地球最期の日は、桜の香りがした。
森田碧
第1話
「それでは最後に、校歌斉唱です」
教頭先生が噛み締めるように言うと、卒業生たちは一斉に立ち上がる。
スピーカーから聴き慣れた明るい曲調が、紅白幕に包まれた体育館に響き渡る。
卒業証書を胸に、ぼろぼろ涙を流す生徒の姿もあった。
この三年間を思い返して感極まった、だとか。
大切な仲間たちとの別れを惜しんで、だとか。
そんなありきたりな涙なんかじゃない。
間もなく訪れる、死への恐怖からきた涙。
あるいはこの一年間、差し迫る絶望から解放された安堵の涙。
そんなところだと思う。
校歌を歌いながら、私の瞳からも涙が零れ落ちた。
今から約一年前、世界中に激震が走った。
小惑星が地球に衝突するというニュースが全世界に発信されたのだ。
のちの研究で、日本時間の三月三十一日、午後十二時十六分に地球が消滅すると発表された。
──かつて恐竜を絶滅させた規模と同じ、直径十キロメートルの小惑星が地球に衝突する。
──落下地点は太平洋のど真ん中で、日本列島は高波に呑まれ、沈没する。
半信半疑だった人々は、続報が出るたびに事態の深刻さに気づく。
そこら中で殺人や強奪などが横行していき、終わりの日が近づくにつれ、世の中は荒れ狂っていった。
特に問題視されたのは集団自決だった。死の恐怖に耐え切れなくなった人々は、次々と自決していった。
『みんなで死ねば怖くない』
そう謳ってネットで集団自決を募る輩も出始めた。
そんな中、日本の医療研究チームが開発した、服用すると苦しまずに死ねる薬が話題になった。
服用してから約一時間後、眠るように死ぬことができるという。それが二ヶ月前、全国民に配布されたのだ。
私の母は薬が届いた直後に服用し、この世を去った。
哀惜の涙はなく、無感情で母の死を見届けた。私は母の後を追うことはせず、黙々と彼女の亡骸を庭に埋めた。ちなみに父は半年前に首を吊って死んだ。
そして二週間前。私が通う中学校の生徒会長で、幼馴染でもある朱莉から連絡があった。ガスや電気、通信などのライフラインが生きているのは、この狂った世界の中で唯一の救いだった。
「ねえ美波。やっぱり卒業式、やりたくない?」
朱莉の提案に、私はあまり気が進まなかった。地球が消滅する日に卒業式をしたいなんて、とうとう彼女も気が狂ってしまったのだと思った。当然ながら卒業式は中止になり、学校自体長らく休校になっている。
「そうだね」と無難に返事をして電話を切った。
その十日後、再び朱莉から連絡があった。
「卒業式やることになったから、美波も来てね! 例の薬も忘れずに!」
彼女の話では、担任の先生や校長先生はすでに自決していたようで、なんとか連絡の繋がった教頭先生に頭を下げ、卒業式を敢行することになったらしい。
今日集まった生徒は十八人。私たち中学三年生は全部で百二十九人いるはずなのに、大多数の生徒とは連絡がつかず、小規模の卒業式となった。
すでにこの世を去ったのか、あるいは最後の日くらい家族と過ごしたいのか。
この日集まったのは家族を失い、一人孤独と闘っていた可哀想な生徒たち。卒業式が始まる前に朱莉がそう言っていた。
その朱莉の両親と兄も、三ヶ月ほど前に暴漢に襲われ帰らぬ人となった。
卒業式開始直前に、私たちは薬を服用した。
みんなで飲めば怖くない。そう言いながら一斉に飲んだ。私もなんの躊躇いもなく、風邪薬を飲むようにあっさりと胃に流し込んだ。高波にさらわれて溺れ死ぬよりはましだと思ったから。
飲み始めてもうすぐ一時間が経つ。薬の効き目は人それぞれで、早い者は三十分が過ぎた頃、自分の卒業証書を受け取る前に倒れ、一足先に逝った。
卒業式終盤、校歌斉唱の前にすでに六人の生徒が倒れていた。
時刻は午後十二時十一分。地球消滅まで、残り五分。
「美波、まだ大丈夫?」
隣に立つ朱莉が訊いてきた。身体に異変はないか、という意味だろう。
「うん、まだ大丈夫。朱莉は?」
「あたしもなんとか、ね。それより、あれ見て」
朱莉が指差したほうに目を向けると、ステージ脇のマイクの近くに立つ教頭先生が、ゆらゆらと身体を揺らしていた。おそらく、薬の効果があらわれたのだろう。
ほどなくして教頭先生はマイクスタンドとともに膝から崩れ落ち、スピーカーからはハウリング音が鳴り響いた。
「教頭先生、死んじゃったね」
「うん、そうだね」
人の死に慣れてしまった私たちは、横たわる教頭先生を無感情で見下ろす。動揺する生徒は皆無で、何事もなかったように校歌を歌い続ける。
「涼くんとは、ずっと連絡取れてないの?」
朱莉が言いづらそうに訊いてくる。
「うん。たぶん、もう死んじゃったんだと思う」
ため息交じりにそう返した。
同じクラスの涼くんは小学校の頃から一緒で、私の恋人でもあった。
一年前の全世界を震撼させた地球消滅のニュース。その二ヶ月後に涼くんに告白され、私たちは交際を始めた。もうすぐ世界は終わるから、遊び感覚で付き合いだす連中とはわけが違う。私は小学生の頃から涼くんのことが好きで、彼もまた同じだった。
「小四の頃、同じクラスになった時からずっと好きでした! 地球が滅ぶ瞬間まで、一緒にいてください!」
涼くんは顔を真っ赤にして私にそう言ってくれた。私は泣きながら、何度も首を縦に振った。
それから数日後に、涼くんと初めてのデートがあった。私はうんとおしゃれをして、三十分も前から待ち合わせ場所で彼を待っていた。
しかし彼は来なかった。一時間、二時間待っても、涼くんは姿を見せない。連絡をしても一向に繋がらない。その日は諦めて帰宅したけれど、その後一度も彼と顔を合わせることはなかった。
私は暴漢に怯えながら毎日のように彼の家に通い詰めたけれど、涼くんどころか彼の両親にすら会えずじまいだった。
「美波? 大丈夫?」
朱莉の声にハッと我に返り、「うん、大丈夫」と笑ってみせる。つい考え込んでしまっていた。
涼くんたちは、一家心中したのだと私は結論づけた。
「やっぱり嫌だ! 死にたくない!!!」
その時、前方から女子生徒の金切り声が聞こえてきた。彼女は床に膝をつき、指を喉に突っ込んだ。薬を吐こうとしても、絶対にもう遅いだろうに。
ぐええ、と動物のような声とともに黄色がかった胃液を床にぶち撒ける。長い髪の毛は吐き出した胃液に濡れ、頬に張り付いていた。
やがて彼女は動かなくなった。それを皮切りに、残された生徒たちも次々に倒れていく。一人、また一人と、音もなく散っていく。
「美波、あたしもそろそろやばいかも……」
額を押さえながら朱莉はゆらゆらと身体を揺らす。目は虚ろで、薄っすら開けた口元からは涎が垂れていた。
「さようなら、朱莉」
私が言い終えた直後、朱莉は床に倒れ、穏やかな表情で息を引き取った。
気づけば立っている生徒は、私一人になっていた。この世から卒業した生徒たちを祝福するように、校歌は大サビに突入する。その明るい曲調は、今は妙に不気味で恐怖さえ感じた。
こんな死体だらけの場所で死ぬなんて嫌だ。
そう思った私は、体育館を出て校庭へ向かった。
そこには大きな桜の木が、満開の花を咲かせてそびえ立っていた。
もうじき世界は終わるのに、それでも桜は咲くんだな、と口元が緩む。
桜の木の下で死ぬのも悪くないかもね、と思ったその時、視界がぐにゃりと歪んだ。
突如私の世界は輪郭を失い、意識は混沌とした空間へと攫われる。
──この薬を飲むと、死ぬ直前に幻覚を見ることがある。
以前、そう聞いたことがあった。
だから私は今、約束の場所で涼くんを待っているんだ。
気がつくと、私は彼と待ち合わせした場所に立っていた。駅前のへんてこなオブジェの前。空は晴れ渡っていて、眩しい太陽は私にスポットライトを当てるように優しく照らしてくれている。
「美波、遅れてごめん」
聞き覚えのある、懐かしい声に振り返る。いるはずのない涼くんの姿が、そこにはあった。
手を繋いで、私たちは誰もいない道を歩いていく。
すぐに場面は変わり、桜吹雪が舞う中を私は歩いていた。隣には朱莉がいる。見たこともない茶色のブレザーに身を包み、彼女は笑った。
「高校でも同じクラスになれてよかったね。涼くんも同じクラスだし、またみんなでたくさん思い出作ろうね!」
満開の笑顔で朱莉は言った。私が返事をする前にまた場面が変わる。
「美波センセー! 遊ぼー!」
小さな子どもたちが私の周りに集まってくる。辺りを見回すと、そこはどこかの幼稚園の敷地内にある砂場だった。
そっか。私、幼稚園の先生になれたんだ。将来の夢、叶ったんだ。
またすぐに場面が変わり、今度は教会にいた。神父さんがいて、振り返ると私の家族、朱莉の姿もあった。
「美波、幸せになろう」
私の目の前にいたのは、大人になった涼くんだった。私の手を取り、薬指に指輪をはめてくれる。そして誓いのキス、とはいかず、またしても場面は飛ぶ。
昼下がりの公園を、私と涼くんが並んで歩いていた。涼くんは小さな女の子を肩車して、二人とも賑やかに笑っている。
きっと私たちの娘なのだろう。やっぱりこれは、私の理想の世界なのだ。私が歩むはずだった未来。地球にわけの分からない小惑星が降ってこなければ、この輝かしい未来に辿り着くはずだったんだ。
そう思うと悔しくて、じんわりと目頭が熱くなった。一粒涙が零れると、あとは止めどなく頬を伝い流れ落ちていった。
「ママ、どうして泣いてるの?」
私の娘らしき女の子が、きょとんとした表情で訊いてくる。名前も知らない我が子を抱き上げ、私は身も世もなく泣き続けた。
当たり前に存在していた私の世界が、どうして壊れてしまったんだろう?
永遠に続くと思っていた私の毎日は、どこに消えてしまったんだろう?
お父さんにお母さん、朱莉に涼くん。私の大切な人たちを、私が手にするはずだった幸福をどうか返してほしい。こんなことになるのなら、もっと一日一日を大事に生きるんだった。
今になって無駄に空費した日々を後悔した。何もかも、もう手遅れなのに。
その時、激しい振動とともに私の理想の世界は崩れ去っていった。
ハッと我に返ると、桜の木が私を見下ろしていた。起き上がろうとしても身体は動かない。
この揺れは地震だろうか。いや、小惑星が降ってきたのか。
崩壊していく世界の中で、私は涙を流しながらひらひらと舞い落ちる桜の花びらを見つめていた。
ふと気がつくと、私に手を差し伸べる者がいた。
驚きのあまり、思わず瞠目する。
「……涼……くん?」
死んだはずの涼くんが立っていた。
彼は何も言わず、微笑んで私に手を伸ばす。隣には朱莉もいて、反対隣には私の両親がいる。
四人とも穏やかな表情で、慈しむような目で私を見ていた。
「みんな……どうして……」
救いを求めて私は必死に手を伸ばす。
しかし、伸ばした手は何も掴めない。
降ってきた桜の花びらが、涼くんの手をすり抜ける。
──そっか。これもきっと、幻覚なんだ。
彼らに微笑み返し、私はそっと目を閉じた。
地球最期の日は、桜の香りがした。
地球最期の日は、桜の香りがした。 森田碧 @moritadesu
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