第38話 一緒に帰ろう

 ヒロキが店長の手を握り返すと、店長も優しく手を握り返してくれた。


「ヒロキくん、今は何も言わないでいいから。ただこうしててくれないかな。手をつないでいてくれれば、隣にいてくれればいいから。今日はヒロキくんと花火を見たいんだ」


 そんなふうに言われてしまっては、ヒロキは何も言い返すことができない。

 ただ静かに、同じように空を見上げる。

 輝く花火を見上げ……時々、店長の横顔を見つめる。花火の明滅に合わせて、その優しげの笑みはよく見えたり、見えにくくなったり。でもずっと店長は笑ってくれている、幸せそうに。


 そういえば一度もやったことがないことがあった。せめてそれだけは最後にやってみたいと、ふと思った。

 ヒロキは花火の音に合わせて深呼吸をした。

 そして口にしたのは店長の名前。


「……ヨウ、さん」


 あたたかい印象の名前。それをずっと口にしたことがなかったから。最後ぐらい呼んでみたかった。

 しかしちょうど花火の音とかぶってしまった。

 聞こえなかったかなと思っていると。店長がこちらに視線を向けた。


「……急に名前だと、すっごく照れるね」


 ヨウが照れ笑いを浮かべるものだから、こちらも顔を覆いたいぐらい恥ずかしくなってしまった。ものすごくドキドキする。呼吸が乱れているけれどこんなに飛び上がりたいくらい、胸の中が幸福感に満ちている。


 ありがとう、ヨウさん。本当にこんな幸せな時間をくれて。


 花火は三十分ほど続いた、夢のような時間だった。

 終わりは名残惜しいけれど、終わらなければならない。

 帰ろうか、とは言わないまま。何気なく二人はゆっくりと歩き出していた。

 もう言わなければならない、ヒロキは意を決して口を開いた。


「ヨウさん……今までありがとうございました。

急で申し訳ないんですけど、僕は――」


 大事なタイミングで言おうとした言葉が途絶えた。なぜならこんな時に自分の携帯が軽快な着信音を響かせたからだ。

 なんだよ、と携帯を手にすると。画面に出ていた相手の名前はタカヒロだった。さっき別れたばかりなのに、なんだろう。


 申し訳ない気持ちでヨウに目配せすると彼は「いいよ」とうなずいた。

 恐る恐る、応答をタップする。携帯を耳に当てるとタカヒロの落ち着いた声が聞こえた。


『すまない、ヒロキ。今、大丈夫か』


「何、どうしたの」


 早く帰れとでも言われるのかと思ったが、こちらからはちゃんと帰るとは言っているのだ。そんな無粋なことはいくらタカヒロでも言わないだろう。相手の言葉を待っていると、通話の向こうから「やっほー」という陽気そうな男の声が聞こえた。やっほーって……。


『ジェイがお前と話したいと言ってな。すぐに話したいらしい。代わってもいいか』


「ジェイが? ……わかった」


 ヒロキが応じるとすぐに電話の相手が代わった。


『もっしもーし! ヒロキ、ごめんね。多分、いいところだったよねー。邪魔してごめんねー』


 さっきまでのひと悶着が嘘のようなイントネーションに、ヒロキは「はぁ」と変な声が出てしまった。ジェイのテンションはよくわからない。


『ヒロキ、さっきは……悪かった。なんかボクもすごく情けないことばかりしちゃったよね。なんか、なんていうか吹っ切れちゃってさぁ』


 何があったのだろう、吹っ切れたとはなんなんだろう。そう思いつつ、ヒロキはジェイの言葉を聞く。


『なんて言うかなぁ。本当くだらないことばっか考えてウジウジしてるよりも、明るい先のこと考えて楽しくやった方がいいんじゃないかなーって。さっきの馬鹿正直な店長を見てたら、そう思ったんだよね、っていうか、ホント異様だよね、あの店長……弱そうなくせに、かなわないなぁと思っちゃった』


「……だから、どうしたの?」


 ヒロキは冷静に問う。隣でヨウが心配そうに見ている。


『あっ、イライラしないでよー。あのさ、ボク、なんだか前向きになれそうなんだ。楽しいことを探してみようと思った。そんな気持ちになれたのは、ヒロキとあの店長のおかげなんだと思う。そこは素直にありがとうって言っておくからね』


 自分で素直と言うな、とヒロキは内心で突っ込む。


『あとさ、ボク、親父に言っとくから。ボクが今後前向きに生きていくためにはヒロキと店長のコンビが必要なんだ。だから二人を離さないようにって、ヒロキのお父さんに言っといてって伝えるから』


 ジェイが何を言っているのか、すぐには理解できず、ヒロキは無言になってしまう。それで感じ取ってくれたのか、ジェイは『だーかーらー』と笑って言った。


『ヒロキは店長と一緒にいていいんだよ。店長の側にずっといていいんだよ。そこがヒロキの決めた居場所なんでしょ。ならばそこにいるべきなんだ。誰にも邪魔されることなんてないんだ。そこはボクが強く言っておくから』


「……嘘だろ?」


 聞き返すと、ジェイは電話の向こうで『えへへー』と意地悪そうな笑い声を上げた。


『ボクが言うんだから間違いないよ。悪いけど親父が文句を言おうものなら、ボクだって親父のことをいいように使わせてもらうよ。ネタはたくさんあるんだ、政治家だしね。親父は散々、ボクを言いように使ってきたんだ。だからボクも使わせてもらわないと不公平じゃない。ボクもヒロキも奴隷じゃなんだ。ヒロキだってやりたいことあんでしょ』


「そ、そうだけど」


『その代わり、またヒロキと店長に会いに行く。店長に本当の笑顔ってやつを教えてもらいたい。ヒロキをそこまで夢中にさせる全てを教えてもらいたい。でもって、いつかヒロキがボクの方を向いてくれたら嬉しいんだけどね』


 誰かさんと同じことを言っているがジェイは改心してくれたらしい。本当にいいのかと思ったが、ジェイは『じゃあそういうことで、まったねー』と言って電話を切ってしまった。


 さすがジェイだと思う。ただでは父親の言いなりにはならないということか。

 でも自分も、父親と対峙してみるべきなのかもしれない。本当に自分が思っていることを本気で伝えてみれば、なんとかなるかもしれない……いや、わからないけれど。

 でもとりあえず――。


「ヨウさん」


「ん、なに?」


「実はその……ひょっとしたら、僕、また帰る場所がなくなりそうです……」


 言葉を濁してそんなふうに言ってみた。ヨウがなんて言うかなーと思ったが。

 ヨウは、ポカンとした表情を見せたあとで、いつもの優しい笑みを浮かべた。


「そうなの? じゃあいつまでもウチにいればいいじゃない。よければ、ずっと一緒にいてくれると嬉しいけど」


 ヨウがこちらに近づいてくる。

 そしてすぐ目の前に来ると、ヒロキの両肩の上に手を置いた。


「もう、ヒロキくんの家みたいなもんだし……いいでしょ。このまま一緒に帰ろう、ねっ?」


 その言葉にヒロキは頬が熱くなるのを感じた。そんな申し出は嬉しすぎるだろ、と自分の全身が

騒いでいた。


 この人と一緒にいられる。本当に?

 嘘みたいだ、いや嘘じゃないんだ。


「ぼ、僕でよければ一緒にいたい、です。ヨウさんと、ずっと……」


 お互いに向き合ったままでいたら。お互いに照れたように笑ってしまう。

 ヨウは肩に置いた片手を移動させ、ヒロキの頬へ触れてきた。

 ハッと、ヒロキの息が止まる。

 ヨウの優しげな表情が、すぐ目の前にあった。


「ありがとう、ヒロキくん……」


 いつも笑顔で優しい言葉をつむいでくれるその唇が自分の唇と重なっていた、あったかかった。

 けど全身が溶けてしまいそうなほど熱くなった。優しいキスだった。


 ヨウは唇を離すと、ふふっと笑った。

 その表情にはいつもの笑顔――いや、それよりも、もっと幸せそうな店長の顔があった。


 もう一度、聞こえた。

『一緒に帰ろう』

 その言葉が、たまらなかった。

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