5、大学一年生
断層がずれた時、亮介の世界もずれてしまった。まるで別の世界に迷い込んでしまった。そんな感覚に陥った。
この日、亮介はなんでもない金曜日を過ごしていた。場所はとある都内のキャンパス。さすがに東京大学ではなかったけれど、東京に住むことになって、はや一年。一〇分に一本やって来る電車の感覚が身体に馴染んできていた。
けれど、東京まで来て自分は何がしたかったのだろう。亮介には分からなくなっていた。背中を押してくれた人には感謝している。けれど、毎朝電車のなかで押しつぶされそうになりながら、一時間かけてキャンパスに行く暮らしの何がいいのだろう。揺れるたびに、
街を歩けば嫌になるほどの人の波。こんなのの何がいいんだろう。そのうち、どうして東京が日本の首都なんだろうと考えることも少なくなかった。首都直下地震が来るって言われているのに、相変わらず東京への一極集中が変わる気配はない。足元で巨大な怪物が口を開けて待っているのに、どうして平然と過ごせるんだろう。
――コトン。
机からスマホが転げ落ちる。最悪だ。画面割れてないよなぁ。そんなことを思いながら拾い上げると、一件の通知が来ていた。一体なんだろう。友達から「今夜ひと狩り行こうぜ」とのお誘いだろうか。画面が割れてないことに一息ついては、そんな軽い気持ちで、通知に目をやって……。
世界の断層がズレた。
二〇一六年、一〇月二一日、一四時七分。
震源、鳥取県中部。
マグニチュード六・六。
最大震度六弱、倉吉市、湯梨浜町、北栄町。
正直、この後のことを、
きっと大丈夫。何事も無いにきまってる。ちょっと揺れが大きくてびっくりした。そんなふうに電話の向こうから応えてくれるに決まってる。けれど、返って来るのは「大変混雑しております」のアナウンスのみ。実家の電話も、父親の携帯も、何一つとして答えてくれるものは無かった。
「どうして……」
かつて悍ましいと名付けた感情が、地面から這い上がってきて、背筋を駆けた。そうして脳裏に映し出されたのは、村の家々がへしゃげている情景。山の斜面に立てられた寺は土砂で押しつぶされて、墓石という墓石は地面に転がって四散する。そんなありもしない情景が思い浮かんで、そんなわけないとスマホの画面に同じ番号を叩きつけ続けた。
――私は守りたい。
その時、僕の脳裏に誰かの声が響いた。そうだ、LINEがある。LINEなら通じるかもしれない。そう思って、僕は声の主に連絡を入れようと思った。あの子なら、答えてくれるかもしれない。大丈夫って言ってくれるに違いない。だから、あの子に……。
あの子?
あの子って……?
「あれ……? 名前……?」
LINEのトーク履歴から■■■■の名前を探す。けれど、はっきり言って、僕はこの時のことをよく覚えていない。よく覚えていない。だから、トーク履歴から■■■■の名前が空気に溶けるように消えていく瞬間を見てしまったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。代わりに、通知が1件。同じく県外にいる友達からだった。
『まぁ、落ち着けよ。慌てたってどうしようもないだろ?』
「はぁ? なんで落ち着いていられるんだよ!?」
この時の僕は、よく分からないことを騒ぎ散らしたと思う。落ち付くように諫めてくれた友達に対して、訳も分からず当たり散らしたと思う。
やがて、犠牲者ゼロという数字が伝えられたけれど、僕の心にはぽっかりと穴が空いてしまった。どうして、僕は東京にいるんだ。どうして一人だけのうのうと過ごしているんだ。大切な時にいられなかった。一番いなければならない時にいなかった。
僕は故郷を見捨てたんだ。
*****
僕が鳥取に帰ったのは、年の瀬だった。
僕が初めて倉吉の状況を目の当たりにしたのもこの時だ。人の噂も七十五日というけれど、その頃になると東京の友達は鳥取の地震のことなど忘れてしまっていた。死者ゼロ――それが震災のインパクトを薄めることになったのかは分からない。けれど、覚えていないからと言って責める気にはなれなかった。それよりも、何も出来なかった自分の方こそ責められている気がした。何もしなかったくせに、帰っていいのか。そんな気持ちもあった。
なるほど、家族は僕に心配させまいとしたのだろう。実際に状況を見ると、聞かされていたよりも爪痕が残されていることを知った。瓦が剥がれて、ブルーシートが敷いてある家が目立った。倉吉には、白壁土蔵群という国の重要伝統的建造物があるけれど、その壁も剥がれたりヒビが入ったことも知った。そんななかで、見ず知らずの大学生が県外からボランティアに来ていたなんて話も祖母から聞かされた。何も知らず、何もせず、傷ついていないのは僕だけだった。
「ごめんなさい」
謝りたかった。
けれど、誰に謝ればいいのか。
誰に謝るべきなのか。
最初に脳裏に浮かんだのは――
*****
駆けだしていた。
もう名前も思い出せない。本当にいたのかも分からない。けれど、もしいるんだとすれば、彼女はあそこにいる筈だ――ばんださんに!! それが、彼なのか、彼女だったのかも、もう分からない。何も分からない。だけど、大切な何かが待っていてくれる。そんな気がして、駆けた。
もし世界の広さが、自転車で行ける範囲だとすれば、
闇を切裂いた。小学生のころから知っている道を、中学から使ってきたチャリンコで。
それは、坂を上った先に開けた空。宝石を散りばめたような満天の星空に息を呑む。シリウス。プロキオン。ベテルギウス。それから、リゲル。それだけじゃない。名前の知らない小さな星の声まで、いまははっきりと聞こえた。あれ? 夜空ってこんなに綺麗だったっけ? 東京に行ってから、空なんて見上げなくなった。それがどうだ。気がつけば、僕は自転車から降りて手で押しながら空を見上げていた。もうここに闇はない。空の色は、君の魂と同じ色をしていた。
――あれが、アルデバラン。あっちは、プレアデス星団だね。
星と歌っていた。もう、名前も分からないし、姿もよく分からない。けれど君は、かつての日と変わらない様子で、岩の上に立っていた。変わったのは、僕とそれから岩の位置だった。境内にあった筈の岩は、地震の揺れで参道の方へ転がって行ってしまっていた。
――私は守りたい。
鳥取中部地震。
負傷者三十二人。
死者ゼロ。
僕は何も出来なかった。何もしなかった。大切な時に傍にいなかった。けれど君は、ずっとそこにいて、ずっと守ってくれてたんだ。そっと岩に触れれば分かる。その岩には、もう石碑としての役割はなく、いまやまるで地下で蠢く怪物を封じた要石であるかのように参道に鎮座している。
「久しぶりだね……って、声聞こえてるのかな?」
「……ごめん。名前、もう分からないんだ。誰だったのかも、もう分からない」
「ちょ、何泣いてんの」
「泣いてないよ」
「さては、東京で嫌なことあったんでしょ。嫌になったらいつでも、帰ってくればいいからね」
もう、やめてくれ!! 気がつけば、僕は岩に
「私は、こうなっちゃったから……もう離れたくても離れらんない」
「なんでそうなるんだよ!? だってお前は……」
■■■■は、僕が来るのを待っていてくれた。下山するころには、消えてしまうのだろう。■■■■なんて人間は、いなかったことになる。そう直観が告げていた。卒業アルバムからも、名簿からも消えて、いつか母親が話してくれた二十一人目になる。声も聞こえなくなって、存在すら知覚できなくなって、やがて記憶からも消えて行ってしまうのだろう。
「お前は、それでいいのかよ!? こんなボロっちい田舎なんて捨てちまえよ!!」
「そのボロっちい田舎に、亮介はどうして帰って来たの?」
「僕が残る!! だから、お前こそ東京に行けよ!!」
「えー、東京に行ったら首都直下来るよ?」
「地下の怪物なんて僕がやっつけてやる!!」
「あはは、強いんだね。でも、人間には無理かなぁ」
私は亮介の帰ってくる場所だよ。そう言われた気がした。もう、声もよく聞こえなかった。でも、心配しないでって言ってるのだけは分かった。
鳥取県は小さな県だ。倉吉市は小さな市だ。そんななかにある小さな神社。その地に残るばかりが支えることじゃない。帰ってくる人がいるから守れる。
夢は今もめぐりて
忘れがたき
こころざしをはたして
いつの日にか帰らん
「羽ばたいてこい、世界に。んで、でっかくなって帰ってこい!!」
もう声は聞こえない。存在も認識できない。どうして、寒いなか一人で訳も分からず涙しながら岩にしがみついてるのかも、本当に分からなかった。だから、もしかしたら、これは最初から最後まで僕のただの妄想だったのかもしれない。――けれど、星空の下で、岩が微笑んでいる気がした。
「手ぶらで帰ってきたら許さんけぇ」
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