1、小学一年生

 亮介りょうすけが小学一年生だったころ、世界の広さは自転車で行ける範囲だった。だから、山の上から見えるものが、すべてだった。


 もちろん亮介は、地球が丸いことを知っていたし、自分が住んでいるのは日本という小さな島国の、さらに鳥取県という小さな県のなかだと知っていた。そして郵便物に住所を書くときなんかは、さらにそのあとに「倉吉くらよし市」と続けなければならないことも知っていた。けれども、市の中心地にまで車で三〇分近くかかる山間部に住んでいた彼にとって、親戚の家までの道のりはちょっとした旅行だったし、県外に行くことと外国に行くことに大きな違いはなかった。幸か不幸か、県内に羽合ハワイという地名があったことも、幼い彼を混乱させるのに一役買っていた。


 自転車で行ける場所が世界の広さ。行く方法も手段も分からないなんて場所は、天国や涅槃と同義だった。存在するのかもしれないけれど、世界のさらに向こう側の話だ。そんなあるのかも分からない場所の話よりも、亮介にとっては全校生徒七〇人弱によって作り出される世界のほうが重要だったし、もっと言えば一〇人弱のクラスのなかでの立ち位置の方が、彼にとってのほぼすべてだった。


「なんか面白い話してよ」


 ある日の下校途中、亮介は■■■■おそらく女の子?に話を振られた。その子は、世界で四番目に高い山――の近くに住んでいる子で、一緒に下校することが多かった。ちなみに、一番高い山はエスト、二番目は富士山、三番目は大山だいせん。そして四番目に高い山が、ばんださんであり、世界の端っこにある山だった。山の向こう側には、別の小学校区が広がっていたから、亮介にとって山越えは、未知の世界へ行くことを意味していた。


「これは僕のお母さんから聞いた話なんだけど――」

「えー、怖い話?」

「小学生のころ二〇人で遊んでたんだけど、途中から二一人に増えてたんだって」


 山へと帰っていくカラス。そんなふうに、増えていた二一人目も夕暮れのなかへと帰っていった。また明日ね。そんなふうに言いながら。見た目も、雰囲気も、普通の子どもと何も変わらなかったという。だが、そのことをお母さんが母親(つまり亮介にとっては祖母)に話したところで、山の方に住んでる子なんていない筈だということで、幽霊が混ざっていたことが発覚したのだという。


 ちょっとした怪談。けれど亮介は、母親の不思議体験をまるで自慢話のように話したものだから、まったく怖い話にならなかった。目の前で話を聞いていた彼女は、拍子抜けといった表情を見せたが、とはいえ亮介もまた初めから怖い話をする気などさらさらなかったから、勝手に期待されてもという表情を返した。


「本当にいるのかなぁ……」

「もし会ったら、亮介くんはどうするの?」

「会ったら、やっつけるから大丈夫!!」

「あはは、強いんだね」


 亮介の言葉は、頼もしかった。未知のものを恐れるからこそ、倒すという発想になるのは仕方ないのかもしれないし、ヒーローに憧れる年頃だったからこんな言い方になってしまうのも仕方ない。けれど、本当に怖いのは、オジさんに見える高学年の先輩や、もっと言えば同級生の女子の方だった。クラスの女の子たちは、何と言うかみんな強烈な子たちで、男女の間には敵対関係が出来上がっていた。だから、二人で仲良さそうに帰っているのがバレようものなら、吊るしあげにあうこと待ったなしである。ドラマを見て恋を知った気になった女の子たちによって、教室に二人きりにさせられて閉じ込められる。そんなイジめが待っていることを亮介は知っていた。


「東京に行きなよ」


 唐突に、■■■■はそんなことを言った。 


「亮介くんは、こんな狭い場所にいちゃだめだよ。亮介くんは頭いいから、東大に行けると思うよ」


 たぶん彼女は本気でそう思っていた。実際、世界には三つしか大学は存在しない。ハーバード大学と、東京大学と、鳥取大学だ。けれどこれは、子どもの世界に限った話ではなく、この集落の大半の人間が持っている世界観だった。それどころか、のちに――具体的には九年後に、亮介が進学することになる自称進学校の高校でさえも、根強い国公立信仰がなされていて、私立大学などはあたかも存在しないかのように扱われていた。


「鳥大に行くよ」

「えー、東大にしなって」

「東京は遠いと思うし……」


 遠いと言った亮介だったが、具体的な距離を訊かれたら、たぶん鳥大の二〇〇メートル先と真顔で答えたかもしれない。それくらい、つい一年前までお昼寝の時間があった彼らには、よく分からない世界の出来事だった。


 分かっているのは、一番立派な神社が、ばんださんの上にあるということ。ばんだいなり神社といって、亮介の住む集落の夏祭りはここで行われる。世界で一番きれいな花火が見れる祭りだ。


 彼らにとっての世界はそんなものだったし、それでよかった。


 それでよかったんだ。


「また明日ね」


 彼女はそう微笑んで、夕日と一緒に山の麓へと消えていった。







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