Anh.23『お手をどうぞ』

 ―第6場―

浮泛ふはん髀肉ひにく静謐せいひつ天趣パライゾ


 ―2022.3.14 37歳―

 軽井沢から戻った週明け月曜日、匂い立つほど奥さんの気配がする優羽ゆうからのホワイトデーの贈り物に、純麗子すみれこの心の奥底はざわざわとさざめく。

可愛いラッピングの中身は中野マルイで買い揃えたとおぼしき様々な洋菓子や和菓子の小分けで、女性社員から人気が高い夫の為に幾つも用意したのだろうと彼女は邪推した。


 優羽にとって『髪切った?』『髪色変えた?』なんていうのは、『お疲れ様です』と同じくらい毎日口にする言葉。

内線電話を掛ける時、『このままずっと声聞いてたいけど、〇〇さんに変わってくれる?』と言ってみたり、何かの用で足を運ぶ際には、『気にしないで、顔が見たかっただけだから』と付け加える。


 どんなに歯の浮くようなセリフでも、誰にでも言ってるんでしょ……と思っても、女性社員からすれば嫌な気はしない。

心がこもっていなくとも、女性扱いされるのは嬉しいもので、彼は行く先々で、年齢・既婚問わず疑似恋愛という媚薬を振り撒く。


 もちろん純麗子も例に漏れず、譲二が言わないような褒め言葉の数々に胸をときめかせた。

門叶とがさんは本当に美人だね』とエレベーターで二人になる度に言われ、お世辞だと忘れかける程に――。

『このエレベーターにカメラさえ付いてなかったらな』なんて言いながら、絶対何もしてこない安心感も彼の魅力なのだろう。


 純麗子には自分の家庭も、相手の家庭も壊すつもりはない。ただ、結実する前の青く煌めく瞬間のみを、感じ続けていたいだけだ。

然れど自分の夫である事を誇示し、妻の存在感をありありと見せつけられるようなお返しに対し、平静でいられなかった自分へ不安を覚えた。


 会社からの帰り道、自宅マンションに程近い横断歩道でいつきを見かけた純麗子は、気付かない振りをして通り過ぎようとする。

「えっ?門叶とがさん?」


「あっ、永瀬さん?」

結局声を掛けられてしまった彼女は、わざと驚いた。


「もしかして同じ電車に乗ってたのかな?家この辺ですか?」と聞く彼は、義姉と同じマンションに住んでいる事を知らない。


「はい。永瀬さんもこの辺ですか?」


「いや、俺は板橋です。ホワイトデーなんで、妻の姉にお返しを。あの、実は門叶さんにも渡したかったんですけど、ずっと会議に入られてたみたいで、会えなくて。まさかこんな所でね。あっ、これ……」

彼は提げていた2つの紙袋の内、ピンク色の方をぎこちなく差し出す。


「ありがとうございます」

場所が場所じゃなければもう少し喜んだのだろうが、彼女は人目が気になり、不自然にならないくらいの早足で家路を急いだ。


「女性にプレゼントとかしないので、何が良いか分からなくて。すごくすごく迷いました。姉のは毎年同じで」と、L'OCCITANEロクシタンのショッパーをくいっと上げる。


 エントランスの前に着くと、同じマンションだと知られたくない純麗子はそのまま別れ、地下駐車場へと歩いて入って行った。


 高層階用エレベーターの前で待っていると、急に肩を叩かれる。驚いて振り返ると義弟の敬三がニヤリと笑い立っていた。

「今日は車?」

「あっ、はい」

色々と説明するのは面倒だと感じ、車ということにする。


「乗り心地はどう?」

「とても快適です。ありがとうございます」

「それは良かった。で、誰?あの男」

見られていた――。

純麗子は焦りを感じ取られないように、

「なんだ……、見てたのにわざわざ車か聞いたんですか?あの方は会社の先輩です」とエレベーターに乗り込みながら答えた。


「誤魔化すかどうか試したんだよ。エントランスから入らず、駐車場に降りるなんて怪しいからね」


「義理のお姉さんがこちらに住んでらして。お姉さんは総一郎さん宅とも仲が良いみたいで。色々繋がりとか知られたくないだけですよ」


「へぇー」と言う彼の視線が紙袋に降りた事に気付く。

「あっ、これは……」

口籠る純麗子の肩に手を置き、代わりに敬三が続けた。

「ホワイトデー。

バレンタインあげたんだ。総一郎と仲良いとか知ってんなら、もう繋がりも何もバレてんじゃないの?」


「いや……、話の流れで、義理のお姉さんの旦那さんがYouTuberの矢倉さんだって聞いたんです。それで自分の中で繋がっただけで」

純麗子が“矢倉”という名を出した途端、敬三はゆっくりと数回頷く。


「あぁー、YouTuberっていうか有名ソムリエだよね。そういうことか。あっ、ちょっとここで降りて?渡したいものあるから寄ってってよ」と手を引き、52階の彼の部屋へ入るよう促した。


 渡したいものがあると言いながら、彼はイタリアから取り寄せたというコーヒーマシンにミルクをセットし始める。

「さっきの男となんかあるよねぇ。だって譲二ってつまんないでしょ?ベッドの上でもオペみたいに順序通りワンパターンなんじゃない?どうせ」

何も言葉を返せなくなる純麗子に、

「ハハッ――、図星か……」と笑った。

マシンを眺める背中に、カウンターチェアから「本当に何もないですよ」と嘘をつく。


「どっちでもいいよ、意地悪しただけ。

まぁ、総一郎と譲二は真面目だかんねー。

俺らは幼稚園から大学までずっと一緒だったけど、周りからは『お兄様達はご立派なのに』とか言われてうざかったなぁ。

総一郎なんて大学の交流会で知り合った薬学部の雪花せつか一筋で、30過ぎまで付き合って結婚だろ?譲二も医学の事しか頭になくて、ようやく出来た彼女と即結婚……、俺は絶対やだねー。一生女とは遊びでいたいよ」


 敬三は自分のカップに口を付けながら、純麗子の前にもカップを置いた。

ふんわりとしたミルクフォームと瞬間的ににらめっこする純麗子に、

「あっ、カプチーノに見えるけど、それアーモンドミルクの抹茶ラテだから」と微笑む。

彼女がコーヒーも牛乳も苦手な事を覚えていたのだろう。


 彼はローテーブルにカップを置き、スッとソファに腰を落ち着けると、急に真剣な表情で少し離れたカウンターへ視線を戻した。


「――あのさ、“フォルスストロベリー”って聞いた事ある?」


 ――!!







 この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。

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