第5話 美人って線香花火に似てるよな。本当はすっごく危ないとこばっかりのに、みんなうわべのキレイさにだまされて気づいてないんだ。 ①







 夕暮れ時の、寒い寒いコンビニ前で、


「昨日はありがとね」


 彼女がそう言って、可愛いポチ袋を手渡してきたもんだから、僕は手を伸ばした。

 こちらがありがとうというのはおかしいけれど、助かった。これでいつもの生活に戻れると、その時の僕は手放しで喜んだ。その時までは。




 ――金を貸すときはあげるつもりでやれ。


 もはや常識になりつつあるフレーズだけど、僕の場合もやっぱりそうで。

 明日になれば、もしかすると例のアイス代が返ってくるかもなんて、そんな1パックでトップレアを狙うかのような甘い考えは、しょせん画に描いた餅だったか。いざその日になると、哀れなまでにものの見事に露と消えうせた。

 何だか昨日からこっち、今日も朝からついてないし、こんなことなら仮病の一つでもでっち上げ家に引きこもっていた方が幾分マシだったのではなかろうか。

 というか、あれだな。昨晩から女難の相でも出ているのではないのかね。

 昨日から続く、女子絡みのドタバタ。その渦中に投げ込まれれば、日々平穏を願う僕だ。どうにもそうではないだろうかと考えさせられてしまう。

 なんせ、


『……え?』


『無視?』


『いや、え? 無視って、え?』


『だから、』


 朝一の通学路からコレだもんな。


『身の丈にあった生き方をした方がいいわよ』


 ――ちょうど家を出て少し。


 例のコンビニを通り過ぎたくらいで、自他共に打たれ強さには定評のある僕だけど、――思わず顔をしかめたね。

 力任せというかムリヤリというか、僕の目も耳もそっちを向くことを強要されているかのような、――それだけ、背中から聞こえた声には、僕の歩を止めるに充分の威力があった。


『ご近所のよしみ。一言、忠告だけしておいてあげるわ』


 目を向けた先には、意外ではあったけど予想どおり。

 僕と同じ、真新しいブレザーに袖を通した見覚えのある女の子。しかも、誰が頼んだのか級友というオマケつき。

 それなのに、最後に声をかけられたのはいつだったかな。

 同じ教室にいるんだ、声だけは何かの拍子に聞こえてはいたが、それがアイツのモノなのか判断に困るくらいに遠く。

 僕に向けて発せられたのは、ホント、何年ぶりだろう。

 背中にかかるくらいの黒髪をふわりと風に揺らし、通った鼻筋に眼鏡を乗せた少女。

 電柱の隣。影に隠れるように立っていたのは、わざわざ待っていたのだろうか。


 ……いや、それはないか。


 だって、コイツがそんなことをするヤツじゃないと僕は知っている。する意味がないことも分かっている。

 なんせ、彼女とはちょっとした間柄。小学生の間限定だったけど、特別な関係だった。


『き、キナコ』


 ――そこには、僕の “元” 親友がいた。


 不意に出た懐かしい呼び名に、彼女は一瞬息を呑んだようにも見えたが、……やっぱり、キナコは何年経ってもキナコだな。


『……あの、一応言っておくけれど、昔のあだ名で女の子を呼ぶなんて即通報モノよ。今後注意することね』


 ヒドく懐かしさを覚えた反面、凄惨な物言いは健在。これこそ、出会い頭の交通事故みたいなもんだ。

 鉈のような威力を持って思うさま。不敵な笑みを携えて、出た言葉の鋭いこと鋭いこと。僕にめがけて力の限りである。

 一見お清楚かつ、先日、クラスの委員長へと満場一致で抜擢された人格者。

 しかしその実態は、言葉を凶器へと換える能力者であり、心に猛獣を飼い慣らす女。

 これぞキナコだと昔を懐かしみつつも呆れつつ、――目の前でほんの一歩。少しだけ、キナコが距離を詰めるもんだから、あの頃とは別の、香る女性の臭いに戸惑った。

 道路脇に引かれた歩道の中。距離として30センチほどか。

 あらためてまじまじと見ると、やっぱり可愛い。

 ひとりの女子として、とても可愛くなった。クラスの男子が、恋仲になりたいと頻繁に騒いでいるのも頷けてしまう。

 こんなに近づいたのも、何年ぶりだろうか。

 ほんの数年前までは、いつもすぐ隣に居た彼女だけど、それももう楽しかった思い出の一つ。

 くせ毛だった髪もキレイに伸びて、うっすらと化粧もしているように見える。

 あらためてやっぱりあの頃のアイツは、もう僕の記憶の中にしか居ないんだと、少し寂しさを覚えた。

 不意に、ほら。と、キナコの腕が僕に向かって伸びたから、思わず身構えてしまう。


『……もう高校生なんだから、身だしなみくらいちゃんとしなさい』


 どうやら、ブレザーの襟がめくれていたようだ。

 彼女の手が優しく触れ、『はい、キレイになった』一度、フランクに胸の辺りを叩かれた。

 その仕草に、何をされるのかと、緊張で固まった思考回路のせいか。やはり、お礼の一つでも言うのが正解だったのかもしれない。

 さっきよりもまた近く。思いがけない距離にアイツの顔が合ったから、長いまつげと薄い唇に見惚れてしまい、――僕ってヤツは、女なら誰でも良いのか。――元親友とか言っておきながら、これだ。

 この気持ちの悪い感情に、自分自身へと嫌悪感が募っていく。

 油断するとすぐにオタク特有の挙動不審さが露呈しそうになるが、コイツは可愛いとはいえあのキナコだ。そう自分に言い聞かせ、かつ、彼女の両の瞳が僕の目を見て離さないから、負けるもんか。

 ここで目を逸らせばなんだか負けのような気がするから、よくわからないけれど、これだけは、僕のプライド的にもなぜだか譲れない。


『さっきのもそうだけど、私とキミの間柄だから、ぎりぎりセーフというのを覚えておきなさい』


 輪をかけて、キナコも引く気はないみたいだ。またもや、言葉尻の強いこって。

 そんな、ケンカ腰な物言いに、


『あぁそうかい。失礼しましたね』


 反射的に、僕の口調も刺々しいモノとなってしまう。

 だいたい、なんだよオマエとの間柄なんて、あれか? クラスメイトのよしみってことか? それとも、――僕が勝手に勘違いしていた例の黒歴史のことか?

 コイツには、ただでさえ幼少期にしでかしたいくつもの弱みを握られているわけで、特に無様に足掻いたあの日々を、今更、昔なじみだとかなんだとか。ことあるごとにそのことを掘り返されてはたまったモノではない。

 それなら、級友だから仕方なく。そういう体の前者でお願いしたいもんだ。

 それに、揚げ足を取るようだけど、ギリギリセーフならいいじゃないか。アウトならダメだけど、セーフはセーフ。例えギリギリでも問題なしだろ。

 さっきの暴言の意図するトコといい、突然の襲来といい、さっきから今の今まで、態度といい言葉といい、まったくもって何もかもの一切合切が意味分からん。


『なに、その言い方』


『……べつに』


 キナコは少しの間を開けて、唸るように言葉を探すような素振りを見せると、『……ムカつく』ようやく僕の目から視線を逸らした。

 まぁ、どうでも良いけどだとかなんだとか。吐き捨てた台詞に、いちいちトゲがありやがる。

 ったく、こういう可愛げの無さは相変わらずだな。

 見てくれは申し分なく人当たりも良いくせに、昔から僕に対しては好戦的だからさ。

 外ッ面しか見てなかったり、普段を知らないヤツから見れば、その時の勝ち気なネコのような目にイメージを翻弄される事だろう。

 でも、そこは一日の長か。

 腐れ縁ゆえの慣れか、久しぶりのウザ絡みだけど、これくらいならまだ機嫌は悪くないように見て取れる。

 ただ、コイツが何を言いたいのか。この一点だけはサッパリだから、これ以上この場に止まっていても、きっと碌な事にはならないことなんて火を見るより明らか。――初めのうちは面食らっていた僕だけど、そういつまでも主導権を握られっぱなしはおもしろくない。

 もう用は済んだろうと、再び学校へと歩き始めた。

 その行動に映る、僕の感情をどう捉えたのだろう。


『なに? 文句があるなら言いなさい』


 自然と横に並んでキナコも歩き始めるから、……なんでだよ。

 平日の朝だから目的地はおのずと一緒なのだろうけど、おいおい。だからといって、なんで着いてくるんだよ。

 迷惑だと言わんばかりの表情に、ようやく気がついたのか、キナコの声が尖る。


『私は忠告しに来たの。過度な背伸びはヤメなさいって』


『……背伸び?』


『してるでしょ。知ってるんだから』


 なんの話だろうか。


 学力の差が、そのまま会話の難易度に繋がっているのか。コイツが言わんとしていることが皆目見当も付かない。

 キナコと僕とじゃ天と地ほどに差があるのだから、優秀な側がもっと劣った方に気を遣って話をして欲しいもんだ。

 自慢じゃないが平凡な脳ミソしか持ち合わせてないんでね。Qが分からないのなら、Aを返せるわけがない。

 そうこうしてたら、このまま学校に着いちまうぞ。

 僕は良いけど、オマエは困るんじゃないのか? えらい騒ぎになると思うがね。クラスのカワイコちゃんが、キモいオタクと登校してたって――


『――昨日の夜、女の子とコンビニにいたって近所のおばちゃんが言ってた』


『っと、……あぁ、あれか』


 唐突に昨晩の大恥を引っ張り出されたんだ、僕の口から漏れた嘆きの声に、もう一度、キナコの目が鋭く尖る。


『へぇ、否定しないのね』


『……なんで怒ってんだよ』


『は? 怒ってませんけど』


 ……うわぁ、メンドクセェ。


 言いたいことがあるのなら、さっさとハッキリ言えばいいのに、遠回しにグジグジと、小言が多いのは高校生になっても相変わらずか。


『余計なお世話だろうけど、被害者が出てからじゃ遅いから。……キミ、昔からそういうトコ鈍いし』


 バカを相手にするような深い溜息のおまけ付きに、……そりゃどうも。余計なお世話だありがとさん。

 キナコとしても、今までの経験上、この程度では僕が怒りはしないとそう高をくくっているのだろうけど、ったく、それにしたって久しぶりの会話がこれかよ。


『道を聞かれただけだよ』


 どうであれ、僕はこの話を口外するつもりはない。

 内容としては、当たらずとも遠からずだけど、こういう話は尾ひれが付いて収拾が付かなくなるもんだ。そうなるのを見越して、嘘をついてでもとぼけるに限る。

 というか、ヒトの赤っ恥を言いふらすなんざどこのおばちゃんだ、今度文句言ってやろうか。


『……アイス買ってあげてたって』


 ピンポイントで的を射た内容に、僕の背筋は凍ってしまう。

 おい、どこぞのババァ。ドコまで見てた。やめてくれ。


『あ、アイスだぁ? 昨日もクソ寒かったのにか? しかも、万年金欠の僕が奢ってたって、それこそないだろ』


 焦りをムリヤリ押し殺し、間髪入れずベラベラと。

 必死こいて否定はしたが、実際にはあるんだなぁコレが。今更だけど、寒さに強い美女なんて、もしかすると彼女は雪女だったのかも。なんてね。


『その子、とっても美人だったって』


 だから、なんでオマエはそんなに不服そうなんだよ。

 仮に、アレだ。僕が誰と何してようとキナコには関係ないだろうに、わからんヤツだ。


『美人? 誰と美人がイチャイチャしてたって? は、余計にあり得ないね』


 面倒ごとから逃れるとはいえ、自分で言っておきながら、ちょっと悲しくなってしまった。

 アイスの件も、美少女とエンカウントしたのも、両方間違いではないのに、堂々と胸を張れる内容ではないのだから仕方ない。


『本当に?』


 横目でのぞいてくる少女の瞳、


『僕だぞ?』


 この一言で他者が納得してしまうのなら、僕という人間も大概可哀想なもんだ。


『そういえばそうか……キミだもんね』


『だろ』


 まぁ、信じるところがこの少女か。

 ようやくキナコは笑みをこぼすと、


『キミを好きになるなんて、よっぽどの変わり者か、わた……』


 ふと、突然笑顔のまま固まるから、どうしたんだ? 僕まで一緒に足を止めてしまう。


『……わた?』


 電池の切れた玩具のように、急停止。


『わ、わた、……そう、綿ボコリに恋するようなものよ』


 ようやく誰かが電池を入れ替えたのか、それとも再生ボタンを押したのか、何事もなかったように会話を続け始めた。

 さっきの珍行動について、尋ねたいことは多々あるが、それにしたってよくもまぁ、ここまで矢継ぎ早に暴言を吐けるモノだ。


『い、いやー、何はともあれ良かった良かった、安心したわ』


 なんだかんだで色々と僕だけ置いてきぼりで、ご機嫌なところ申し訳ないが、――いったい何が良かったんだろうね。

 こちらとしては、暗に、僕みたいなゴミくずに誑かされている女子がいなくて良かったと、不幸な子なんて最初から居なかったんだねと、そう聞こえるのだが。

 なによりも、コイツの中では “僕=綿埃” の図式が成り立っていることに心底驚いたよ。

 いやはや、小さい頃はあれほど仲良く遊んだ間柄だというのに、コイツには “元” 親友に対する配慮が欠けている。


 いや、自称 “元” 親友か。


 親友だってのはこちらの勘違いって事でとっくに僕の中ではファイナルアンサーが出てるし、キナコからしてみても “誰と誰が親友? 迷惑なんだけど” ってな感じが関の山だろうからね。

 小学生までは毎日のように遊んでいたが、中学に上がってすぐの事件、と言うとコイツからすれば大袈裟だろうけど、大上段からバッサリだもんな。

 交友関係が広がって、女の子の世界というものは、男子のそれよりきっとややこしいんだろう。そんな中、僕みたいなキモイのが周りをウロチョロしていれば、百害あって一利なし。早急に遠ざけるのは至極当然で。

 思い出すのも今更で、個人的には面倒な、あれやこれやがありまして。

 物の見事に、その一件以来それっきり。

 今となっては淡々と、そういう事もあったななんて懐かしく思えるけれど、その時は、幼心にけっこう応えた。

 はじめは、なんでだろう、何かしたかな。なんて悩んでさ。

 しかも、中学生になった途端、女の子って怖いね。髪型の変化や化粧を覚えたのもあるだろう。目に見えてどんどん可愛くなってさ。

 相対的に、取り巻き達も増えていって、男と女で、その意味合いは大きく変わるだろうけど、キラキラとしたヤツの周りにはその輝きの恩恵に預かろうと多くのヒトが集まる。

 そうなれば、言わずもがなだ。

 僕が入るスペースなんざとっくにドコへやら。むしろ、あまりのキナコの眩しさに、結果的には僕側からも避けていって。

 遠ざけようとしたキナコと、遠ざかろうと避けた僕。

 共に逆方向へとベクトルが向けば、疎遠になるのはあっという間。

 そのとき踏ん張って突撃すれば、コイツとの関係性も今より多少はマシだったのかもしれないけれど、でも、それは酷ってもんだ。

 悲しいけどオタクってさ、日陰を好む性質からはどうにも逃れられないんだよ。

 そのうち、誰々に告白されたやら、実は想い人がいるやらのウワサが聞こえてきて、はい終了。

 個人の恋愛話ひとつで、ここまで周りの話題をかっさらうんだ。彼女はいつの間にか雲の上の存在にまで上り詰めてしまったんだなぁと。

 そして。

 当然だよな。こんなに可愛いんだし、僕を除く周りには丁寧だし思いやりもあるし、なによりも、小学生までとはいえ、こんなキモいオタクなんかと遊んでくれたんだ。

 その時に感じた苛つきや焦り、胸の痛み。男はいつまで経ってもクソガキだから、後悔先に立たず、ってさ。

 今思えば、あれが初恋だったんだろうね。嫌われて距離を取られて、それでようやく気がついた。もちろん時すでに遅し。

 コイツの言うように、ただ年齢の近いご近所さんってのが昔からの真実なのだろう。

 気づいたばかりの初々しい恋心は、何もかもが後の祭り。

 僕らしいっちゃ僕らしく、オタクとしても実にオタクらしい。手の届かない輝きに、身の程を忘れ憧れてしまったヤツの哀れで無様な末路。


“あのさ。学校でそういうの、もう恥ずかしいから”


 スタートラインに立つ権利すら与えられず、いつのまにやら失恋してましたってのがこの話のオチだ。

 あれから数年経った今では、いろいろと心情的には大変だったけどさ、それでも時間が解決してくれたのか、なんとか空しい恋心を引きずることなくやっている。

 それなのに。


『……おい、自転車来てるぞ、もっとこっちに寄れ』


『ちょっと、女の子を引き寄せるのならもっと優しくしなさい』


 久しぶりに隣で見るアイツはやっぱり可愛くて、声もノスタルジーを感じるほどには懐かしく、そして、どれだけブランクがあってもあの日と変わらない、この気取らない喧噪が不思議としっくりくるもんだから質が悪い。

 だいたい、あの日突然関係を絶ったのはそっちのくせに、なんだって今ごろになってこうも距離を詰めてくるのか。

 なにか用があるのなら事前にアポを取れアポを。そうすれば、僕は前もって逃げる準備が出来るのだからさ。


『いい? ただでさえ、オタクって女子から見たら気味が悪いのだから』


 どうにか自転車をやり過ごしても、キナコの口撃は終わらない。

 でも、オタクオタクと差別用語のように聞こえますがね、オマエもオタクだったくせに。

 ここまで変わってしまった今でこそ嘘のように思えるけれど、僕の目に狂いがなければ、小学校のあの頃までは少なくともそうだったはずだ。

 キナコとしては、オタクだった過去はキレイに封印してるみたいだから、言いふらすことはないけれど。


『それこそ、今みたいに馴れ馴れしくすれば不気味さで泣かれるわ。一発で事案よ、豚箱よ』


 それだけで一発実刑とは、これまたずいぶん業が深いんだな、僕ってやつは。

 なにもそこまではいかんだろうとも思ったけれど、いや、あながち当たらずとも遠からず。自分のビジュアル的には、偶然が少し重なれば、ありえなくもないのが悲しいところ。

 真横を歩く、角度的にキナコの表情は上手く読めないけれど、ぐいぐいと力強く肩を寄せてくるもんだから、とっくに僕の右肩は他人様の塀を拭く雑巾と化してしまっている。

 せっかくまだキレイな制服なのに、……いや。これはコイツ流の仕返しか。

 言って分からないヤツには実力行使。僕に対して昔から、キナコがやってきたことではないか。

 さっきの発言とも総合すると、やっぱりそうか。コイツも不快だったのかもしれないな。

 まぁ、確かに、自転車を避けるためだとはいえ、予告なしに身体を引き寄せたのは悪手。その前にも、突然の声に驚いたとはいえ、昔の呼び名を口にしたのも、合わせて失敗だった。

 なんだかんだと整理をつけた気になっていたが、彼女が現れてから舞い上がっていたのかもしれない。

 キナコとしては、なんともない日常の一幕に、昔の距離感を引きずっていたのは、結局のとこ僕だけか。


『悪かったよ』


 どこか名残惜しくもあるけれど、僕の過失は少なくはない。

 どちらのせいだと揉めるくらいなら、こういうときはさっさと謝るに限る。

 昔がどうであれ、疎遠になってもう三年近くは経つんだ。今は一時的に関わり合ってはいるが、こんなもん、この場限りに決まっている。

 高校生ともなれば、男女という垣根も大きくなるし、適正な距離感を保つのは当たり前の事だろう。

 それに、せっかく久しぶりに話せたんだ。最後くらいはキレイに終わらせたい。


『何が?』


『もう、気安く触らないし、間違ってもあだ名では呼ばない』


 その言葉に合わせたように、アイツがピタリと歩みを止めるから、壁との摩擦から解放されたのもあって、つられて足が止まる。

 どうした。そう言いかけた僕は、息をのんだ。


『別に悪いなんて言ってないじゃない』


 こっちを向いたキナコの顔は、――ぎゃぁ、何でだよ。


 なぜだか血の気が失せたように青白く、『……なんでそんな事いうのよ』しかも、怒ったようでいて、どこかちょっと泣きそうにも見えたから、……こうなると、僕は昔から弱いんだ。


『あ、安心しろ。次からはちゃんと名字で呼ぶから!』


 何か間違って伝わったのかもしれない。大慌てでもう一度、言い直す。


 いいか。金輪際、絶対に下の名前では呼ばないし、もちろん、“さん” 付けでな。それでも嫌なら、二度とオマエに近づかないと誓ってもいい。


『約束する! 僕の事キライだってのは、ちゃんとわかってるから!』


 そこまで必死にいい終えたとこで、僕の顔を見たままのキナコは、――ゆっくり目を見開き、真一文字に口を結んだ。

 見ると、学生かばんを握る手が、わなわなと揺れていた。

 一瞬にして、自分の背中に嫌な汗が滲むのを感じた。だって、――どうしてだろう。いよいよなにを間違えたのかわからない。

 でも、ひとつだけわかることがある。

 僕は知っている。これはやばい。

 蛇に睨まれた蛙か。動けない僕のネクタイをキナコの手が、おもむろにつかんだ。


 やべぇ、こえぇ。


 ネクタイごと強引に体を引き寄せられる。締まった首に息が詰まった。

 やっぱりそうだ。

 これはあれだ、数えるほどしか見たことない、――キナコのマジ切れだ。

 こうなると、コイツはホントおっかないんだ。

 いくつもの記憶がフラッシュバックし、忘れていた恐怖が順に襲い掛かってくるようで、背中の汗はもう大洪水。

 顔と顔。お互いの鼻先が当たりそうな位置。

 今日一番の近距離に、本当はドギマギするシーンなのかもしれないけれど、今だけは無理だ。美人の放つ怒りのオーラを前にして、ビビりまくった僕の身体は、指の一つも動かせやしない。


『……呼んだら許さないから』


 地の底から響いたような、暗く冷たい声。

 ひぃい。だから怖いって。

 相変わらず良い匂いがするし、顔の出来も抜群。でも、言ってることが理解できなくて、ただただ恐怖しかない。


『あ、あぁ。……呼ばないから。や、約束する』


 朝早くの通学路。

 壁際まで追い込まれた僕はもう一度、助けてくれとの願い込めて、勇気を振り絞って言い放った。

 でも、やっぱりどうにも何かが違うようで、


『あぁもう! あぁぁ! クソっ! バカっ! ボケナスっ!!』


 目の前の少女は、いよいよ怒髪天。クラスでは絶対に言わないであろう暴言に、彼女の純粋な怒りが伝わってくる。


『ち! が! う!』


『ぐぇっ!』


 いよいよ力任せに強引に。キナコの体ごと、僕の背はついには壁に押し付けられて、


『キナコ以外で呼んだら、絶対に許さないから!』


『え?』


『許さないからっ!!』


 ――いよいよ人通りの多くなる、コンビニ脇の通学路。行きかう人たちの中には、同じ学校の制服もちらほらと。


 そんななか、壁に押し付けられた学生がいれば、十中八九、カツアゲかいじめのシチュエーションだろう。

 でも、それが男女で、かつ男子が壁ドンされている側だとすれば、外野からはどう見えるのだろうね。

 助けるという選択肢より先に、何よアレ、と、ひどく情けなく、滑稽に映るんではなかろうか。

 何度も言うが、キナコは美人だ。好みの差はあれど、男なら皆、ある程度の高得点を挙げることだろう。さらには勉強もでき、明るく親切で、周りに気づかいができるスゴいヤツだ。

 そんな子が、こんな場で、しかも僕みたいな何のとりえもなくどうしようもない、見た目の悪いキモオタに吠えたのだ。


『あと! オタクは家だけでやりなさいっ!!』


『えぇ?』


 前から言ってるでしょ! 何度も言わせんな! と、老若男女入り乱れた衆人環視の中、肩で息をしながら『バーカっ!!』トドメと言わんばかりの捨て台詞。

 あとは、疾風の如く言うだけ言って駆けて行ったのだ。


 ……なぁ、おい。わかるかみんな。


 小さくなるアイツの背中を目で追いながら、ただ一人、こんなたくさんのギャラリーの中、取り残されたヤツの気持ちがわかるヒトはいるか。

 誰もが足を止め、気まずそうな雰囲気の満ちた空間で。

 皆が皆、当事者から目をそらすほどにクソダサい状況で。ただ苦笑いするしかない僕の気持ちがわかるやつは、なぁ、どこかにいないのか。

 もう僕は、何が何だかわからない。

 本当に、朝から続いたこの騒動の、端から端までひとつも理解できていない。いや、出来るわけがない。

 何だか頭が痛くなってきた。僕だけが、違う常識の中で生きているかのような、そんな非日常感。


 なんだよと、ひとりごちた僕に、最後まで寄り添ってくれたのは残された彼女の香りだけだった。









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