太陽の国のカラマックス
松本周
プロローグ
羽田の緑の真ん中で
羽田空港第3ターミナルのバス乗り場の端に、何の番号も付いていない停留所がある。風通しが悪く、熱気が溜まっている。そこにはバスではなく小太りなトヨタ・ハイエースが停まっている。漂う排気ガスに導かれて、俺はその冴えないバンをすぐに見つけることができた。荷物を後部トランクに詰め込んでから車に乗り込むと、乗客は俺一人だけで、運転手は俺が座席に座った瞬間、一言も口を利かずにハイエースを発進させた。効きすぎたエアコンの冷風が、車内にたち込める汗と埃の臭いを誤魔化していた。
運転手がハンドルを切るたびに、きびきびと働く他の車両とすれ違う。それらに比べてハイエースの動きは妙に鈍重で水牛のようだ。曲がるごとに誰からも逆方向に向かっていき、幾度かそれを繰り返すうちに、独りきりになり、雑草が生え放題になっている一角に突っ込んでいった。背の低い緑の壁にぶつかっていくように見えたが、そこには道があった。緑の隙間に微かに敷かれた、細く頼りないアスファルトの道だ。ハイエースギリギリ一台分が通れる幅しかなく、それもほとんど草を撫でるようにして進んでいく。というかこの道は、事実上この車しか通らない専用道に違いなかった。
俺は運転手に向かって話しかけようかどうか悩んだ。俺には分からなかったからだ。自分が空港のどこに向かっているのかも、到着地点が空港の公式な敷地なのかどうかも、この後どれくらいの時間この車に乗っていることになるのかも。だから俺は運転手と多少なりともコミュニケーションをとって、確認するべきである気がした。今俺が置かれている状況は、正しいプロセスに則った結果のもの、つまり公式とは言わずとも過去何度も繰り返されてきたごく普段どおりの手順の途中段階であり、危険や悪意、イレギュラーや作為などとは無縁の状況であると。
しかし、「あなたは空港のバス停に偶然居合わせた単なるおじさんではなく、航空会社のお抱えの運転手なわけですよね?」と男に向かって話しかけることに、俺は躊躇いを覚えた。
それは、第一に質問の内容が馬鹿げているからだが、それ以上に、後部座席から見る男の肩と汚い顎髭が俺に無言でこう語りかけていたからだ、「無駄なことをしゃべるな」。要するに他人を拒絶するオーラで、俺はこの手のオーラには詳しい。大学や会社の飲み会で、記念写真を撮るぞ、ということになると、大体画面の隅っこに、いつもこの中年男と同じ肩のいかり方をした不機嫌な自分が写っていた。
考えた末に、俺は結局話しかけなかった。俺の質問が馬鹿げていようとおじさんが不機嫌だろうと、正直それにそこまで大した重みはない気がしたので、それだけなら適当に声をかけても良かったのだが、よくよく男の顎髭を見つめるにつれ、俺は、このおっさんは日本語を話さないのではないかと思ったのだ。見た目はモンゴロイドで、その辺を歩いているちょっと小汚めの日本人中年男性と何も変わらない。だがたぶん日本人ではない。勘違いかもしれなかったが、男が醸し出すオーラは、話しかけられても回答が不可能なので困る、という意味も含んでいると俺は判断した。だから俺は、エアコンが効きすぎて寒いので温度を少し上げてくれ、と言うことも止めて、半袖シャツの両腕をゆっくりと擦りながら抱えて、窓の外に広がる雑草を眺めた。緑の群れは凶暴な日差しの中で、夏休みを迎えた小学生が騒ぎまわるように、車の脇を駆け抜け、遠慮なく光を乱反射させていた。
光が眩しくなりすぎて目を上げた時、その緑が途切れ、目の前に飛行機が現れた。
アスファルトに陽炎がたち込めるだだっ広い空間の真ん中に、くすんだ緑色の翼を広げたボンバルディアの小型機が佇んでいる。正直言って、それなりにでかいはでかいが、あっけなくてうだつが上がらない印象だ。今乗っている汚れたトヨタ・ハイエースに雰囲気が似ていて、2つはまるで年の離れた兄弟同士のようだ。ハイエースに翼を生やしてそのまま巨大化させたらボンバルディアになるのだろう。だが文句も贅沢も言うつもりはない。無事に飛んで、到着してくれさえすれば構わない。ボンバルディアはせっかく俺を待っていてくれたのだから。比喩ではない。本当に「俺しか待っていない」のだ。
ハイエースが飛行機の鼻先で停車した。たった7段しかないタラップは既に降りていて、脇に立った男がこちらを見つめていた。運転手が俺に振り返り、降りるように顎で促し、俺も顎で頷いた。ハイエースの扉を開いて外に出ると、一瞬で熱風に包まれ、俺は顔をゆがめた。
まだ夏だ。それも完璧な奴だ。
ハイエースの後ろに回ってバックドアを開けた。俺は大小のキャリーバックを一つずつ持ってきていた。俺が小さいほうのバッグを引きずりおろしている隙に、運転手とタラップの横にいた男が俺の隣に寄ってきて、でかい方のキャリーバッグを俺の代わりに地面に下した。俺は、ありがとう、と言った。昔からそう決まっている通り、無口な男というのは見かけよりも親切なのだ。
男二人に手伝ってもらいながら、泥の拭き残しが目立つタラップを登りきったところに、ヘッドセットマイクとサングラスをかけた、また別の男が立っていた。
「アーユーアビジネスマン?」と男は俺に言った。
めちゃくちゃ下手糞な英語だった。
「イエス、アイムアビジネスマン」
俺はそれ以上に下手糞な英語でそう言った。
男はにっこりと笑い、荷物をそこに置け、とすぐ近くを指さした。あたりは大して広くない。貨物機なので、人間のためのスペースはあまりない。仕切られたドアの向こう側には大小の荷物が梱包されてぎゅうぎゅうにつまっている。
今日の貨物は何ですか、と俺は男に英語で訊いた。
「ピアノだよ。たくさんのピアノだ。学校に持っていく」
男はそう答え、そして俺に傍の階段を登るように促した。2階が乗客席になっているのだ。俺は階段を登って行きながら、男たちに手を振ってありがとうと言った。サングラスの男だけが笑っていて、残りの二人は無表情だった。
階段を上った先は寝台特急の個室のような白中心の色合いと広さの空間で、座席が4つだけ並んでいた。そのうち毛布が置かれた座席が一つだけあり、そこが俺の席というわけだった。すでにエアコンが効いていて、外界の音からも少し隔てられた静謐で清潔な空間だったため、俺は無意識のうちに息をついた。
俺は座席についてシートベルトを締めた。キャビンアテンダントもいなければ機内食も無いし、出発前の救命救急や避難経路の説明もない。安全ガイドブックが窓際のラックに入っているのでそれを勝手に読め、というわけである。しかし、LCCの旅客機よりはずっと足元の空間が広くて快適だから特に問題は感じない。
俺が窓の外の青空と緑を眺めていると、サングラスの男が階段を上ってきた。座席にいる俺をのぞき込み、首をかしげて親指を立てるので、俺も親指を立てた。男は満足そうに頷き、何も言わずにすぐにまた下に戻っていった。
やがてエンジンの振動が俺の全身に伝わり始めた。俺はこの振動を感じるといつも眠くなる。間もなく離陸だ。フライト時間は、事前に聴いた限りでは5時間もないそうだ。イーアはもはや国連加盟国だし、日本からの定期便がないだけで、こうして渡航する手段も、極めて限定的とはいえ存在する。だがしかし、イーアまで実際に旅したことがある日本人は、俺の周りには一人もいない。実際日本全体でも、北朝鮮への渡航客よりは多いかもしれないが、マダガスカルよりはずっと少ないだろう。
そういう国へのフライトについて、情報はほとんど何もない。俺の上司が、「あの国は外国人の行方不明者の割合が異常に多いらしい」と全く笑えない冗談を言ったが、それが嘘と言い切れないほど、日本人は誰もこの国のことを知らない。
だから逆に言えば、今俺がどうこう考えても仕方がない。行って自分の目で見て知るしかない。結局、それを知ってレポートすることも俺の仕事の一つなのだ。これから知らなければならないことが山ほどあるというのに、飛行機が無事に飛んで着陸するかどうかまで心配していられない。
俺は目を閉じた。出立の準備で疲れていたし、知らず知らずのうちに俺は緊張していたのだろう。それが体から解けていき、急速に致命的な眠気がやってきた。
飛行機が動き出したのを感じ、眠りに落ちていきながら、最後に俺は思った。
空輸の途中でピアノは壊れないのだろうか? 貨物室に梱包されて並べられたピアノたちの様子を俺は想像した。ガタガタと揺れる室内で、黒い躯体が身を寄せ合って眠っている。
壊れないといい、と俺は思った。壊れていたら、直すために部品を取り寄せようとしても次の直通便は1か月後になる。
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