第22話 ダメじゃない!
もう少しで電車が到達し、ひかれそうになった。
けれど昔、小さい頃に出会った人の言葉をふと思い出して……気づいたんだ。
考えたってくだらないことを考えて悩むより、先のことを楽しみを考えて、笑って過ごした方がいい……そうしてみる価値は、まだ自分にも残されているんじゃないかって。
店長は目を閉じたまま、顔を上げる。その表情はとても穏やかだ――語っている内容とは真逆に。
「人間って単純なのかもしれないね。あれだけもうこの世からいなくなりたいって思っていたのがさ、たったその一言を思い出しただけでスゥッと気が楽になったんだ。それだけ、その人のことが印象的だったからかもしれないけど。そこからは思い直して家に帰ったよ。まぁ、田舎だからね。線路に侵入していたってのが騒ぎになって、それが俺だってバレて、親父にはまたこっぴどく怒られたけど」
信じられない、ヒロキは店長の穏やかな表情を見ながら息を飲む。
店長が自ら命を絶とうとしていた時期があったなんて。その笑顔の裏には計り知れない苦悩があったのだろう。店長はいつも笑顔だけど、この笑顔にたどり着くまでにはきっと大変で、泣くよりもつらかったと思う。
「……その時はそれで、しばらくは落ち着いたんだ。気持ちの浮き沈みは相変わらずで学校もサボりがちだったけど、なんとか中学は卒業して高校に入ったんだ。その時ぐらいから俺の母親が病気になっちゃって満足に動けなくなっちゃったんだ」
店長は一度言葉を止めると、ふぅっと息をついた。あまり思い出したくはないことなのかもしれない。
つらいなら言わなくてもいいよ、と口にしようと思ったが。ヒロキよりも店長が先に口を開いていた。
「母さんはこんなダメな俺のこともね、ずっと優しく見守ってくれた。いつも大丈夫よって声をかけてくれたんだ。けど、母さんが病気になってからは親父が母さんを邪魔者扱いするようになった。家のこともなかなか満足にできないから『
そんなこともできないのか』って、怒鳴られていたな……」
店長の声が暗くなっていた。目を閉じた表情からは笑顔が消え、思い出すのも苦しいと言わんばかりにちょっと強張っていた。
「店長、無理して話さなくても」
「ううん、大丈夫だよ。むしろ聞いてくれる? ヒロキくんになら、俺聞いて欲しい」
胸が痛い。けれど店長は話を聞いてと望んでいる……なら、うなずくしかない。
うなずくと店長は「ありがとう」と儚い笑みを見せ、ゆっくり呼吸をすると、また話し始めた。
高校に入って春も過ぎた頃だった。学校が終わり、家に帰ると母親が苦しそうにうめいて床に横たわっていた。
そばにはそんな母をにらみつけるように父が立っていた。
『暇なくせして家のこともロクにできねぇ。そんなんでお前、他に何ができるんだっ!』
父は母に罵声を浴びせた。何も言い返せず、母はただ小さくなっていた。
そんな母に、父がさらに掴みかかろうとしていたかは、それはダメだと思ったヨウは慌てて間に入って止めた。
『やめてよ、母さんは悪くないよ』
『役に立たねぇガキが出しゃばるな! ジメジメとカビが生えそうな性格しやがって。特に成績も伸びて目立つ活躍もしてねぇ。本当にお前は昔からダメなやつだ、何一つできやしねぇ。こんな母親と一緒にとっとといなくなっちまえよ!』
父は息子の自分を壁に突き飛ばし、さらに殴りかかろうとしてきた。
そんな父をヨウは無我夢中で突き飛ばし返していた、それは命の危機に対する防衛本能だったのだろう。
今度は父が思い切り壁に背中から激突した、家全体が振動するほどだった。
衝撃に父の身体から力が抜け、身体のバランスが失われた。その時、近くにあった家具の角に頭を打ち、床に寝転んでしまった。打ちどころが悪かったのか、父はすぐには動かず、仰向けになって白目を向いている。
母は何事かすぐには理解できたかったのか、横たわった上半身を起こしながら唖然としている。
『お、俺は、なにも、してないよっ』
そこでヨウは怖くなって逃げ出してしまった。
夢中で走ったからどこまで来たのかわからない。
気づいてみれば知らない場所で、人気のないところでうずくまっていて、知らない警察官に声をかけられた。
それは父を突き飛ばしてから二日ぐらいが経った時のことだ。警察署に連れていかれたヨウは、そこでとんでもない事実を知ってしまった。
父と母が死んだ。
あの一件のあと。父は、まだ命を失ってはいなかったのだ。
だが息子に痛い目に遭わされ、逆上した父は怒り任せに母の首を――。
そのあとですぐ警察に捕まったのだが。頭を打ったのに病院に行かなかったことが災いして容態が急変。警察署内で取り調べ中に意識不明になり、搬送された病院で亡くなったという。
結果的には自分が父と母を命を奪ったのだ。そうだとは周りには言われなかったが。自分はそうだと確信していた。望まなかったにせよ、自分の手で招いてしまったことなのだ。
ひとまず自分の犯してしまった罪は父への暴行と言われ、更生施設に入れられた。高校は中退せざるを得なかった。
しばらくしてから祖父母に引き取られ、高校は通信教育で通うことにして、日中は祖父母の勧めでスーパーでバイトをしていた。
最初こそ周囲からは怪訝な視線を向けられてきたが、真面目に働いていたことが功をなし、次第にスーパーの利用客や地元客に受け入れられるようになった。
そして今の自分があるのだ。
「これには感謝しかないよ。こんな良い仕事を残してくれた祖父母には……それにこの仕事が嫌いじゃないけれど。呆れるくらい俺は他のことは何も取り柄がないから。だからダメなやつなんだよね」
その言葉にヒロキが胸がざわついた。
「俺はヒロキくんみたいになんでもできない、強くもないから。なんでも出来るヒロキくんが本当にうらやましい……いや、ヒロキくんも嫌だったろうけど、なんでも経験できたからこそ、今のヒロキくんがあるんだよ。ヒロキくんはこれから先なんでもできると思う……ダメな俺なんかと違うから」
頭にカッと血が上った。
「ダメなんかじゃないっ! あんたの笑顔は最高だ! あんたの笑顔が僕は大好きなんだ!」
思わず叫んでしまった。
叫んで数秒してからハッとした。なんてことを言ってしまっているんだ。隣に座っている店長が 唖然としているじゃないか。
でも、言わなきゃ、伝えなきゃ、今っ。
「そんなことを言わないで、店長。店長はダメなんかじゃない。僕は店長がうらやましい。そんなに素敵に笑えている店長が……。
過去に何があったにせよ、今は周りに必要とされている。けれど僕はそんなことなかった。ただ家に置いてあっただけだなんだ、物みたいに。何も自分で望んでやったりしてこなくて、人形だった。だから心から笑えなかったんだ。だから僕はあんたがうらやましい」
必死になっていたのでヒロキも肩で息をしていた。呼吸を繰り返していると店長が、不意に笑い出した。今この場で笑うのか、と思ったが。店長は愉快なことでもあったように大笑いした。
真に受けてもらえなかったのかと一瞬思ったが、そうではない。そうじゃない笑顔がある。
「ヒロキくんが思い切って言ってくれたのに、笑ってごめんね」
謝ってる、と。ヒロキは苦笑いしたい気分だった。
しかし店長は次の瞬間、予想外の一言を放ったのだ。
「ウジウジするな、笑えばいい」
……え? 今なんて?
それは自分がモットーとしている言葉。
小さい頃から、家のスパルタ教育に耐えて育った心を奮い立たせてきた自分自身への言葉。
それを店長がなぜ口にしたのか。
店長はその言葉を口にしたあと、思い返すように、なつかしそうな表情で笑っていた。
「ヒロキくん、前に言ったでしょ。俺にはたった一度しか会ったことがないけど、全く知らない子だけど。俺を助けてくれた素敵な子がいるって。その子がね、泣いていた俺に言ってくれたんだ。
『ウジウジするな、笑えばいいんだ』って。その言葉はね、ずっと俺の支えになってくれてたんだ
。弱音を吐きそうだった俺をね、いつも奮い立たせてくれたんだ」
……店長、じゃあ――。
その事実に気づいてしまった時、ヒロキの心臓は一際大きくはずんだ。一気に身体中に血が巡り、熱くなった。胸の中がバクバクしていて息苦しい。そんなまさか、嘘だろ。
でも目の前で少し頬を赤く染め、照れたように笑う店長は、なんなのだ。
店長は好きなのだ、その子が。
助けてくれた、その子ことが。
その子は、今は――。
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