっているから、次々休みなく提供できるわよ? だから安易に妥協せずに、よぅく考えて決めてね?」
そう言う伯母の目は、これっぽっちも笑っていない。強心臓のイヴといえど、これだけ絞め上げをくらえば、返す笑顔も引き攣ってしまう。
「それから最後に」伯母がさらに目を吊り上げ、腹の底から声を出した。「女性が足を出すとは何事ですか! 洗濯女の真似事などしてみっともない!」
「伯母さま、これは社会勉強というやつで」
「おだまりなさい!」
雷が落ちた! イヴはビクリとして、タライの中でほんのわずか飛び上がった。
そして落雷は別のところにも及ぶ。
「――アルベール! 責はあなたにもありますよ。その子にはしたないことをさせないで」
「申し訳ございません」
アルベールは瞳を伏せ、静かに詫びを入れる。
「縁談については後日、詳細を伝えます」
伯母は鋭い瞳で姪と従者を睨み据えてから、さっさと踵を返して去って行った。
二人きりになってから、イヴは眉尻を下げ、あーあとため息を吐く。
「――私の人生、お先真っ暗よ」
あの伯母が勧める縁談なんて、どうせロクなもんじゃない。持ち前の強運とアピール力だけで成り上がった女性だから、自己中心的であるし、他人にあまり関心がない。他人に関心のない人が紹介してくる男性に、期待しろってほうが無理だろう。だってそれって、壊滅的に服のセンスがない相手から、新しいドレスをプレゼントされるようなものだもの。
――ああ、最悪だ。もう最悪以外の言葉が見つからない。
「明日のことより、今が大事です」
アルベールが滑らかな動作でイヴの背に手を回し、反対の手を膝裏に添えると、彼女の身体は軽々と抱き上げられていた。突然ふわりと身体が浮いた彼女は、濡れた足を意味なくプラプラ動かしながら、一拍遅れて目を丸くする。
「私、自分で歩けるわ!」
「裸足で歩いて、怪我をなさってはいけませんから。――足についた石鹸を落として、身支度を整えましょうね」
「そんなふうに今更気遣うふりをしても、あなたがさっき私を地獄に突き落としたこと、忘れていませんから」
非難がましい視線を送るイヴを、アルベールは陽だまりのように優しい光を湛えた瞳で見おろす。
「そろそろ伯母さまに対する嘘もバレる頃合いでした。今日ここで、互いの考えを伝えあえたので、かえって良かったかと存じますが」
「意地悪な人ね! あなたは伯母さまの意見に賛成なの?」
「さぁ、どうでしょう」
「裏切者」
「とんでもない。私はいつだって、お嬢様の味方ですよ」
アルベールの謎めいた瞳が、イヴを絡め取る。
「私が納得できる相手でなければ、大切なお嬢様を任せたりしません」
「じゃあ、もしもお見合い相手が嫌な人だったら、全力で助けてくれる?」
「もちろんですとも。命にかえても、お護りします」
抱きかかえられているせいで、彼の声がいつもより近い。
イヴは諦めた様子で小さく溜息を吐き、アルベールが運びやすいようにと、彼の首に腕を回した。
――そんな訳でこの日から、イヴ・ヴァネルの結婚相手探しが、本格的に始まったのである。
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