第十六話「最後の力」3/4
猫の姿に久しぶりに戻って四本足で歩く。ちづるとは入れ替わってすぐに別れた。結局ちづるには酷な選択をさせてしまった。でもこうするしかなかった、私はずっと一緒にいられない、それだけはわかっていたから。
こんな出来損ないの身体がいつまで持つかわからない、まだまだ研究段階の気休めの存在でしかない。
だからちづるには長生きしてほしい、そのためにはこうするしかなかった、これが唯一の正しい選択だった。
異変は礼二さんを檻から出すために連続で入れ替わりの力を使った時だ。酷い頭痛とてんかん発作に襲われ意識が朦朧とした。それからも頭痛は定期的に続いている。
脳が限界にきているのか、身体との相性の問題なのか、いずれにしても発展途上の技術で実験的な研究の産物であるこの身体に、万能な機能を求めるのは都合がよすぎるというものだろう。
兄のところまで行くのが精一杯かもしれない、身体の不調からそんな自信のない気持ちが発露する。
あぁ、兄に会ったら何を言おう、何を話そう、兄と久々にに会うことを思いそんなことばかり考える。ちづるにだけはこれ以上迷惑を掛けたくない、それが一番の願いだった。
そのために私が出来ること、いや、もう気づいているのかもしれない、兄を説得できるのはもう私だけだ、その方法も限られている、兄にはどれだけ感謝すればいいだろう。ちづるが生きているのも、私が生きているのも兄のおかげだ、それでも私は兄を裏切らなければならない。
完璧なものなど最初からできない、安全の保証はどこにもない、それを知っていても研究を止めることは出来ない、それが私が見てきた兄の姿だった。いつも懸命に救いを求めて禁断の研究を続ける強いようで弱い人間だった。
しかし私は考える、それでも踏み込んではいけない場所はある。脳科学という未開の領域への研究、そこには常に倫理の壁が立ちふさがる。それももしかしたら麻生氏の無念なのかもしれない、こうなってしまうことを麻生氏は知っていたのかもしれない。
麻生氏は行き過ぎた研究を止めようしていた、前例のない限りなく可能性の低い処置、私という存在はそんな酔狂な研究の賜物といえるのかもしれない。
*
今ではまるで故郷のような心境さえ浮かぶ大きな病院、ここでどれだけの時を過ごしてきたか。
年の離れた兄を探して病院の中を歩く、やはり一人で歩くのは不安だ、人に追いかけられるのは嫌なのでエレベーターは使わず非常階段の方を使って上の階にある兄の研究室へと向かう。
猫の姿でいれば足音を立てることもなく身軽だ、なんとか人に見つかり、捕まることもなく兄の姿を見つけた。
椅子に座ってパソコンと睨めっこを続ける兄の姿、それはもう見慣れた光景だった。
慌ただしかったこの数か月のことを思えばこの光景も懐かしさすら覚える。私はそんな兄の姿を音も立てずに見つめた。
兄が私のことに気付いたら・・・、話さなければならない、大切なことを・・・、今までの事、これからの事、私の決意を。
私の話を聞いて一体兄はどう反応するだろう、悲しんでくれるだろうか、それとも私のことを縛ってでもなんとかしようとするだろうか、考えれば考えるほど不安は消えることはない。でももう現実から逃げないと決めた、生きるか死ぬかは最後は自分で決める、今までお世話になった人々に感謝を込めて、私は祈った。
「柚季か・・・?」
時間の感覚も忘れるほど時が過ぎて、ようやく兄は私の存在に気付いた。私の兄、白糸隆司には私がただの紛れ込んできた猫ではないことがすぐにわかった。
にゃー」
私は一つ、鳴き声を上げて兄の膝に乗る。兄は優しく私の身体を抱えると人目を気にして奥の個室に入った。
「ただいまです、兄さん」
懐かしさを噛みしめながら、二人きりになって私は話しかけた。
「本当に柚季なんだな、無事だったか、ずっと戻らないから心配したぞ」
白衣の兄は今日は眼鏡をしていた。表情はあまり表に出さないタイプなのは相変わらずで、声は周りの人と話すよりは穏やかで、私が帰ってきたことを歓迎してくれているようだ。
「ちづるに身体を返しました。これで彼女は元の生活に戻ると思います」
そう私が伝えると、兄は一言「そうか」と一言呟いた。深く追求する気はないようだ。
疑いの目がない辺り、やはり兄はちづるにほかの人物が憑りついていたことを知っていたようだ。
「これでアメリカに行く支度も出来た。随分世話になったこの病院ともいよいよお別れだな」
「兄さん、もう出発されるんですか」
「向こうで研究が続けられるようになった。こちらでの用事も済んだ、長居する必要もないだろう」
聞いてみれば兄の行動は予想外でもなかった。日本よりアメリカの方が臓器移植や万能細胞の研究は進んでいるし倫理的なハードルも低い、アメリカは自由の国というだけあって自己責任の範疇で出来る医療処置の範囲は日本より広い。
実際に治療に当たっている研究者と交流すれば新たな可能性も生まれるだろう。助けられる命がそこにあって、それを助けずにいられるのか、よく聞く言葉だがそれは研究の原動力でもあり理由付けにもなる。どんな形であり生き続けることに意味があるというのなら、自分のような存在も許されるのかもしれない。
私は兄の膝の上から机にジャンプにして兄の方に視線を合わせた。
「向こうに行けばお前の新しい身体も手に入るだろう、一緒に来てくれるか?」
次はどんな身体をと考えると胸が苦しくなった。
「それなのですが、わたしはここに残ろうと思います」
私は兄に今の気持ちを伝えた、これはもうずっと決めていたことだった。
「どうしてだ、その身体ではもう限界のはずだ」
兄が焦った口調で言う、研究をずっと続けてきたのだからそれも無理のないことだが、私の意志が変わることはない。
「兄さん、もういいんです。私は十分に生きました、これで最後にしようと思います。
本来人間は心も身体も一つだったはずです、代わりの身体を頼ってまで生きるべきではないと思うのです。それはもう人間ではない、私であって私でないものです、だからこれで最後にしましょう」
「それじゃあ私は一体何のためにこれまで研究を・・・」
「いいんです、これからは自分のために生きてください。誰かを犠牲にしてまで生きるのは間違っています」
兄はじっと私の言葉を飲み込んでいた。久しぶりに帰ってきたのにこんなことを言わなければいけないなんて、研究を続けてきた兄にとってどれほどの苦痛だろう。
私はもうすぐ自分の身体に終わりが来ることをわかっていた、もう終わりの時は近い、ただ穏やかに終わりの時を迎えられればいい、そう思った。
*
兄がスーツケースを持って出掛けるのを見送った。もう兄と会うことはない、兄がアメリカで何をするのか、それはもう分からないけど、口数も少なく、昨晩はあまり飲まないお酒をずっと朝方まで飲んでいた。
「これで兄も自由になれたでしょうか」
ずっと気を張っていたのか、兄がいなくなって一人きりになると急に体が重くなったように力が抜けていく。
「(私の願いは全部叶った、だから、もういいだろう)」
さまざまなネオンの色彩で飾られた夜の街並みをとぼとぼと歩く。
足取りがドンドン重くなっていく、意識も徐々に遠くなっていく、今ならわかる、今までの自分がどれだけ恵まれていたか、こんなにも身体が重いなんて・・・、苦しいのも辛いのも、私はあまり知らなかったのかもしれない、そう思えるほど、ここしばらくは過ごしやすかった。
ちづる達といることが私にとって大切なことになっていたことに気付いて、急に会いたくなった。
ちづるは今のこんな私をどう思うだろう、私との別れを惜しんでくれるだろうか・・・。
そんなことを考えながら、自然と私の足はちづるの元へと向かっていた。
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