Anh.22『悲しみと涙のうちに生まれて』

 ―第5場―

艶羨えんせん二豎にじゅ楼閣ろうかく


 ―2022.2.28 37歳―

 譲二の胸板に顔をうずめた状態で覚醒した。彼が純麗子すみれこの寝室で眠っているという事は、そういう事だ。

私がグッと力を込めて抱き締めると、眠い目をこすりながらも彼は穏やかな声で「どうしたの?」と尋ね、額にそっとキスをくれる。そんな優しさに甘え、彼にとっての「もう一回」を求めた。

彼が見ている私は、“純麗子”なのだとしても、……愛しい腕に抱かれたい。自分でも恐ろしい程、深い欲望の闇に飲み込まれてゆく。


 譲二が小さく寝息を立て始めた頃、走馬灯を見た日から1ヶ月が経過した今になって、始まりの日である2月1日の記憶がアップデートされた。


純麗子すみれこさん――」

マンションの駐車場で不意に背後から声が掛かる。振り返ると、車から降りたばかりの義兄が手を振っていた。コートを羽織ろうとしている妻を残し、長い足でスタスタと純麗子の車に近づいてくる。

「お久しぶりです、総一郎さん。お子さん達は?」


「もう6年生と4年生だからね。最近は誘っても付いてこないよ」と総一郎は答えながらロックをしたのか、真っ白なカイエンが軽快にアンサーバックする。


「そっか。お留守番できるんだ」と、甥姪せいてつの成長に目を細めながらも、

『東京の金持ちはベンツやのうてポルシェに乗るらしいわ。せやから東京はポルシェばっかりでベンツは走ってへん』という横矢の与太話が、彼女の脳裏をかすめていった。


 総一郎は譲二と違って、車や時計然り、いつも高級品に身を包んでいる印象だ。

父が理事長を務める北青山の有名私立病院の院長に就任した事もあり、少し派手さは落としたようだが……。


「敬三にもらったんでしょ?」と、総一郎はインフィニティQ60を指差す。

譲二はタクシーしか使わず、純麗子もほぼ電車を利用しているが、末の弟が最近不要になった車をくれたのだ。

コストコへ行く時は便利なのだが、あらゆる施設がマンションに併設されている為、二人は大して必要性を感じていない。


「おい、走るなよ……」

小走りで駆け寄ってくる妻を叱りながら、

「――実は、3人目がお腹にいて」と総一郎は嬉しそうに微笑む。

「これくらい大丈夫よ」

兄嫁の雪花せつかは呆れた顔を見せた後、

「私も今年で40になるし悩んだんだけど、やっぱり産むことにしたのよ」と照れくさそうに目を伏せた。


『何で望んでも無い子のとこには来て、望んでるもんのとこには来いひんのやろねぇ』

突然、純麗子の脳内で沙織の怨嗟えんさが再演され、目の前が煙草の煙で覆われたように白くなる。


 部屋までどうやって辿り着いたのかすら、彼女は覚えておらず、生鮮食品の入った買い物袋も床に放置されたままだ。

泣き腫らした醜い顔が映る鏡を睨み付け、力無くドレッサーに突っ伏す。

そこで、彼女の記憶は途切れた――。


 ―2022.3.12 37歳―

 土日の休みに旅行しようと譲二が提案し、二人は軽井沢の実家を訪れた。

『樫坂屋旅館』は初代が40歳の時に創業した歴史から、40歳で後を継ぐ慣わしがある。

5代目となる頼彦の代替わりの年であった2020年の年明け早々に、御祝いのため里帰りしたっきり、世情をかんがみ帰れていなかった純麗子を気遣っての事だった。


 こんな時間が作れるようになったのも、譲二が医局でのランクをアップさせたからだろう。

准教授となり、過酷な長時間労働や頻回の当直業務から解放された代わりに、論文執筆等に時間を割くことは増えたが。

とは言え、常にオンコールに備えていた頃に比べれば、幾分か楽になったのかもしれない。

先端医療の提供と、最新医療の研究や教育に携わりたい意志で大学病院に残った彼にとっては、どちらにせよ全てが有意義な時間だ。


「体調はどう?」と彼女の母 なつみは娘の耳元で心配そうに囁く。

「大丈夫よ。もう10年以上も再発してないんだから」


「でも、精神科に掛かってるって……」


「あぁ、あれはもう平気。忘れてた」と彼女は、はたと思い出したように呟いた。


 流れ込んできた記憶によると、彼女は強迫性障害と診断されていたようだ。

心配症や潔癖症は元々だが、鍵をかけたか何度も何度も確認したり、ウイルスや細菌などの汚染恐怖から来る洗浄強迫が益々過剰になった挙句、譲二にもいるようになり受診に至る。


 治療の中で、併発する病も見つかった。

例えば自分の匂いが他人に迷惑をかけていると極端に思い込む“自臭症”や、幻嗅げんきゅうを起こす“異臭症”。

彼女の場合だと、焦げたような匂いや煙臭さを数秒感じては消えるというのが異臭症の主な症状で、焦げた匂いを感じる度に、火事になるかもしれないと、キッチン周りや家中のコンセントを嗅ぎ回る程だった。

しかし、抱えていた症状に名前が付いた事で不安は和らぎ、幻嗅げんきゅうはみるみる減り、今は起きてもあまり気にしなくなっている。


 強迫性障害が難儀なのは、本人の辛さは勿論だが、家族の方が参ってしまう事。

彼女も折りにつけ『何か忘れてる気がする……』『大丈夫かな?』と、譲二に確かめ、その度に譲二は嫌な顔一つせず『大丈夫。スマホと財布さえあれば、何とかなる』『忘れた事に気付いた時に考え始めても遅くない。大丈夫だよ』と彼女を落ち着かせた。

譲二の理解が無ければ、互いに疲弊し切っていただろう。


 純麗子は譲二に対して何の不満も無く、むしろ感謝しかない。家事もランドリーサービスやハウスクリーニングサービスを利用し、何不自由無い生活を送らせてもらっている。


 若手の医師は過重労働の疲れから、仮眠室で生活しているのかと思う程、病院に張り付く事も多いが、彼はきちんと職務を全うしつつ、家に帰らない日が続く事は無かった。

タクシーで5〜6分の距離を、すぐに戻る事になろうとも、食事、入浴、仮眠は、結婚当初からなるべく自宅で行うようにしている。

彼女が愛されているのは、嫌になる程明明白白だ。

譲二は持てる愛の全てを彼女に注ぎ込み、安心と信頼を与え続けているのだから。

しかし彼女の想いは違う。


『ただの一つも不満はないが、たった一つのときめきもない――』

譲二に対する純麗子の冷たい思念が、グサリと私の心に突き刺さった。





 この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。

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